六角の激震と怨恨

近江国・観音寺城。


少し時は遡り、申の刻(午後4時頃)。六角家の定期評定が行われる大広間は、異様な空気に包まれていた。


「な、何? もう一度申してみよ!」


居並ぶ重臣たちの報告に対する質疑を、欠伸を噛み殺した六角義賢が退屈そうに聞いていると、いきなり全身に痛々しい傷を負った伝令兵が現れ、信じがたい報告をしたのだ。


「お味方は大敗を喫し、四郎様は討死されましてございまする」


義賢も、「六角六宿老」の面々も、誰一人として六角家の勝利を疑う者はいなかった。だからこそ「何を戯けた事を言っているのか」と鼻で嘲笑ってしまうほどに、現実感のない話としか受け止められなかった。


しかし、伝令兵の口からは先ほどと一言一句違わずに再び残酷な一言が告げられる。


上座に最も近い下座の最前列に座る蒲生定秀は、耳を疑いながらも思案していた。もちろん定秀は正吉郎が秘める潜在能力は極めて高いと評価していたが、それを考慮した上でも今回の六角軍の勝利は揺るぎようのないものであった。


(いくら正吉郎が優秀であっても、寺倉家の動員兵力から考えれば、2千の兵に太刀打ちできるはずなどないが、大将を討つほどの圧倒的な戦を繰り広げたとでも言うのか? とんだ見込み違いではないか!)


「出鱈目を申すな!」


義賢は烈火のごとく紅潮した顔で伝令兵を怒鳴りつけ、今にも刀を抜いて伝令兵を無礼討ちしそうな主君を側近が必死で抑えていた。対照的に重臣たちの顔は一様に青褪めていた。


「……我が軍の被害は?」


苛立ちを隠さない義賢を横目にしながら、定秀はあくまで冷静な表情を崩さず、伝令兵に問い掛ける。


「はっ。帰還した兵は1400余り、その内300が重傷者にございまする」


「なっ、500以上の兵が討死したのか! 惨敗ではないか!」


普通の戦では劣勢になると逃げ出す雑兵が多いので、軍勢の四分の一もの兵が戦死することはない。さすがの定秀も思わず冷静さの仮面が外れてしまう。


すると、定秀の向かいに座る後藤賢秀が声を発した。


「寺倉の被害は?」


「……ほぼ皆無にございまする」


その言葉に、その場にいる全員が耳を疑った。


「何だと! 左様なことなどあるはずなかろう! 此奴は寺倉の手の者に違いない。即刻、首を刎ねよ!」


義賢が側近の制止を振り切りながら怒鳴りつけると、そこへ現れたのは副将の平井定武であった。


「この者の申すことは全て真にございまする」


乾いた血を垂らした顔の定武は、大広間に響き渡る声で明瞭に告げた。


「右兵衛尉殿。貴殿が付いていながら、何故、左様な結果を招いたのだ?」


後藤賢秀の隣に座る進藤賢盛が努めて平静な態度で定武に問い質す。


「まず始めは寺倉郷に向かう途中の街道で両側の山の斜面から凄まじい数の投石に襲われ申した。狭い道で突然の事態であった故、混乱した兵たちは一目散に前へ前へと逃げ申した。そして……」


「そして?」


「……それが、その先の何もないはずの所に大きな湖があったのでござる」


定武の予想外の説明に、目賀田忠朝の低い声が響く。


「湖だと? あの山中は犬上川が流れておるだけで、湖などある訳がなかろう!」


「いえ、あれは間違いなく湖でござれば、四郎様と某は呆然と湖を見つめましてござる。対馬守殿、物見からは湖があるとは聞いてはおりませなんだぞ」


そう言って定武が睨みつける先には、甲賀衆を束ねる三雲定持がいた。


「左様な戯れ言など、某の知るはずもござらぬ」


「何だと!」


そっぽを向いて答える三雲定持に、定武が怒りの表情を向けると、後藤賢秀が仲裁に入る。


「待たれよ。して、右兵衛尉殿の申すとおり湖があったとして、それで如何したのだ?」


「湖岸は傾斜が急で人や馬は通れず、引き返して北側に向かうべきか思案しておると、湖の奥から小舟の船団が現れ、鉄砲や弓矢で攻撃してきたのでござる」


「右兵衛尉! 大人しく聞いておれば、左様な言い訳で騙せると思うてか!」


癇癪を起こす義賢に重臣たちは眉を顰め、諫めようとする者はいない。


「左京大夫様。これは真の話にございます。今からでも物見を送れば真だと分かるはずにございます。もし嘘であれば、某は腹を切ってお詫びいたしまする」


「くっ……」


「右兵衛尉殿。構わぬ。続けてくれ」


蒲生定秀はもはや義賢の存在を無視し、平井定武に向き直って続きを促す。


「我らは湖上からの攻撃を防ぐことも叶わず、四郎様は撤退を命じられました」


「やむを得ぬ仕儀であろうな。して、四郎様は如何なされたのだ?」


「街道を引き返すと再び投石攻撃を浴び、もはや総崩れとなった我らは、全力で街道を通り抜けようと馬を駆けましてござる。ところがその時、街道の両側の木の陰から鉄砲の一斉射撃を受けましてござる。鉄砲は騎馬の将兵を狙い撃っており、四郎様は運悪く銃弾を受けて落馬されて亡くなられ申した……」


あまりに詳細な定武の説明に、義賢も口を噤むしかなかった。


(なるほど、正吉郎は領地経営だけでなく、軍略の才もあったか。誠に恐るべき天賦の才よ)


間違いなく正吉郎の考えた戦術だと見抜いた蒲生定秀は、優れた軍略家の才能に戦慄した。


他の重臣たちも寺倉軍の鮮やかな戦術に言葉がなかった。これでは誰が出陣したところで結果は同じだった。六角家の楽勝どころか、寺倉家の完勝が決まっていた戦だったのだ。


「くそっ! ……おい、貴様ら! 出陣するぞ! 戦の支度をせい!」


義賢は決然と立ち上がると、怨嗟を剥き出しにした大声で重臣たちに喚き散らした。


「出陣して如何するのですか?」


後藤賢豊が呆れたような冷たい声で出陣を急かす義賢に訊ねる。


「決まっておる! 四郎の敵討ちだ。寺倉の息の根を止めるのだ!」


逆上した義賢の言葉に「六角六宿老」の全員が『やれやれ』というように首を左右に振ると、蒲生定秀が子供を諭すような口調で告げる。


「なりませぬ。此度の敗北はすぐさま畿内中に伝わりましょう。さすれば、三好が攻め込む好機と考えるのは必定にございます。さらに、寺倉は織田家の婚姻同盟の相手ですぞ。上総介殿が四郎様ではなく、寺倉に妹御を嫁がせるのです。どちらに味方するか、言わずともお分かりかと存じます」


再び寺倉家を攻めれば、織田家と三好家に東西から挟撃される恐れが高く、それに呼応して独立を企む国人が出て来る可能性もある。そうなれば六角家は瞬く間に滅亡へと向かいかねない。それだけは絶対に避けなければならないのは義賢の暗愚な頭でも理解できた。


「……」


さらに後藤賢豊が言葉を繋ぐ。


「四郎様を失くされたのはご無念にございますが、ここは捲土重来を期して、寺倉と速やかに和睦し、四郎様のご遺体を引き取って弔うのが先決かと存じまする」


「くっ、……無念だ。但馬守。寺倉との交渉は貴様に任せる」


義賢は賢豊に和平交渉を任せると、席を立って奥の間に引き上げた。


(四郎様が亡くなられて、次期当主は次郎様(六角義定)が決定的になったな。どうせ傀儡ではあるが、四郎様を推してきた蒲生家の立場は拙いな)


たとえ六角義定が傀儡であっても蒲生家の肩身が狭くなるのは間違いない。後藤賢豊や三雲定持など義治によって意図的に遠ざけられていた面々が推していた義定は、当然その二人を最も重用する。


義定は元々家督を継ぐ立場になかったが、義治の浅慮で愚かな行いが義定の台頭を許した。本来ならば意図的に宿老を遠ざけるなどあってはならないことだ。六角義賢はそれでも長男に家督を継がせたかった。


家督を譲ると言っても、義賢は実権まで譲るつもりはなかった。しかしそのまま義治に家督を譲れば、家中が二分する恐れがあった。そこで義治の立場を盤石とし、国内外での名声を高めるため、寺倉家の征伐に義治を大将として送ったのだ。


蒲生定秀は六角家中における地位低下を想像して身震いする。六角家に比肩する実力を持っていた蒲生家の力が削がれかねない事態だった。


(……そうなる前に手を打つべきか)


静かに瞑目していた定秀は、密かにある決意を固めていた。

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