寺倉郷防衛計画② ダム湖

「だが、順蔵。素破に対する差別は一朝一夕には無くならぬもの故、あまり期待はするなよ。家臣たちには昨日私が命じた手前、表向きは差別せぬであろうが、領民たちの差別意識は根深いであろう。差別を禁じる法度を作ったところで、人の心根は容易く変わるものではない故な」


俺がそう言うと、5人は頷いている。ちょうどいい機会だ。俺の思想や根底にある価値観を皆に伝えておくとしよう。


「話のついでに皆に訊ねるが、人が人を差別するようになった始まりは何だと思う?」


「それは古の為政者が統治しやすくするために始めたのではないでしょうか?」


光秀がすぐに答えるが、それは正しくない。


「いや違うぞ、十兵衛。差別を始めたのは為政者ではない。一般の民衆だ。大昔は皆が平等だった。やがて力の強い者が土豪になり、土豪はやがて公家や武士になった。民衆は強者に年貢を搾取される一方で不満が溜まった。人の心は弱い。故に、民衆は新たな弱者を作り出し、優越感に浸ることにより不満の捌け口としたのだ。怪我や障害を負う者、年老いた者、汚れ仕事に就く者。民衆は様々な理由で弱者を作った。始めは弱者個人へのいじめであったが、やがては弱者の集団を差別するようになった。元は山の民であった素破や臭い獣の皮を鞣す河原者、諸国を流浪する旅芸人などだ。武士も銭を卑しい物と考え、銭儲けをする商人を見下しておるのと同じだ。そして、古の為政者は民衆の差別意識を後追いで認め、自分たちに都合良く利用してきたに過ぎないのだ。どうだ、理解したか?」


史実で徳川幕府が定めた「士農工商」の身分制度は何も目新しいものではない。現時点でも武士や民衆には同じような意識はほぼ存在している。徳川幕府はそれを明確に法制化して、幕府の統治に利用しただけに過ぎない。


「はっ、正吉郎様の仰るとおりにて、誠に慧眼の至りに存じまする」


「だが、生まれたばかりの赤子や幼い童子は純真無垢だ。偏見や差別は親や大人が教え、受け継がれておるのだ。ならば、差別意識の根深い大人ではなく、幼き者から少しずつ差別を減らしていくしかなかろう。石投げで遊ぶ童に印地の上手い素破が手ほどきすれば、童は素直に素破を尊敬し、差別意識が薄れていくであろう。そして、10年も経てば童は子を持つ親となり、その子の差別意識はさらに薄まるであろう。気の長い道程だが、地道にやっていくしかない。故に、差別を失くすには順蔵の子や孫の代まで掛かるのだ」


「ははっ、正吉郎様。良く分かりました。子や孫が虐げられない世とするために、我らはできることを為す所存にございまする」


「うむ。そうだな、順蔵」


「人の業とは誠に恐ろしいものですな」


堀秀基がそう呟くと、他の4人も黙って頷いている。さて、話が長々と脱線してしまった。


「では、話を元に戻すとしよう。……他の策としては、そうだな。板ヶ谷を流れる犬上川を寺倉郷の南側で堰き止めるとしよう」


「川を堰き止める、でございますか? 正吉郎様、それはまた突飛な話ですが、どのような意図にございますか?」


寺倉郷のある板ヶ谷には南から北へ犬上川が流れているが、寺倉郷の南側で川を堰き止めると、人工の湖、つまりダム湖が出来る。前世では板ヶ谷には大きな犬上ダム湖があった記憶がある。


「今は真冬で犬上川の水量は僅かだが、春になれば雪解けの水で水量も大きく増える。その川の水を堰き止めれば、大きな湖が出来るはずだ。南の砦を突破した六角軍は、まさかこの山奥に湖があるとは思いも寄らぬはずだ。湖の手前で足止めを食らうことになり、その間に弓や鉄砲、印地などで敵兵を討ち減らしていくのだ」


「なるほど、それは素晴らしい策にございますな。六角軍を寺倉郷の中に入れさせずに撃退するという目的に適った戦術かと存じまする」


「確かに明智殿の申すとおりであるな。六角と正面から戦えぬのはちと残念ではござるが、兵力差を考えれば止むを得ませぬな」


光秀が賛同すると、大倉久秀が残念そうに言う。久秀は武闘派だから仕方ないな。


「ああ。元より兵力差は歴然だ。六角軍に真正面からぶつかり合うなど論外、愚の骨頂だ。ずる賢く戦わねば寡兵が勝つのは到底不可能だ。手段を選んではおられぬ。たとえ卑怯な策であろうが、戦は勝たねばならぬ。敗者はすべてを失うのだ。良いな、源四郎」


「ははっ、仰るとおりにございまする」


「労賃と温かい食事を用意し、冬の間に常備兵や領民の男たちを動員して堤を築くのだ。その間、南の街道は雪崩が起きたという口実で南の砦で通行止めにし、決して六角に悟られぬようにせよ。六角に湖があるのを悟られ、北の街道に迂回されれば一巻の終わり故な。それに六角軍を撃退できた後は、湖は溜池として夏の渇水時にも役に立つであろう」


「「「ははっ」」」


「正吉郎様。六角軍を撃退できた後の話ですが、湖ができますと南の街道が湖の底に沈んで商人が通行できなくなります。寺倉郷は商いで成り立っている町にございます故、商人の足は如何なさるのですか?」


そこへ鋭い質問を発したのは浅井巖應だ。さすがは内政担当官だな。


「ああ、湖には渡し舟を設けるつもりだ」


「その渡し舟は如何にして手に入れるのでございますか?」


「そこで巖應、お主から浅井新九郎殿に頼んでくれぬか? 今回の六角との戦では浅井家に援軍は求めぬ。その代わりとして浅井家から古い川舟を貰い受けたいとな。できれば六角との戦で湖上の舟からも攻撃するため、春までに数多くの川舟が欲しいと頼んでくれ。できるか?」


浅井家とは相互支援を約束した秘密の同盟を結んだばかりだ。戦場が鎌刃城ならば六角軍の背後から攻撃してもらう手もあるが、今回は狭い山間の寺倉郷が舞台となるのはほぼ間違いない。浅井家に援軍を頼んだところで、援軍を上手く活用するには寺倉郷の中で野戦をするしかない。それでは寺倉郷の中に入れずに撃退するという基本方針には合致しない。ならば、援軍を求める代わりに物資の支援を頼む方が合理的だ。


「はっ、お安い御用にございます。川舟どころか、大津まで行けるような大きな船でも手に入れて参りますぞ」


「いや、淡海を行き交うような大きな船では駄目だ。淡海から犬上川を遡って寺倉郷まで運べる大きさの川舟でなければならぬ。小さい川舟でも数を揃えれば、それなりの人数を乗せられるであろう。六角との戦の後は渡し舟として使い、渡し舟を漕ぐ役目を移民たちに任せれば、良い稼ぎ口になるであろう」


大きな船は犬上川を遡って運んでこれないため、使うのは必然的に川舟となる。だが、湖上から弓矢や鉄砲で攻撃できたら、六角軍を一方的に射撃の的にできて面白いだろうな、ふふっ。


「ははっ、お任せくだされ。必ずや手に入れて参りまする」


そうだ。援軍の代わりの要求ならば、川舟だけでは物足りないな。浅井賢政には他にも要求するとしよう。実の父親からの頼みだ。賢政も簡単には断れないだろうしな。

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