越前訪問② 逃走と塞翁が馬

朝倉家は元々、越前守護の斯波家に仕える甲斐家、織田家に次ぐ三守護代の第三席だったが、100年ほど前の7代当主・朝倉英林孝景の代に斯波家の没落と共に自立し、越前守護に任命されて一乗谷に城を築き、越前を支配する戦国大名となった。つまりは朝倉家も下剋上によって成り上がった訳だ。


だが、10年前に10代当主の朝倉宗淳孝景が亡くなり、今の11代当主・朝倉義景が後を継いでからは徐々にその勢威を落とし、今では畿内に進出するどころか、加賀一向一揆の侵攻から越前を守るのに必死という苦しい状況に追い込まれている。


朝倉家が苦境に追い込まれた理由の一つとして、3年前に"朝倉家の守り神"とも言われた朝倉宗滴が亡くなったのは確かに大きな要因だろう。だが、宗滴は80歳目前で往生を遂げたのだから、宗滴が死ぬまでに文武両面の後継者となる人材を育てて来なかった朝倉家の怠慢と言うしかないな。


史実では、朝倉家はこれから坂道を転げ落ちるように衰退し、15年後に元は同じ越前守護代だった織田家の庶流である織田信長に滅ぼされるのは歴史の皮肉とも言えるが、この世界で朝倉家がどのような運命を辿るのかは不明だ。とは言っても、現時点の朝倉家の力は依然として、寺倉家とは比較にならないほど大きいのは紛れもない事実だ。


「藤次郎、私が一乗谷を訪ねるのは朝倉家には伝えたのだな?」


「はい。先ほど一乗谷に着いて童に道を尋ねた際に、童に駄賃を与えて朝倉屋敷に文を届けさせました」


一乗谷は一乗谷城の城下町だが、一乗谷城は戦の際に籠城するための山城であり、朝倉家一族は普段は一乗谷の奥の平地にある朝倉屋敷で生活し、政務を行っているのだ。まあ、山城での生活は何かと不便が多いから当然だな。武田信玄も躑躅が崎館で生活しているように、日常生活や政務を行う屋敷と、戦時に籠城する城を使い分けている戦国大名は珍しくない。


「そうか。ならば、もうすぐ朝倉屋敷が見えてくるな」


平次郎の店を出てから一乗谷の街並みを眺めながらゆっくりと歩いて10分ほど経った頃、ようやく朝倉屋敷の門に辿り着いた。城門には衛兵が何人か立っており、大倉久秀が衛兵の一人に声を掛けた。


「我々は近江国から参った寺倉家の者だ。朝倉左衛門督様にご挨拶に伺ったのだが、案内してもらえぬだろうか?」


「寺倉家だと? おい、此奴らは寺倉の手の者だそうだ! ひっ捕らえよ!」


衛兵が後ろを向いて声を掛けると、屋敷の方から槍や刀を持った兵たちが俺たちの方へと向かってくるのが見える。


「何だと! 我らは挨拶に参っただけだ! 斯様な仕打ちを受ける謂れはないぞ!」


「寺倉の者が来たら即刻捕らえよと、左衛門督様のご命令だ!」


「正吉郎様、逃げましょう。『君子危うきに近寄らず』と申しまする」


勘兵衛が慌てて告げると、久秀が俺の手首を掴んで駆け出し、俺たちは来た道を引き返した。


「何故だ。何故我らが追われるのだ?」


「理由は分かりませぬが、我らが朝倉家に追われているのは事実。今はとにかく逃げましょう」


「ああ、そうだな」


「向こうへ逃げたぞ! 追えぇー!」


後ろの方から俺たちを追いかけて来る兵たちの声が聞こえてくる。俺たちは大通りの人混みを縫いながら走り続けていると、その途中で突然、正面から声が掛かった。


「寺倉様、ご無事にございましたか!」


「おぉ、平次郎か!」


「詳しい話は後ほど。大通りでは追手にすぐ捕まります故、路地裏に逃げましょう!」


平次郎の先導で家の間の小道を通って狭い路地裏に入り、数分走り続けると、少し先の民家の角から見知らぬ男が此方に来るように手招きするのが見えた。


「朝倉家の追手か?」


「いえ、追手ではないようです。ただ、大通りに面した私の店に向かうのは追手に見つかる恐れがございます故、何者かは存じませぬが、今はあの男についていくのが賢明かと存じまする」


「罠やもしれませぬぞ」


平次郎の言葉に久秀が懸念する声を発する。


「ふっ、久秀がおる故、大丈夫であろう?」


「……分かり申した。某が命に代えても正吉郎様を必ずお守りいたしまする」


俺たちは手招きする謎の男の後を追って、さらに路地の奥へと入っていく。


「此方です!」


男の小さい声が俺たちを促した。路地を抜けると視界が開けた。大通りと平行に走る東の裏通りに出たのだ。


「「彼方にいたぞ!」」


しかし、間もなく追手の声が南の方から迫ってきた。


「順蔵!」


「はっ。金次、行けっ!」


男の声にどこからともなく数人の男たちが現れると、追手を足止めするために向かっていくのが見えた。


「さっ、今の内にございます!」


俺たちは彼らの後ろ姿を見送りながら無事を祈ると、謎の男の後について、来たのとは反対側の路地に入っていく。


裏通りの手前の路地よりも密集して、迷路のように入り組んだ路地を数分ほど小走りに進むと、やがてすえたドブの臭いが漂い始めた。一見すればここが貧民街なのは明らかで、余所者は絶対に迷子になりそうだった。


「ここまで来ればもう安全にございます。さっ、どうぞ此方へお入りくだされ」


男は何の変哲もない寂れた民家に俺たちを招き入れた。その家は間口は狭いが、中に入ると奥行は広く、意外と広い家だった。


「荒ら家で恐縮ですが、どうぞお上がり下され。ここでしばらく身を潜めておれば、追手もその内に諦めるでしょう」


「かたじけない。では、お言葉に甘えさせていただこう」


俺たち5人が男の家に上がらせてもらうと、家の奥から一人の女性が出迎えた。


「お帰りなさいませ」


「ああ、今帰った。済まないが、客人を5人お連れした」


「あらまあ、では何のおもてなしもできませんが、温かい白湯でもご用意しますね」


そう言って女性は奥へと姿を消した。男の妻だろう。奥からは赤ん坊の泣き声が聞こえる。


「危ないところを助けていただき、誠にかたじけない」


腰を下ろした俺は、男に感謝を表して頭を下げた。他の4人も俺に続いている。


「いえいえ、とんでもございませぬ。どう見ても皆様方は悪人には見えませんでした故、お節介ながらお救けしたまでにございまする」


そう言いながら顔を左右に振る男は、穏やかで善良そうな顔をしている。


「申し遅れたが、私は近江国から参った寺倉正吉郎と申す。この3名は私の供の者たちだ」


「私は慶松平次郎と申します。慶松屋の三男でございます」


「慶松屋は無論存じておりますが、寺倉と言えば……あの寺倉家にございますか?」


俺と平次郎が名乗ると、男は寺倉家の名前に驚いていた。


「寺倉家をご存知か?」


「無論にございます。巷では返碁が大層評判で、寺倉家の名は童でも存じておりまする。……申し遅れましたが、私は明智十兵衛と申す一介の浪人にございまする。お見知りおきくだされ」


明智十兵衛という名前を耳にした瞬間、俺は固まってしまった。ここで明智光秀に出会うとは何という幸運か! 『人間万事塞翁が馬』とは正にこの事だな。俺は恋人に再会したかのような熱い目で、目の前の光秀の顔を凝視した。


「如何なされましたか? 私の顔に何か?」


「いや、そうではない。少し驚いただけだ。そうか、貴殿が、明智……十兵衛殿か……」


さすがに、名前を聞いていきなり『俺の家臣になってくれ』と言うのは非常識極まりない。仕官を誘うのは、まずはじっくりと会話をして光秀の為人をよく把握してからでも遅くはないだろう。


待望の対面を果たした俺は、笑みを浮かべて光秀と向かい合った。

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