江北の麒麟児

近江国・小谷城。


11月29日、申の刻(午後4時)。


「申し上げます! 昨夜、鎌刃城が落とされましてございまする!!」


「何? 鎌刃城が落とされただと? 新庄遠江守は何をしておったのだ!」


小谷城で叛乱の戦後処理に忙殺されていた浅井久政は、東山道を守る戦略的要衝である鎌刃城が落とされたとの報告を受け、驚きを隠せないでいた。


「深夜の奇襲であった上、遠江守殿は鉄砲により狙撃されたとのことにございます。守将を失った城兵は4倍以上の敵兵に攻め込まれ、敵の軍門に降ったとの由にございまする」


「高宮の戦い」で捕虜となった久政が小谷城に帰還してから4日後の正に青天の霹靂であった。ただでさえ浅井家は六角家に領地を大きく召し上げられ、家臣や配下の国人たちの慰撫や領地替えなど戦後処理に追われ、久政には経済的にも心理的にも余裕がなかった。


「して、それが真とすれば一体、何者の企てだ? もしや斎藤家の手の者か?」


久政のすぐ近くで政務を手伝っていた嫡男の猿夜叉丸が、苛立ちを露わにして伝令に詰問する。


「いえ、それが、蒲生家の家臣である寺倉家とのことにございまする」


その名前を聞いた瞬間、久政は反射的にビクッと体を震わせ、身の毛がよだつのを感じた。


「寺倉、だと!」


「寺倉と言えば近年、農具や返碁を売り出して、頓に名を上げている国人ではありませぬか。浅井家は再び六角家に従属した以上、蒲生家の家臣ならば味方のはずにございます。何故、その寺倉が鎌刃城を攻めたのか、合点が参りませぬ」


伝令が去った後、久政が真っ青な顔色をして動揺を露わにしているのを、猿夜叉丸は鋭い眼差しで射貫くと、確信に満ちた口調で父親を詰問するように言葉を続ける。


「父上。何か相当の事情がなければ、斯様なことなど起こるはずはございませぬ。父上が高宮で六角家に捕われた後、観音寺城で何かあったのではございませぬか?」


「……」


久政は14歳の息子に気圧され、目を逸らして黙り込んだ。


「黙っているのは図星ですな。父上、これは御家の一大事にございますぞ! 包み隠さず一切を打ち明けてくだされ!」


「くっ、くぅ。……分かった」


この期に及んで、もはや逃れられないと悟った久政は肩を落とし、小さな声でぼそぼそと真実を語り始めた。


「……地下牢で密かに六角左京大夫に寺倉家の当主を殺せと脅されたのだ。さもなくば一族郎党を根切りにし、浅井家を攻め滅ぼすとな。無論、儂は高宮で一度は死を覚悟した身だ。殺されようとも一向に構わなんだが、お前たち家族や家臣たちを見殺しにはできなかったのだ。儂が死ぬまで隠し通すしかないと……」


「まさか、左様なことが……。それが、それが何を意味するか分かっておられるのですか、父上! 父上のされたことは武士の誇りを捨てた軽佻浮薄な行いなのですぞ! 私は誇りを失うくらいならば、無様に行き永らえたいとは思いませぬ! 死ぬまで隠し通せば済むとは、父上は恥ずかしく思われないのですか!」


猿夜叉丸は六角義賢の脅迫に屈し、武士の誇りを捨てた久政を許せずに痛罵した。


「寺倉家は六角にとっては陪臣。さしずめ六角左京大夫が父上を使って密かに手を下し、浅井家に罪を擦り付けようという魂胆でしょう。私でも分かることを父上が察することができなかったはずはありますまい。左京大夫の思う壺ではございませぬか!」


戦に関しては弱腰な久政だが、それでも猿夜叉丸は心の中では久政を信頼し、認めていた。『小谷城を発展させたのは間違いなく父上なのだ』と。だからこそ、その信頼を裏切られた猿夜叉丸は久政を許せず、怒気を隠さずに声高に叫んだ。


「……」


「左京大夫は傲岸不遜な当主と聞き及んでおります。目下の者が繁栄するのを快く思わないほどの狭量な性格であるのは父上もご存知のはず。浅井家は謀反を起こしたものの六角家に鎮圧され、再び従属下に置かれた。その直後に浅井家の当主が罪のない六角家の陪臣を腹いせに殺したとの噂が広まれば、たとえ御家は存続しようとも浅井家の面目は丸潰れにございます。ご先祖様にも申し訳が立ちませぬ!」


「……」


「それに、左京大夫は専ら政務を宿老たちに任せ、大大名家の当主の器ではございませぬ。おそらくは寺倉家が栄えるのを快く思わない左京大夫が、宿老にも内密に独断で父上に命じたのでしょう。ならば、もはや形だけの当主にすぎない左京大夫の脅しを父上が拒んだところで、左京大夫が従属させたばかりの浅井家を滅ぼせと命じたとしても、六角家の威信を傷つけるとして、宿老たちに止められるはずにございます。まんまと左京大夫の口車に乗せられるとは、余りにも嘆かわしい」


猿夜叉丸は怒涛の勢いで理路整然と久政を責め立てる。その主張は正論であり、久政に反論する余地はなかった。そして己の行動がいかに浅はかであったかを知り、久政の顔は青白く染まり、やがてその目からは涙が溢れ出した。


「私は取り返しのつかぬことをしてしまったのだな……う、ううっ」


「今さら悔やんだところで、殺された者は生き返りませぬ。……父上。鎌刃城を奪われた責任は全て我々にございます。この期に及んで寺倉家を攻めれば、それこそ我らの誇りも地に落ちましょう。ですので、寺倉家とは和睦しなければなりませぬ。ですが、当主を殺された寺倉家の怒りを鎮めるためには、父上には隠居していただき、誠意を以って謝罪するしかございませぬ。よって、これより私が浅井家の当主となりまする。宜しいですね?」


「……あぁ、分かった」


既に心が折れていた久政は、猿夜叉丸の当主交代の圧力に抗えなかった。史実よりも2年早い猿夜叉丸の当主就任であるが、今回は家臣のクーデターによるものではなく、久政の失態により半ば強制ながらも平和的に家督相続が行われることになった。


「おそらく寺倉家も鎌刃城を手に入れたと言えども、一介の国人に過ぎませぬ故、さらなる侵攻は無理でしょう。それに、六角家や主家の蒲生家にも歯向かったのです。浅井家とこれ以上敵対することは望んではいないはずです。そして寺倉家との和睦には当然、父上にも同席していただきます。心より謝罪するのです」


「うむ。それしかあるまいな。寺倉蔵之丞殿は素晴らしい方であった。たとえ脅されたと言えども、愚かにも手を下してしまった儂は武士として、いや人として謝罪せねばなるまい。寺倉家が私の死を望むのであれば、甘んじて受け入れるつもりだ」


自分の過ちを告白した久政は、ようやく内に溜め込んでいた罪悪感から解放され、己の過ちを悔やんでいた。


「私は寺倉家と盟を結び、六角家の打倒を目指します。寺倉家の嫡男、いや新しい当主の寺倉正吉郎殿は"神童"と評判だと聞き及んでおります。おそらく寺倉郷の発展も正吉郎殿の手によるものでしょう。ならば浅井家にとっても必ずや心強き味方となるはず。そして、今度こそ共に仇敵・六角家を討ち果たすのです!」


「もう浅井家の当主は猿夜叉丸だ。全て任せよう」


「では、すぐに元服と家督相続の儀の支度を命じ、寺倉家に文を送ります。そして元服し、当主となり次第、すぐに寺倉家に向かいまする」


「うむ」


こうして2日後の12月1日、元服と同時に浅井家の新当主となった猿夜叉丸改め、浅井新九郎賢政は、寺倉家との和睦の道を探るのであった。

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