暴君の愚計② 毒手

近江国・観音寺城。


「高宮の戦い」が六角家の勝利に終わった翌朝。寺倉家当主・寺倉政秀は、小谷城へ送還される浅井久政の護衛の任を主君の蒲生定秀から命じられる。


六角家の陪臣に過ぎない自分が北近江を治める浅井家当主の護送という大役を任され、自分に命じた定秀も困惑している様子に、政秀は一抹の違和感を拭い去れずにいた。


だが、そんな大役を仰せつかるなど、寺倉家始まって以来の大任である。近頃の寺倉郷の目覚ましい発展が六角義賢の耳にでも入り、評価をいただいたのだろうと、政秀は前向きに捉えていた。


「浅井様、某は寺倉蔵之丞と申します。本日は小谷城までの護衛を務めさせていただきます。道中良しなにお頼み申しまする」


目の前で挨拶する政秀は久政にとって今日が初対面であった。最初に政秀を見た際の第一印象は、至って"凡庸な男"であり、昨夜、六角義賢が話したように領地を大きく繁栄させたという寺倉家の当主だとは到底思えない風貌をしていた。久政はよほど優れた家臣たちに恵まれたのだろうと推測するしかない。


これは、六角義賢に対して蒲生定秀による情報統制が為されていた結果、本当は15歳の嫡男が寺倉郷を繁栄させた立役者だという裏の情報が義賢の耳に入ることがなく、義賢は常識的な判断で寺倉家の当主である政秀が成し遂げたと誤認していたためである。


もちろんこの情報統制は、六角家中で大きな権力を持つ蒲生家だからこそ為し得たことである。そもそも六角家は先代の六角定頼亡き今、蒲生家を始めとする「六角六宿老」によって支えられていると言っても過言ではなく、義賢の耳に届く情報をコントロールすることなど、赤子の手を捻るくらい容易いことであった。


「あ、ああ。……私は浅井宮内少輔久政と申す。こちらこそ宜しくお願いいたす」


自分が殺めなければならない人物が謙虚な態度で辞儀を持って迎えてきたことに、久政は歯切れ悪く名乗りつつも反射的に目を逸らす。そんな久政を怪訝に思うこともなく、政秀は囚われの身の久政を思いやるように哀憫の笑みを浮かべていた。


(このような温厚で善良そうな者が、本当に六角家に仇為すと言うのか? 私にはとてもそうは思えない)


自分に見せる笑みも作り笑いには見えず、六角義賢が暗殺を命じるほどの人物像に久政は疑問を抱き、自分の使命に対する大きな罪悪感に襲われる。


だが、久政が置かれている現状は自分個人の感情でどうにかできることではないほど、追い詰められたものだった。義賢の命令に逆らう行動をすれば浅井家一族は皆殺しにされる。そんな恐怖心から逃れようと、久政はどうにか正気を保っていた。


「では参りましょうか」


政秀はそう言うと、久政を促すように身を翻した。




◇◇◇




一行が観音寺城を出立したのは辰の刻(午前8時)だった。


小谷城までの道程は時間の掛かる陸路ではなく、観音寺城に近い内湊から琵琶湖を船による護送であった。護送される捕虜と護衛の間で特に話をすることがある訳でもなく、一行はやや肌寒い船上から秋の湖上の景色を眺めながら過ごしていた。


久政は刻一刻と時が過ぎるに従い、次から次へと嫌な考えが頭を過ぎり、無駄に思考を重ねていたが、ふと思い立ったように政秀に声を掛けた。


「寺倉殿には跡継ぎはおられるのか?」


「はい。嫡男は正吉郎と申します。親の欲目かもしれませぬが、無才な某とは違い、とても賢い倅でしてな。歳はまだ15ですが、将来が誠に楽しみにございまする」


政秀を殺めた後の寺倉家の行く末を心配しての久政の問いであったが、正吉郎のことを話す政秀の顔は、自慢の息子なのが久政の目にもすぐに分かるほど満面の笑顔であった。


「左様か……。15ならば猿夜叉丸とは1つ違いだな」


「昨日の話では、浅井様の御嫡男には宿老の平井様の姫が嫁がれるそうにございますな」


「ああ、そのようだな……」


浮かない表情で返事をする久政に、政秀は少し拙いことを口にしてしまったと察し、慌てて取り繕うように言葉を繋ぐ。


「誠に僭越ではございますが、六角家の宿老と縁を結べば、浅井家の将来も安泰かと存じまする」


「左様だな。貴殿に気を遣わせてしもうたな」


その後も政秀は沈んだ様子の久政を気に掛けた様子だったが、久政は良心が痛んで話す気にはなれなかった。会話をすれば政秀に情が移ってしまい、使命を果たせなくなる自分が明瞭であったからである。




◇◇◇




そして、運命の時が訪れる。


「浅井様、そろそろ小腹が減っておられましょう。ここらで握り飯をいただくとしましょう」


そう言って政秀が竹皮に包まれた握り飯を差し出すと、久政は手が微かに震えるのを隠しながら受け取った。


「あ、ああ。……気遣い、かたじけない。いただくとしよう」


毒見を兼ねて久政よりも先に握り飯を口にした政秀だったが、程なくして手足の痺れを感じ始めると、やがて力無く倒れ込んだ。


「ぐはっ……。ど、毒が混じっていたのか。浅井様、その握り飯は食べてはなりませぬ。おそらく浅井様を害しようという何者かの仕業にございまする」


政秀は毒の苦しみに耐えながら、必死に護衛の役目を果たそうと、久政に注意を促す。


「寺倉殿、申し訳ござらん。毒を仕込んだのは私なのだ」


そう、久政の腹案は握り飯に身体が痺れる即効性の毒を仕込み、政秀に食わせることであった。早朝に甲賀衆に命じて甲賀に伝わる麻痺毒を入れた握り飯を用意するよう頼んだのである。


「え? ま、まさか浅井様が? 某の命を奪うなど、何故でござるか?」


六角義賢が素破を使って秘密裏に政秀を葬るのではなく、なぜ久政に殺させようとしたのか。それは『六角家に叛乱を起こして敗れた腹いせに、護送途中で久政が護衛役を殺した』と久政に罪を擦りつけようという、義賢の狡猾な思惑によるものであった。


久政が手を下すことにより六角家中、とりわけ寺倉家の主家である蒲生家の憎悪の矛先が浅井家に向くのは間違いなく、『これは浅井家の仕業である』として自分が久政に命じたことは完璧に隠そうという魂胆であった。


弱い立場の自分に汚れ仕事を押し付け、高みの見物を決め込むというのは、卑劣な義賢が考えそうなことだと、久政は心底から義賢を侮蔑し、唾棄を禁じ得なかった。だが、御家を、家族を守るためにはどう足掻こうとも、久政が使命から逃れるのは不可能であった。


「実はだな……。これは六角左京大夫の命令なのだ。陪臣の寺倉家が栄えておるのが生意気で気に食わぬというのが理由だと聞いた」


「……左様でしたか」


「私はお主のような善良な武士を殺したくなどない。だが、私には御家と家族、領民を見捨てることはできぬのだ。誠に済まぬ……。すべては六角左京大夫の命令に抗えなかった私の弱さが原因だ。天の上から私を呪い殺してくれても一向に構わぬ」


せめてもの贖罪をするかのように久政は平伏して謝罪の言葉を口にする。


だが、恐る恐る顔を上げる久政の目に映ったのは、憤怒や憐憫の情などではなく、慈愛の色を浮かべた政秀の穏やかな表情であった。政秀の目に死の恐怖はなく、自身の運命を受け入れ、悟りの境地に達しているかのようであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る