暴君の愚計① 使命
近江国・観音寺城。
その夜、開かれた祝勝会が盛り上がる中、六角義賢は中座すると、一人である場所へと向かっていた。
賑やかな広間とは対照的に、義賢の足音だけが響く階段を地下に降りていくと、その先にあるのは重罪人を収容するための地下牢であった。義賢は幾つもの牢が並ぶ廊下を進むと、ある牢の前で立ち止まった。
「クックック……。無様よのう、左兵衛尉、いや浅井久政よ」
地下牢の中に義賢の声が響く。
この地下牢は天井近くの小さな明かり取りの窓から僅かな光が入るだけの薄暗い場所だが、夜の今は義賢が持つ松明によって明るく照らされていた。その牢の中にいるのは、仮にも北近江の大名だった面影はなく、もはや一介の囚人でしかない浅井久政だった。
「何をしに来た? もう儂と話すことは何もなかろう。それとも処刑か?」
久政は吐き捨てるように言う。この状況で憎き義賢と話をする気にはなれなかったのだ。
「ふん、話があるかは儂が決めることだ。それとも処刑が望みとあらば殺してやるぞ?」
義賢は牢の壁を蹴りつけた。久政の言動の一つ一つが義賢の癪に触るのだ。元来短気な性格だが、これくらいで苛つくようでは、六角家の先行きは暗いだろう。
「……」
久政は義賢を無視するかのように目を瞑り、沈黙を貫いていた。だが、義賢の前から逃げることはできず、義賢の話が耳に入るのを防ぐことはできなかった。
「久政よ。昼間に広間で言うのは控えたが、お前を助命し、浅井家を助ける条件として、一つ使命を与える。言っておくが、拒むのならばお前を処刑し、浅井家を滅ぼすだけだ」
虜囚の身である久政を脅迫するように、義賢は秋霜烈日に告げた。
「……」
「ふっ、黙っておるところを見ると、話を聞く気はあるようだな。実は近頃、蒲生家の家臣に生意気にも商売で銭を稼ぎ、不相応に多くの傭兵を雇っている不届き者がおる。放っておけば乱臣賊子になりかねん。だがそいつは蒲生下野守の家臣故、儂は手を出せぬ。……そこで、お前がそやつを殺すのだ」
初めて義賢の言葉に反応した久政は、ニヤッとほくそ笑む醜悪な顔を隠そうともしない義賢を憎々し気に睨みつける。
「何だ、その反抗的な目は? 言いたいことがあるのならば、言うが良い。この場で打ち首になるやも知れぬがな。ガッハッハ!」
義賢はそう言うと下品な笑い声を地下牢に響かせた。これほどまでの下衆は中々お目には掛かれないだろう。
「ふっ、安心しろ。六角家には甲賀の素破がおる。お前が手を下すまでの段取りは整えてやる」
六角家は義賢の祖父・高頼の代から仕える「甲賀衆」という素破集団を抱えている。甲賀衆と言えば、毒を使って敵を暗殺したり、敵陣に火や煙を放って混乱させたり、と正攻法ではない戦法を駆使して敵を苦しめる、伊賀衆と並ぶ日本屈指の素破集団である。
70年ほど前に足利幕府が行った「六角征伐」に際して、六角家に味方して「鈎の陣」において幕府軍を苦しめた甲賀衆は「甲賀五十三家」と呼ばれ、観音寺城の警備を任されるなど重用され、義賢の父・定頼は甲賀衆の三雲定持を重臣として重用していた。
だが、義賢は身分の低い素破を見下し、都合のいい捨て駒として扱っていた。甲賀衆も味方を暗殺するような汚れ仕事に不満を持つ素破も多かったが、現状では六角家に逆らう力は甲賀衆にはなく、不本意ながらも引き受けるしかなかったのである。
「貴様……。たとえ素破と言えども、味方殺しに利用するつもりか!」
義賢のあまりの下衆さ加減に怒り心頭になった久政は、思わず抗議の声を上げた。
「ふっ、お前は自分の立場を忘れたのか? 始めに言ったが、今すぐお前を処刑し、浅井家を滅ぼすこともできるのだぞ? それが嫌ならば、お前は黙って俺の命令に従うしかないのだ」
「……」
「無論、わざと失敗したり、お前が自害するのは許さぬ。その時は今度こそ浅井の一族郎党を根切りにするぞ。覚えておくが良い。ガッハッハ」
義賢は久政を睨みつけながら、脅迫の言葉を吐き捨てるようにして去っていった。
(六角家が三好家の対抗馬として存在し、あのような下衆な男が当主を務めている限り、この乱世は終わらぬのであろうな)
義賢が去り、再び真っ暗で静かな空間に戻った地下牢で、久政は一人冷静になって思案に耽る。
(己の器を遙かに超える権力を握り、あろうことかそれを己の力と錯覚して驕り高ぶる。六角家当主としてはあまりに相応しくない男だ)
久政も領国経営に力が足りていない自覚はあったが、むしろ義賢は己の力量不足を自覚していない分、タチが悪かった。
(私は卑劣にも蒲生家の将を殺さねばならぬのか? 自害もできぬとは。高宮でもう少し早く腹を切っておれば、いや、そもそも挙兵などせず、大人しく六角に従っておれば良かったのか? ……ふっ、今さら悔やんでも後の祭りか)
根が真面目な久政にとって、義賢の命令は到底許せることではなかった。しかし、それを拒む方法はなく、今は囚われの身である。一度は死を覚悟した自分が殺されるのは一向に構わなかったが、義賢の言うとおり、やろうと思えば今すぐにでも浅井家を滅ぼせるのだ。
これまで六角家のご機嫌取りの外交をせざるを得ない状況に置かれていたが、その間に蓄えた力で独立を企てて挙兵した。だが、叛乱は失敗に終わり、自分は拘束され、領地も大きく削られることになった。
我が身の境遇にやるせなさを感じた久政は、今の状況から逃れる手はないのかと考えるものの、その答えが出ることはなかった。
◇◇◇
近江国・寺倉郷。
「戦に勝利し、皆が全員無事に帰還でき幸甚である! だが、父上もご無事ならば、何故戻られぬのだ?」
戦場からようやく将兵たちが帰還した。幸いにして軽傷を負った者がいただけで、戦死者は一人も出なかった。俺は戦の勝利と父の無事の報せを聞いて、まるで飢えた虎が肉に食いつくかのように大倉久秀に詰め寄った。
留守居役を任された俺は、表向きは真面目に普段どおりに勉強や訓練を行っていたが、内心は戦が気になってそれどころではなく、父の帰還を一日千秋の思いで待っていた。
「はっ、蔵之丞様は浅井宮内少輔様と共に観音寺城に参られ、戦勝の祝宴に参加された後、蒲生家の将として日野城にも寄られてから帰還されるとの由にございます。蒲生家からは出陣の恩賞もいただけるかと存じまする」
それを聞いて、俺は心から安堵した。無意識に張りつめていた緊張も解け、肩の力が抜けていくのが分かった。
「そうか……。父上はまだ帰って来られないのか。しかし、祝宴や恩賞のためとあれば、やむを得ぬな」
仕方ないとは思いながらも、一日でも早く帰って元気な顔を見せて欲しいというのが俺や家族の本心だった。
とはいえ、この嫌な胸騒ぎは何なのだろう? 杞憂で終われば良いのだがと思いながら、俺は父の帰りを待つのだった。
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