高宮の戦い② 虜囚
「待てぃ!」
最期くらいは武士らしく切腹しようと死を覚悟した浅井久政に、制止する声が大きく響く。
もう既に戦意を喪失した浅井軍は瓦解し、兵が逃げたり降伏して戦闘が終わっている場所も多く、戦の趨勢は決していた。本陣の兵も既に散り散りとなり、絶望した久政の前へ現れたのは、蒲生定秀であった。
「お主には捕虜として観音寺城まで来てもらう。切腹は許さぬ」
自分を捕虜として浅井家に無理な条件を飲ませるつもりだろうかと久政は直感し、諦めを含んだ溜息を吐きながら声を上げる。
「この期に及んで情けを掛けるつもりでもあるまい?」
「ふっ。これは我が主、六角左京大夫様の命令だ。お前が拒むことはできぬ」
六角義賢は目を離すと何をしでかすか分からない懸念はあったが、これは命令だ。実際には六角家中で義賢に匹敵する権力を握っている定秀ではあったが、公然と主君の命令に背けば色々と面倒なことになる。それ故に久政を連れ帰らない訳には行かなかった。
「儂を捕虜としてどうするつもりだ」
久政は敗軍の将とは思えない堂々とした口ぶりで定秀に訊ねる。
「さて、儂は何も知らぬ。左京大夫様から直に沙汰が下るであろう。それを待つのだな」
久政はそれ以降は口を開くことはなかった。既に生き残った浅井軍の将兵は四散している。蒲生定秀の目の前に残されたのは、大将である浅井久政、ただ一人であった。
「家臣にまで逃げられるとは、つくづく人望のない男よの」
定秀は侮蔑の孕んだ表情で冷淡に告げる。それでも久政は目を瞑って黙り込んだままだった。
「まあ良い。おい、こやつを縛って連れて行け」
定秀の命令により蒲生軍の兵が久政を捕縛すると、久政は観音寺城へと連行されたのであった。
◇◇◇
近江国・観音寺城。
観音寺城の大広間には「高宮の戦い」に参陣した六角家の家臣たちが集まっており、部屋の端には陪臣の寺倉政秀の姿もあった。
その大勢の家臣たちの中を通って、後ろ手に縛られた浅井久政が上座に座る六角義賢の前に連れて行かれ、義賢の目の前に座らされ、顔を俯かせた。
「左兵衛尉よ。何か申し開きはあるか? 申してみよ」
「……」
敗者に何も言う権利はない。謀反を起こした将が申し開きをしたところで、聞き入れられるはずもなく、久政は無反応を貫いた。
「ふん、もう少し利口かと思うておったが、つくづく暗愚な男よの。お前には失望したぞ。よもや六角家に反旗を翻し、我が領地に攻め込むとはな。呆れて物も言えぬわ」
沈黙する久政に義賢は露骨な舌打ちを浴びせながら、久政を罵倒する言葉を吐き続けた。
「……まあ良い。浅井家は再び我が六角家の従属下に置く」
抗議したところで一笑に付されるだけだ。こうした状況では沈黙が最も適切な対応であると、久政は良く理解していた。
「それと、お前の嫡男が元服する際には儂の偏諱を授けた「賢政」と名乗らせ、平井加賀守の娘を娶らせる」
義賢の「賢」の字を偏諱し、重臣の平井定武の娘を嫁がせることによって、浅井家が六角家の従属下にあることを明確に示そうという義賢の意図であったが、一方の久政は義賢の意図を訝しんだ。
(謀反を起こした男の嫡男に偏諱を授け、重臣の娘を嫁がせるだと? あまりに寛大すぎる沙汰だ。一体どういうつもりだ?)
「ふっ、案じずとも良い。浅井家は滅ぼしはせぬ。越前の朝倉家と美濃の斎藤家との緩衝地帯としてな。無論、見せしめとしてある程度の領地は召し上げるがな」
そして、浅井軍が落とした坂田郡の平野部にある佐和山城、丸山城、物生山城、磯山城、朝妻城は六角家の手に渡ることとなった。義賢は坂田郡全てを没収すべきと声高に主張したが、これ以上の過度な領地の没収は浅井家の内紛が危惧されるとの蒲生定秀の声で見送られた。
これは、久政を強引に隠居させ、嫡男の猿夜叉丸(後の浅井長政)を擁立しようという声が浅井家中で日増しに強くなっていると、正吉郎が商人から仕入れた情報を聞き及んだ定秀が、浅井家のクーデターを未然に防ごうとしたためである。
その結果、坂田郡の山間部に位置する鎌刃城と菖蒲嶽城、地頭山城、太尾山城は石高も低く、重要度もさほど高くないことから、没収は見送られた。その代わりとして六角家は米原一帯の平野部を手に入れ、石高において六角家に利の多い仕置であるのは明白だった。
それに加えて、坂田郡東部の山間部の東は美濃との国境であり、国境では米不足になると農民が国境を越えて強盗などが頻発していた。そして、六角家と斎藤家の関係は必ずしも良好ではないため、そうした厄介な揉め事を避けるといった意味合いもあり、浅井家に坂田郡東部を預けたのだった。
もし過度に領地を没収すれば、クーデターが起きて猿夜叉丸が当主となり、再び叛乱を起こしかねない。猿夜叉丸は武勇に優れると巷で噂されており、わざわざ火種を大きくする必要はない。六角家にとっても"暗愚な"久政が当主である方が、御し易く都合が良いのだ。
仮に二度も浅井家が叛乱を起こす事態ともなれば、浅井家を滅ぼさざるを得ず、朝倉家と斎藤家との緩衝地帯を失うばかりか、三好家に隙ありと足元を見られて、背後から攻められかねない。浅井家のクーデターと三好家の侵攻の両方を防ぐには、まさに絶妙な仕置であった。
だが、この決定にも久政は沈黙を貫いていた。その態度に機嫌を損ねた義賢は、俯いた久政を射抜くように睨みつけた。敗者の久政が余裕を持って振る舞っているように見えるのが気に入らなかったのだ。明らかに不機嫌な顔に一触即発の気配を感じた側近が諌言を述べるも、義賢には馬耳東風である。
「おい、永田備中よ。そやつを牢に入れておけ」
「はっ」
義賢が永田賢弘に久政を牢へ入れるように命じると、賢弘は久政を立たせて大広間の外へ連れ出した。
「それと下野守よ。お主の家臣で寺倉、といったか。そやつを久政を護送する際の護衛につけろ。良いな」
「……はっ」
蒲生定秀は義賢の真意を図れず、訝しむ。
(この男は一体何を企んでいるのだ? わざわざ蔵之丞を名指しするとは、何かを企んでいるのは間違いなかろう)
義賢の傲慢な性格に心底嫌気が差している定秀は、思わず零れそうになった溜息を何とか我慢した。
(左京大夫は理屈より感情が先んずる上に、傲慢さを隠そうともしない、正に夜郎自大な男だ。このまま左京大夫が当主を務めていては、六角家が乱世を生き残れるかすら怪しい。せめて正吉郎の半分でも利口であればな……)
定秀は誰にも気づかれないように嘆息を吐いた。前の主君である定頼と比べてしまうと、義賢は余りにも見劣りしてしまう。そんな時に定秀の頭に浮かぶのは、寺倉蔵之丞の嫡男・寺倉正吉郎の顔だ。
(あの若さであれほどまでに領地を豊かにするなど、左京大夫にはできるはずもあるまい。たとえ儂が若かりし頃でも、あれほどの発展は無理だ。8年前までは何もない農村だったはずの寺倉郷を、活気ある商人の町へと変貌させたのだ。正吉郎は必ずや蒲生家に益をもたらしてくれよう。将来が楽しみ、いや恐ろしくさえ感じる。……この戦乱の世を変えるのは正吉郎のような男やもしれぬな)
正吉郎への期待を抱きながら、定秀は冷めた目で義賢を見つめ続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます