憤怒の独立
返碁の普及と大内滅亡
弘治3年(1557年)4月。
「正吉郎様。畿内で売り出した返碁が飛ぶように売れております。各地から注文が殺到し、生産が追いつかないほどにございまする」
木原十蔵が満面の笑顔で報告する。
「ほぅ。それは朗報だな」
返碁は昨年秋に領内で売り出し、まず領民たちの家に普及した後は、冬の農閑期に領民たちが内職で生産に励んだ。返碁は作るのが簡単なので大量生産された結果、この春から京や堺から全国へと売り出され、かなりの人気商品のようだ。
(やはり娯楽の需要にマッチしたようだな)
休日に暇を持て余した俺が、半ば思い付きで作ったのだが、価格帯を2つに分け、廉価版は普及目的で薄利多売を狙ったのが功を奏したようだ。もちろん富裕層には漆を使った高級品を売って大きく儲けている。
返碁は簡単なルールで学のない庶民でも楽しく遊べるため、老若男女を問わず人気を博し、畿内で急速に広まっている。そして、最初に中央に並べる4つの駒には寺倉家の家紋を焼印した結果、寺倉家の名を上げることにもなった。
「正吉郎様は誰でも遊べる娯楽だと申されましたが、そのとおりですな。私も家族でよく遊びます」
「ああ、娯楽は生活の潤いには必要なものだからな」
「一体、正吉郎様はどうやって返碁を考えつかれたのですか?」
「父上が碁を打っているのを見てな。もっと簡単に遊べないかと考えて、ふと閃いたのだ」
もちろん俺の発明ではなく、この時代の技術でも作れるリバーシを思い出しただけなのだが、十蔵は俺の言葉に「なるほど」と頷いた。
ところで、正月に氏真から手紙が届いた。父・義元公と返碁をやってみたが、義元公はあまり興味を示さなかったそうだ。今は妻の早川殿と毎晩、返碁を遊んでいるそうだ。ふん、惚気やがって。
俺は返信で「今川家で返碁の模倣品を売るのは勘弁してほしい」と頼み、返碁の高級品を一緒に贈っておいた。
◇◇◇
7月になると、返碁の普及によって寺倉の名が全国に知れ渡るようになり、「寺倉の返碁」どころか、「返碁の寺倉」とまで呼ばれるまでになった。今や公家や僧侶から庶民に至るまで、返碁は気軽に楽しめる娯楽として確固たる地位を得た。
一方で、その煽りを喰らったのが囲碁だ。将棋は戦術の理解に役立つので、今でも武士には根強い人気があるが、ルールや定石が難解な囲碁は急速に人気が衰えているらしい。公家や大名がスポンサーだったプロの碁打ちが失業し、返碁に転向する者も多いそうだ。
返碁が人気商品となった結果、これまでの洗濯板や千歯扱き、唐箕、椎茸を軽々と超えるほどの大きな利益となる見込みだ。おそらく地方では模倣品が出回るだろうが、畿内では寺倉家の家紋の焼印がかなりの効果を上げ、寺倉家のブランドを確立することができた。
「こうなると、六角家に目を付けられるのも時間の問題だな。さて、どうしたものか」
3年前に蒲生定秀から注意されて以降は、他領からの移民受入を抑えてきたため、揉め事の火種を収めることができたが、今度ばかりは返碁によって多くの資金を手に入れ、寺倉の名が畿内中に知られるようになり、一筋縄では行かないだろう。
定秀の言ったとおり六角義賢が嫉妬心の強い人物ならば、一介の陪臣風情が大儲けしているのを好ましく思うはずがない。表立った動きはないものの、家中に目の上のたん瘤のような懸念材料があれば、早めに潰しておきたいと思うだろう。
それに、畿内では六角家と三好家が長年争いを続けていたが、六角定頼の死後は優勢だったはずの力関係が徐々に劣勢に傾き始めている。何度かあった小競り合いの状況は芳しくなく、予断を許さない状況だ。
やはり偉大な大名の死は大きいな。時計の針は定頼の死から六角家滅亡に向かって確実に進み始めているようだ。三好家当主の三好長慶も日本最初の天下人であり、「日本の副王」とまで呼ばれるが、史実では三好長慶の死後にやはり凋落を迎える。
「六角家では蒲生下野守様に当家の誹言を申す者がおるようですが、下野守様は静観しておられるそうにございまする」
蒲生家から六角家の様子を聞いた勘兵衛が教えてくれた。話してみて分かったが、蒲生定秀は相当な切れ者だ。その定秀が静観を決め込むとは正直意外だが、何か思惑があるのだろう。
確かに3年前に一度は定秀に牽制されたが、その後も寺倉家は常備兵を雇い、鉄砲を仕入れて軍備を強化し、街道には砦を築いて、むしろ反抗的とも言える態度を取っている。謀反を企んでいるとの理由で処罰されてもおかしくはない。
六角家は蒲生家を始めとする「六角六宿老」が必死に支えているという状況だ。六角義賢は狷介な性格で、眉間に寄る皺が特徴的な顔だそうだが、おそらく定秀が寺倉家の軍備強化を義賢に隠しているのだろう。
さすがは六角家を陰で牛耳る実力者というところか。昨年、定秀に鶴千代という孫が生まれたそうだが、鶴千代は将来の蒲生氏郷だ。たとえ六角家が潰れたとしても蒲生家は安泰だな。
「下野守様には何か考えがあるのだろう」
蒲生家からは元服した俺に祝いの品が贈られてきたが、定秀とはあれ以来会っていないため、今は結論を出せるほど情報が多くない。定秀の思惑は不明だが、何も介入してこないのなら今は気にする必要もないか。
寺倉家の屋敷は堀もない木造の平屋で防御力は皆無だが、屋敷を改修するつもりはない。今さら改修したところで高が知れているし、六角家を挑発するような真似はするのは賢明ではないからだ。
◇◇◇
9月5日、後奈良天皇が崩御された。民の安寧を願う高潔な帝と慕われていただけに、家臣や領民たちも非常に哀しみ、俺も大喪の礼の費用の足しにと僅かだが献金した。10月には正親町天皇が即位されたが、朝廷は財政的に困窮していて即位の礼を挙げることができないという。史実では、毛利元就と石山本願寺の顕如から数億円相当の莫大な献金を受けて、再来年に即位の礼を挙げることになるはずだ。
12月上旬、木原十蔵が商人仲間から仕入れた諸国の情報を俺に教えてくれた。十蔵には対価として相応に儲けさせてはいるが、本当に助かっている。
まず西では、2月に毛利元就が大内家を攻めた。毛利軍は山口の町を焦土と化すと、下関の勝山城を攻め、4月に大内義長を自刃に追い込み、栄華を誇った大内家は名実共に滅亡したそうだ。この「防長経略」により毛利元就は安芸、周防、長門を治める大大名となった。
豊後の大友義鎮は大内家に養子に送った実弟の大内義長を見殺したが、九州の大内家の残党を破り、大内家の旧領だった豊前と筑前を占領したようで、大友家は九州の一大勢力になるだろう。
東国では、長尾家と武田家の間で「第三次川中島の戦い」が起きた。武田晴信は長尾軍が大雪で動けない2月に北信濃に攻め込んだ。4月に長尾景虎が出陣したが、6月に北条家から北条綱成率いる援軍が到着すると戦線は膠着し、8月に上野原で合戦があったが、引き分けに終わったそうだ。
一方、戦国の風雲児こと織田信長は未だ尾張を統一できておらず、畿内では全く知られていないが、史実では2年半後に「桶狭間の戦い」が起き、11年後には日の出の勢いで上洛するはずだ。できれば敵対したくはない相手だが、六角家の配下である以上、戦わざるを得まい。六角家の機嫌を損ねないように軍備を整えるとしよう。
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