氏真との邂逅② 元服

京の公家と交流のある『彦五郎』という名の20歳前後の上級武士など、他にはいないはずだ。


今川彦五郎上総介氏真。


駿河と遠江の国主・今川義元の嫡男であり、今川家最後の当主だ。その今川氏真が寺倉郷に来た理由は不明だが、この出会いはきっと天命なのだろう。


「十蔵。すまぬが、細かい話はまた後日、屋敷に来てくれ。勘兵衛、行くぞ!」


俺は十蔵の返答も聞かずに踵を返し、人混みで氏真を見失うまいと早足で歩き出した。


「あの、もし、そこの御方!」


この時代、人通りの多い道の真ん中で他家の武士の一行に声を掛けるのは、なかなか勇気のいる行為だが、指を咥えて見過ごす訳には行かない。


「ん? 何だ、小童か。我らに何用か?」


周りの家臣に話し掛けたつもりだったが、運良く氏真に声が届いて振り返った。声の主が元服前の子供と知って、氏真の目は柔らかなものだったが、俺が供の勘兵衛を連れているのに気づいた途端、警戒感を浮かべて目が鋭くなった。


「はい。大変失礼なことを伺いますが、もしや駿河の今川家の今川上総介様でいらっしゃいますか?」


氏真は目を見開いた。どうやら正解だったようだ。俺はほっと息を吐くと、氏真の目を見据えた。


「ほぅ、私の名を知っておるのか。お主、名は何と申す?」


「私はこの寺倉郷の領主、寺倉蔵之丞が嫡男、淀峰丸と申します」


氏真は寺倉の名を聞いた途端、さらに驚いた表情を見せると、直後に口元に笑みを浮かべた。


「ほぅ、寺倉家の者であったか。これは失礼いたしたな」


氏真はそう言って軽く会釈したが、周りの家臣たちは俺を値踏みするように見ている。当然だ。大大名の今川家からすれば遙かに身分が低い弱小国人の嫡男風情が、直に言葉を交わすのは畏れ多いことなのだ。俺を睨むような目をしている周りの家臣たちを見ないようにしながら、俺は氏真の目を真っ直ぐ捉えた。


「せっかく寺倉郷にお越しいただいたからには、今宵はぜひ私共の屋敷にお招きさせていただきたく存じますが、如何でございましょう?」


「ふむ、それは有難い。ちょうど今宵の宿を探していたところだ。お主の好意に甘えさせていただこう」


「左様ですか。では、屋敷にご案内いたします。勘兵衛、先に行って父上に知らせてくれ」


俺は満面の笑みを浮かべると、氏真一行を先導しながら屋敷へと向かった。


◇◇◇


「時間も足りなかったもので、大したもてなしも用意出来ず、誠に申し訳ござらぬ」


屋敷の広間で父が深く頭を垂れた先には氏真の姿があった。あの後、先に向かわせた勘兵衛が氏真一行の来訪を伝えたところ、父は蒲生定秀が訪ねた時以上に青褪めたそうだ。


「顔をお上げくだされ。こちらこそ急に訪ねてしまい、申し訳ない」


「して、本日は如何ような用件でこの地に参られたのですかな?」


「朝廷への貢ぎ物と畿内で見聞を広めるため、この春に私は上洛したのだが、いざ帰国する段となって、京で寺倉郷の評判を耳にしてな」


寺倉家からしたら今川家は雲の上の存在だ。急遽参集した寺倉家の家臣たちも皆恐縮して冷や汗を垂らしている。


「それで、駿河への帰り道に立ち寄られたという訳にございますな」


父は納得したように肯いた。


「左様、大変栄えた商人の町だと公家たちから勧められてな。興味を抱いた次第だ」


「このような山間の田舎に今川様ほどの御方に足を運んでいただくとは、誠に光栄にございます」


京で寺倉郷が評判だと知って、父は満更でもない様子で笑みで応えた。


「して、先ほど商人に聞いたのだが、この寺倉郷を栄えさせたのは嫡男のお主だそうではないか。俄かには信じられぬが、それは真か?」


それまでは父の方を向いていた氏真が俺の方を見て訊ねた。


「……私はまだ元服も済ませておりませぬ故、あくまで父上の仕事を手伝っているだけにございます」


俺が視線を泳がせて返事をすると、父が真面目な顔で俺に話し掛けた。


「淀峰丸。お前はもう13歳だ。もう童だと言って隠さずとも良いぞ」


父の言葉は予想外で、俺は思わず言葉を返してしまう。


「で、ですが、それでは父上の面目が立ちませぬ」


「儂の面目などどうでも良い。この地を栄えさせたのは紛れもなく淀峰丸、お前だ。いつまでも隠し通せるものではないし、現に今川殿にも知られておるではないか。それにな。儂は来年にはそろそろお前を元服させようと考えておったのだ」


「……」


「やはり、お主であったのか。面白い。その若さで、とは賞賛に値するぞ」


「勿体ないお言葉にございます」


俺は氏真に隠しとおすのを諦め、深々と頭を下げた。


「寺倉殿。私は明日ここを発つ予定であったが、宜しければ淀峰丸殿の元服に立ち会わせては貰えぬだろうか? 立会人となり、今川家として寺倉家と誼を交わしたいのだ」


「何と! 今川家に一国人の寺倉家と誼を交わしていただけるとは、誠にかたじけなく存じまする。明日にでも早速、淀峰丸の元服の儀を執り行いましょう」


「え?」


父はそう言うと、家臣に元服の準備を指示し、戸惑う俺を無視したまま、俺の元服が明日執り行われることになったのだった。


◇◇◇


元服の「元」は頭、「服」は着用を表し、武家では頭に烏帽子を被せる加冠の儀式だ。前世の成人式のように正月の吉日に、12歳~16歳の男子が元服するのが一般的だが、家の事情により様々で、俺の13歳での元服は早い方だ。


「では、これより淀峰丸の元服の儀を執り行う。淀峰丸、入って参れ」


正式な礼装を身に纏った俺は、板障子を開けて部屋に入った。正面の上座には父が、両脇には寺倉家の重臣たち、側近の蓑田勘兵衛や西尾藤次郎に加えて、今川氏真も上座の横に同席していた。俺は父の手前に置かれた床几に静かに腰を下した。


髪型を童髪から大人用の髪に結い直す役を「理髪」と言い、俺が生まれた時から側に仕えてきた勘兵衛が理髪を任された。これまで俺の髪型はこの時代の一般的な子供の角髪だったが、勘兵衛が俺の前髪を剃って月代にすると、長髪に整髪用の液体をつけてポニーテールのように後ろに束ね、根元を結わえて髪型を整えた。


「うむ、立派な髪になったな」


「これも父上のお陰にございまする」


俺の目を真っ直ぐ見つめながら言った言葉はきっと父の本心だろう。俺も本心からの言葉だった。父は徐に横にある鳥帽子を手に取り、自分の膝の上に持ってきた。


「淀峰丸。近う寄れ」


「はっ」


俺は父の正面へ寄り、頭を垂れる。


「淀峰丸に鳥帽子を授ける。これより一人前の男としての自覚を持つのだぞ」


「はっ、これからも一層精進して参ります」


父は俺の頭にゆっくりと烏帽子を被せると、顎の下で紐を結わえた。元服の儀で最も重要なのがこの「加冠」の役であり、父親以外で加冠を務めた人は烏帽子親と呼ばれる。そしてこの後、俺が一生名乗ることになる名前を授けられるのだ。


「これからお前は『寺倉正吉郎蹊政(みちまさ)』と名乗るが良い。『政』は寺倉家の通字だが、『蹊』は寺倉家の進む道を切り拓いてほしいとの願いを込めた諱だ。励むが良い」


「はい。謹んでありがたく頂戴いたします」


父から授かった『正吉郎』は通称の仮名(けみょう)で、『蹊政』は諱(いみな)と言い、目上の人しか呼べない「忌み名」だ。『寺倉正吉郎蹊政』か。うん、いい名前だ。

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