内政改革⑦ 移民と石鹸作り

天文22年も年の瀬の押し迫った12月、この秋に採れた干し椎茸の販売でホクホク顔をした木原十蔵から、俺は東国の動向に関する情報を得た。


「淀峰丸さま。9月に信濃の善光寺近くの布施という地で、武田家と長尾家との間で大きな戦があったそうにございます」


「引き分けたか」


「左様。ご存知でしたか」


かの有名な「川中島の戦い」の第一次合戦だな。結果は双方とも自軍が勝ったと言っているらしいので、明確な勝敗は付かずに引き分けだったのだろう。


いずれにしても「川中島の戦い」が始まったことにより、今年が西暦1553年だと判明した。史実で1560年の「桶狭間の戦い」まであと6年半、六角家が滅ぶ1568年まで15年だ。ただし、下手をすると史実よりも動きが早まる可能性もある。やはり富国強兵を急ぐべきだな。


「十蔵。これからもつき合いのある商人から東国や西国の出来事が分かれば教えてほしいが、特に尾張の状況を仕入れてほしい。尾張の守護は斯波武衛家だが、実権は守護代の織田家が握っている。だが、下四郡の守護代・織田大和守家では、奉行の織田弾正忠家が近年勢力を伸ばしていると聞く。当主は家督を継いだばかりの織田三郎信長と言うらしい。その織田弾正忠家について詳しく知りたいのだ。頼めるか?」


「織田弾正忠家ですか? 確か津島湊を支配下に収めておりますな。承知いたしました」


十蔵は端然とした所作で然諾の返答を告げた。


織田信長が家督を継いだのは昨年の1552年で、今はまだ主家の織田大和守家を滅ぼす前だ。対立する末森城主の弟・信勝を粛清した後、上四郡の守護代・織田伊勢守家を滅ぼし、尾張を統一するのは「桶狭間の戦い」の2年前の1558年だったはずだ。


なにせ史実で六角家を滅ぼすのは、足利義昭を奉じて上洛する織田信長だ。それだけに信長の動向は非常に重要となる。早い内から信長の動向には目を配り、情報収集しておくべきだな。




◇◇◇




年が明け、天文23年、すなわち1554年となった。昨年から俺は次期当主として評定に出席するようになっていたが、正月気分も抜けた1月中旬、今年最初の評定が開かれた。


その評定で、貧しい農民20人ほどが他領から寺倉郷へ身を寄せてきたと、家臣から報告があった。どうやら犯罪や借金をして逃げてきたとかではなく、貧農の次男や三男が寺倉郷の「四公六民」の噂を聞きつけ、あちこちの村から移ってきたようだ。


初めて知ったのだが、農家の田畑は長男が全部相続するので、次男以下は酷い待遇らしい。ある家臣は「実家の長男は口減らしができて喜んでいるだろう」と言っていたが、そう言えば、田畑を分割相続するのは『田分け』と言い、愚か者と同義の『戯け者』の語源だったな。


確かに、畿内に隣接する近江国は水利が良いので広い平野部は肥沃で、古くから開拓されて石高も高い土地であるため、人口もかなり多い国だ。したがって、村が丸ごと逃散でもしない限りは、あちこちから20人程度の農民が移ってきても、大した問題ではないのだ。


借金が返せずに夜逃げする者だって珍しくないからな。だから、父や家臣たちは全く問題視していない様子で了承したが、はたして20人の移民だけで済むのかという点について、この時点では俺も特に何の疑問にも思っていなかった。


ところが、1月下旬になると、さらに30人の移民がやって来た。合わせて50人が移民する事態となり、俺や父、家臣たちもようやく移民受入の対策が必要だと認識するに至った。評定では、移民たちに川から離れた未開墾の荒地を与えて、開墾させることに決めた。だが、収穫できるのは秋なので、それまで移民たちが食い繋ぐための食料か金銭が必要だ。


だが、無償で土地を与えた上に、食料や金銭までタダで与える訳にはいかない。この時代は"働かざる者食うべからず"が大原則であり、前世のような社会福祉制度のある優しい社会ではないのだ。身体に障害を負って働けない者や身寄りのない老人は、人通りの多い町の道端で乞食をして生き永らえているのがこの時代の厳しい現実だ。


したがって、移民たちは人手の少ない農家を手伝い、食料や金銭を得るのが常識的な対応となるのだが、俺は一つのアイデアを思いついた。


「父上。移民たちに荒地を開墾させる一方で、別の仕事を与え、その報酬として蔵にある一昨年の古米を与えれば、移民たちも秋まで食い繋げると思います」


「なるほど、それは良い考えだが、どういう仕事を与えるつもりだ?」


ずっと黙っていた俺が発言すると、父は少し怪訝な様子で上座の横に座る俺に訊ねた。


「はい、石鹸作りをさせようかと思います」


「石鹸? それは何だ?」


「石鹸は水で洗うだけでは落ちない服や身体の汚れを落とす品です。明や南蛮にある品だそうですが、石鹸で汚れを落とせば清潔になり、病にも罹りにくくなるそうです」


石鹸は日本ではまだ生産も輸入もされておらず、1590年代に南蛮人から輸入されるのが最初のはずだ。石鹸という未知の品を作るという俺の言葉に、父や家臣たちは驚きと懐疑的な表情を浮かべている。


「その石鹸とやらは日ノ本で作れるものなのか?」


「絶対に作れるという確信はありませんが、まずは試してみたいと思います。首尾よく成功すれば、高価で売れるのは間違いなく、寺倉家の新たな産業となるはずです」


「ふむ、古米を報酬として移民たちを働かせ、高価で売れる品が作れるのならば、試してみる価値はあるな。淀峰丸がそう申すのならば、やってみるが良い」


父は満足げに唸ると、俺の石鹸作りの提案を容認してくれたのだった。




◇◇◇




石鹸の歴史は驚くほど古く、紀元前3000年まで遡るらしい。獣肉を焼く時に滴り落ちた獣脂と薪の灰が混じった物に雨が降り、油脂の鹸化が自然発生して石鹸が発見されたと言われている。石鹸の「鹸」は「アルカリ」を意味し、石鹸は「固形アルカリ」という意味だ。


俺が石鹸を作ろうと思い立ったのは、昨年から領民の食生活を改善するため、寺倉家では家族と家臣たちに肉料理を広め始めていたからだ。始めは家臣たちは肉食を敬遠していたが、父が美味しそうに食べるのを見て、家臣たちもやがて食べ始めるようになり、正月の祝宴に出した肉の天ぷらは家臣たちからも美味しいと大好評だった程だ。


そうした肉料理に使うのは、猟師が山で狩ってきた鳥や猪などの害獣の肉である。獣肉から採れた獣脂はラードにして揚げ物や炒め物に使う以外は、いずれ石鹸の材料に使えるだろうと考えて、大量生産できるほどの量ではないが、大事に保存してあるのだ。


石鹸は獣脂以外にも荏胡麻油などでも作れるが、この時代の油は食用よりも灯火用で高価なため、害獣駆除を兼ねて安価な獣脂を使うのが一石二鳥だ。それと後は木灰汁が必要だ。本当は海藻を燃やした灰汁が鹸化しやすいようだが、草木灰でも鹸化は可能らしい。


低品質の石鹸ならば小規模で試作すれば、寺倉家や譜代の家臣だけで使う程度の量は作れるだろう。その後で試行錯誤しながら改良し、ある程度の品質の石鹸を生産できる体制が整えば他領に販売し、ゆくゆくは領民たちにも普及させたいと考えている。"ローマは一日にしてならず"だ。

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