母の死

俺は転ばずに一人で歩けるようになってからは、大して大きくはないが、それでも屋敷と呼ばれている家の中を歩き回って"探検"し、行方不明になった俺を探す使用人を困らせるようになった。


そして、父の書斎の奥に書庫を発見すると、よたよたと忍び込み墨書きされた書物を読んで情報収集を始めた。とは言っても、楷書体で書かれている書物は少なく、読みやすくても漢字は旧漢字だったり、残りは崩し文字のため、まるで暗号文を読んでいる感覚を覚え、盤根錯節ばんこんさくせつとした複雑な解読を余儀なくされた。それでも漢字は所々は読み取れるので、読めない文字も推理しながら読むのは楽しかった。


そもそも紙自体が大変貴重な時代だ。やはり高級品の一つでもあるのだろう。書庫と言ってもほとんどは税の台帳や手紙だったりで、娯楽小説の類が置いてあるはずもなかった。だが、一つだけ『孫子』という表題の書物を発見した。古代中国の有名な兵法書だ。


これを見つけた時に、俺はここが昔の日本だと確信した。鎌倉時代か、室町時代か、江戸時代か、いつの時代かは分からないが、どうやら過去の日本に生まれ変わったようだ。


やがて、俺が書庫に忍び込んでいるのが使用人にバレて、そのことが父に報告されると、父に「まさか1歳の赤子が書物を読めるのか!?」と喫驚されるに至った。俺が『孫子』を読みたいという意思をたどたどしく何とか伝えると、「やはり儂の子は神童だ」と大喜びし、使用人が付き添う条件で書庫への出入りを許されたのだった。




◇◇◇





その年の暮れ、正月が近づいて普段はもう少し賑やかな屋敷の中がしんと静まり返った。葬式が行われたのだ。亡くなったのは俺の母親、静であった。俺を産んだ後の肥立ちが悪く、ずっと寝込んでいた。俺が泣いたりすると母の体調に悪いため、生まれてから俺は母とは別々の部屋で寝かされていたのだ。


それでも俺は乳母に抱っこされて、毎日のように母の部屋を訪ねた。母は痩せ細って、具合が良くないのは明らかだったが、俺が来るといつも花が咲いたような笑顔を見せてくれた。母は俺を抱っこすると、「添い寝してあげられなくて、ごめんなさいね」と謝っていた。母に抱かれると気持ちが安らぎ、自然と笑顔になった。何かできることはないかと思った。精力のつくような料理は食べられないから、身体に優しい食材を記憶から辿り、無理やりにでも引き摺り出して愚考した。しかし、そんな努力も虚しく、母は日に日に衰弱していく。自分は何のために生まれたのか。然るべき知識を備えてさえいれば、このような人を死の際から救うこともできたはずだ。俺は己の勉強不足を心から呪うばかりだった。


母はそのまま呆気なく亡くなった。あの優しかった母の顔に白い布が掛かっている寝姿を見た時、気がつくと俺は乳母の胸に抱かれて大声で泣いていた。普段は夜泣きもしない俺が初めて大泣きするのを見て、父は俺を抱き寄せた。俯いた父の顔を見上げると、やはり目に涙を浮かべ、やがて俺の服にポタリポタリと滴が染みを作っていった。




◇◇◇




天文14年(1545年)1月。


母の葬儀から3日後に年が明け、俺は2歳になった。明治時代以前は暦は旧暦で、年齢は数え年だ。数え年は生まれた時点で1歳で、正月に年が増える数え方だ。俺はまだ満1歳にもなっていないが、数え年では2歳になる訳だ。


本来ならば元日の昼過ぎには、大広間で家臣たちを前にして父が年始の挨拶をした後、正月の宴が開かれるらしい。らしいと言うのは、年末に母が亡くなって喪中のため、正月の宴が行われなかったからだ。


年始の挨拶では、父はまだ幼ない俺に「しばし大人しくしておるのだぞ」と言うと、嫡男として上座の端に座らされた。挨拶が終わるとようやく御役御免となり、乳母に手を引かれて奥の部屋に移動した。その後、父親と二人で正月の料理を食べたのだった。


それと、俺に付きっ切りで世話をする若い男は、名前を箕田勘兵衛政景と言う。箕田家は寺倉家の譜代の家臣の家柄だそうだ。俺の曾祖父の妹が箕田家に嫁いで、勘兵衛はその孫に当たるらしく、寺倉家の数少ない親族衆であることから、勘兵衛は俺の世話役である側仕えに任じられたらしい。


母が亡くなってからしばらくの間、俺を産んだ所為で母が早死してしまったことに、俺は罪悪感から心が沈んでいた。鬱屈した気分のまま日々を過ごしていた俺だったが、勘兵衛はそんな様子を心配してか、「淀峰丸さまが立派な当主になることが奥方様の供養となるのです」と励ましの言葉をかけてくれたことで、次第に打ち解けるようになった。


身近にいる勘兵衛との片言の会話がいい練習になったのだろう。それから半年ほど経ち、2歳半になる頃には、流暢とは言えないが、俺は会話ができるようになっていた。普通の子が話せるようになるのはもっと遅く、もっとたどたどしいものだと後で知った。もう少し喋れないフリをした方が円満だったかもしれないが、異常な早さで俺が会話ができるようになったことにも、勘兵衛は全く驚く様子も見せなかった。


そして、勘兵衛から今が天文14年で、この地は近江国の東側だと教わり、俺は戦国時代の真っ只中にいるのを理解したのだった。




◇◇◇




天文20年(1551年)。


それからあっという間に6年の月日が流れ、俺は数え8歳になった。この6年の間、俺は武家の跡継ぎとして勘兵衛や僧侶から教育を受けてきた。具体的に言うと、読み書きはもちろんのこと、剣術や兵法も教えられた。


読み書きは現代なら日本人の誰でも問題なくできるが、識字率の低いこの時代では異なる部分も多い。会話はできても、文字が書けない、読めないのでは武家の当主は務まらない。崩し文字も必須だ。読めるだけではなく、将来的には書けるようになる必要もある。この時代を生きる武士にとっては全てが怠ることのできない大切な教養だ。


ただ、俺には過去の記憶や知識がある。特筆すべきなのは日本の地理や歴史の知識、そして計算能力だ。3年前の5歳の夏に、俺が足し算や引き算どころか、簡単な掛け算や割り算ができるのを披露すると、父は狂喜してその秋の年貢の台帳のチェックを俺に任せるようになった。


5歳の子供を働かせるとは現代なら児童福祉法違反だが、この時代では子供も働くのは当たり前だ。そして、俺が年貢の"計算ミス"を発見して父に報告すると、父から前年やそれ以前の台帳のチェックを命じられる羽目となった。


その結果、同じような"計算ミス"が10年以上前から続いていたことが判明し、もはや作為的な年貢の誤魔化しとしか考えられなかった。そして後日、実行犯はある集落の長と結託した文官だと判明した。


父はその文官と集落の長を呼び出し、証拠を突き付けると、2人は真っ青な顔となった。現代ならば脱税と横領は罰金刑や禁固刑に処せられるが、この時代で年貢の誤魔化しは重罪だ。当然のように2人は死罪となった。


俺は自分の台帳のチェックが原因となって、2人が死ぬ結果となったことに罪悪感を感じたが、勘兵衛から「年貢を誤魔化した2人が悪いだけで、淀峰丸さまが気にする必要はありませぬ」と慰められた。


そんな出来事が契機となり、わずかな教育を受けただけで読み書き計算をこなせる俺の噂が領内に広まった。家臣と領民は皆、俺のことを"神童"と呼ぶようになり、寺倉家の将来に大きな期待を抱くようになっていたのだった。

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