六芒星が頂に〜星天に掲げよ!二つ剣ノ銀杏紋〜
嶋森航
“神童”の誕生
誕生
天文13年(1544年)4月。
時は血で血を洗う戦国の世。そんな乱れた世に反するような明媚な山桜の花が満開の頃、一人の男児が日ノ本に生を受けた。
(ん? ここは一体、……どこだ?)
男児はとても長い眠りから目が覚めたような、気怠い奇妙な感覚を覚えていた。目は開いているが、視界は白濁していて何も見えない。今は昼間なのか、明るい光だけがぼんやりと感じ取れるに留まっていた。
(あれ? 身体が動かない?)
頭すら上がらず、身体にも全く力が入らない。皮膚感覚で自分の身体が柔らかい布に包まれていると察することぐらいが限界である。
結局自然と閉じていく目蓋とともに、襲う眠気に身を任せることしかできず、時間ばかりが刻々と経過するばかりであった。
◇◇◇
あれから5日ほど経っただろうか。どうやら、俺は赤ん坊になっているらしい。女性に抱かれて母乳を吸い、排泄すればオシメを替えられる。俺に対して壊れ物を扱うような手つきで世話を受けることが、その事実を一層確信させるものになっていた。
意識ははっきりしている。これは夢ではなく、現実なのは間違いなかった。しかし記憶は残っている。名前は栗岡成輝(くりおかよしき)で年齢は20歳。普通に大学生をやっていて、つい先日に成人を迎えたばかりだったということだけは覚えている。ただ、自分がなぜここにいるのか理由が分からない。直前の記憶がごっそりと抜け落ちているのだ。やがて思い出そうとするのを諦めた。
まずは置かれている状況を把握したいところだが、そもそも身体すら起こせない現状だ。胸中を駆け巡る妙な違和感を振り払わんと無理矢理身体を動かそうと試みたところ、すぐに充電が切れたかのように目蓋が強制的に視界を塞ぎ、そのまま深い眠りに落ちていった。無駄な足掻きと諦めた俺は、目覚めてから暫くは無心で過ごしていたが、全く動かなかった身体がようやく数日前から腕と頭を少し動かせる程度にはなっていた。
今の俺は母親からの授乳を受けて、眠って、抱っこされて、眠って、汚れたオシメを替えてもらい、そしてまた眠っての繰り返しの毎日だ。授乳はまだ耐えられる。だが糞尿を漏らすなど、成人としての精神を併せ持つ俺にとっては耐えがたいものだ。とはいえ、漏れる前に意思を示してトイレに行けるわけでもないし、結局は恥を忍んで垂れ流す他なかった。
生まれたばかりの赤ん坊は目が見えないと聞いたことがあるが、実際その状況に置かれて最初は失明したか?などと焦った。しかし朧げにだがようやく視界が定まりつつある。視力は0.01くらいだろうか。近くにいる人影の輪郭が認識できるようくらいにはなった。
それにしても、なぜ俺は赤ん坊になっているのだろうか。やはり死んで生まれ変わったのか?難病に冒されていたわけでもなく、思い出そうとしても靄がかかったようにはっきりしない。
そんな風に頭の中を巡る疑問を解決しようと脳を働かせている内に、再び凶悪な眠気に襲われた。
◇◇◇
「あぁ、
寝返りをうとうと身体を動かそうとして、視界の隅に男の姿が映る。俺の横には齢20半ばくらいだろうか、若い男が困り顔で手をわちゃわちゃさせていた。
何がおかしいのか、俺はつい笑ってしまう。その様子を見て、男は安心したように息を吐いて、こちらに笑顔を向けた。
そして、男はおもむろに俺を軽々と持ち上げて見せた。正直言って、受け入れ難い状況だ。この前まで大学生をしていたはずの大の男が、男に抱っこされてあやされているのだ。もはや羞恥プレイである。
目が覚めてから10日ほど経ち、視力がようやく0.5くらいになると、部屋にあるものなど、自分が今いる環境に意識を向ける余裕ができ、少しずつ自分の置かれている状況が理解できてきた。
ここは古民家のような木造の部屋だ。そして、世話をしてくれる乳母や若い男が着ている服は明らかに和服であり、男の頭には髷が結ってある。まるで本格的な時代劇のシーンのようにリアルだ。
それと、周りの人間が日本語を話しているのは幸いだ。もしかすると日本語ではなく、異世界言語なのかも知れないが、少なくとも俺には日本語のように理解できている。
そして、どうやら俺の名前は「デンホウマル」というらしい。「マル」のついた名前も昔の武士の幼名のような感じだ。
それに、俺を様付けで呼んでいることから、若い男は俺の父親ではなく、使用人のようである。どうやら俺は比較的身分の高い家に生まれたようだ。飢死や口減らしされるような貧しい家でなくて運が良かったと喜ぶべきか。
俺はまだ両親の顔を知らない。授乳を施す女性も母親ではなく、乳母のようである。おそらくは両親が来る時には俺は眠っているのだろう。なにせ1日の4分の3は眠っているのだからな。
それでも俺は深く溜息を吐きたい気分になり、ついには身体を動かそうとするのも止めてしまった。どうやら体力切れを迎えたようだ。赤ん坊の体力はたかが知れている。特に思考をすると体力を消耗するのが早いようだ。俺は疲労に身を委ねるが如く、静かに瞼を閉じた。
◇◇◇
「淀峰丸の様子はどうだ?」
「はっ、淀峰丸さまは生まれてからほとんど夜泣きもしないですし、某が話し掛けると、まるで意味が分かっているかのようで、本当に利口な御子にございまする。これほど手の掛からない赤子は見たことがございませぬ」
それから数日経ち、俺は初めて父親らしい男の顔を見た。中肉中背で30歳前後に見える。
「そうか。やはり儂の子だからな。はっはっは!」
父親らしい男はそう言って高笑いをした。そこら辺にいる人の良さそうな中年のおっさんにしか見えないな。
「そ、そうですな。ははは……」
おいそこ。目を逸らすな。父が可哀想だろう。俺は苦笑いを浮かべながら、心の中で突っ込んだ。赤ん坊だから表情が作れているかは不明だ。
「どれ、抱いてやろう。……おぉ、生まれて半月で大分重くなったな。淀峰丸よ、お前はこの寺倉蔵之丞政秀の嫡男だ。早く丈夫な体の立派な男に育って、この寺倉家を大きくしてくれよ」
寺倉政秀と名乗った父は俺を抱き上げると、俺の顔を見つめながらそう言った。この家は寺倉家と言い、父は寺倉家の当主らしい。寺倉蔵之丞政秀という名乗り方や嫡男という言葉からすると、時代劇に迷い込んだような感覚を覚える。
「あーあー、うーうー」
「そうか、そうか。確かに儂の言葉が分かっているようだな。淀峰丸は神童になるやもしれんな」
俺は精一杯口を広げて返事をしたつもりだったが、意味を成す言葉を紡ぎ出すことはやはり無理だった。それでも父の顔を見て声を出したので、思いは通じたのだろう。父は笑顔で満足げに頷いた。
俺は生まれてまだ半月らしい。泣き声以外に自分の意思を誰かに伝えようとしても、「あーあー、うーうー」としか発声できないので、俺は現段階で意思疎通を図るのは断念した。まずはよく食べて、よく眠って、早く身体を成長させるのが先決だな。
◇◇◇
正直赤ん坊の俺の日常は、退屈で退屈で仕方がなかった。とはいえ、1日の時間が早く感じるのは頻繁に眠気が襲ってくるからと、以前の20年の記憶があるからだろうか。頭で考えるだけでもエネルギーを消費し、疲れて眠くなるから、コスパが悪い。まだ1日の半分以上は寝ているだろう。
その後、俺は5ヶ月半で這い這い、6ヶ月半で立ち上がれるようになり、7ヶ月半で不安定ながらたよたよと歩けるようにまでなっていた。まだ全身の筋力が低く、頭でっかちのためバランスを取るのが難しかったが、前世では趣味というより体力維持を目的にしばしば登山もしていたからか、意外と簡単に歩くことができた。
しかし、7ヶ月半で歩く俺は相当な早熟だったようだ。これには屋敷中大騒ぎとなり、使用人や乳母からは「ここまで優れた赤子はいない」と称賛されたが、俺は単なるお世辞だと思い込んでいた。
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