神の棺桶
山南こはる
第1話
首都から早駆けの馬で三日ほど北上したあたりに、イエルヒェンという村がある。
ぼくはその村で生まれ、その村で育った。十三歳で村を出るまで、ぼくは雪と霧の向こうにある世界を何ひとつ、知らなかった。
イエルヒェンの村には神さまがいた。
神さまのほこらは村の中央にあって、ほこらの下は地下室になっていて、そこに御神体が納められていた。
御神体は棺の中に眠っていた。木製の棺には、何人たりとも手を触れてはならない掟があった。
村人たちは神さまの掟を忠実に守って暮らしていた。ぼくの両親も、ウルバの両親も、ウスクルの両親も、もちろん掟を守って忠実な暮らしを守っていた。
♢ ♢ ♢
「なあ、聞いたか?」
ある日、ウルバがそう言った。彼はわんぱくで、俗にいういたずら小僧だった。
「何を?」
「オレ、聞いちまったんだよ」
ぼくたちの世代の子どもの中でも一等わんぱくで、ウルバの両親も、族長であるウスクルの父親も、それはそれは手を焼いていた。
「だから、何を?」
夏、深い霧に包まれた朝のことである。村人たちはひざまずき、ほこらに向かって深く礼をする。ウスクルの父親が
「神さまは死んだんだってよ」
「え?」
ぼくは思わず顔を上げた。
村人たちはみんな
慌てたぼくを見て、ウルバは笑いを噛み殺している。村人たちの復唱がはじまってから、彼はささやく。
「昨日、おやじが言っていたんだ。火事の時のこと」
イエルヒェンの村で火事と言えば、二十年前の大災禍のことに他ならない。火事は霧に包まれた夏の村の、ほとんどすべてを焼いた。神が祀られているほこらだけが、その炎を免れたのだと大人たちは言っている。
「火事の時のこと?」
「そう」
生き残った子どもたちは大人になって、村は再建され、人びとはまた神に頭を下げる。
子どもたちが大人になって、ぼくが生まれてウルバが生まれてウスクルが生まれた。ウスクルの父は族長になって、ウルバの父は飲んだくれで、火事からもうすぐ、二十一年になる。
「ほんとうはね、神さまは死んじゃったんだって。なのにこうやって、毎朝、お祈りをしているオレたちはみんなバカなんだって、昨日、言ってた」
「……」
ウルバの父は飲んだくれだ。腰を悪くして仕事ができなくなってから、ますます飲んだくれになった。そのウルバの父が言うのだから、あまり信じない方がいい。
ぼくは目を閉じて、お祈りに集中した。ほこらの地下に眠っている神さまは、今日も穏やかにぼくたちを導いてくださる。
お祈りが終わって、村人たちは仕事に戻る。イエルヒェンの朝は早い。ようやく東の空から太陽が登りはじめる。
橙色に溶けた空気を見つめながら、ウルバは、
「オレのおやじ、ろくでなしだけどさ。ウソはつかねえんだ」
ウルバの父は飲んだくれで腰が悪い。ろくでなしだ。でも昔、首都に出稼ぎに行っていたことがある。ウルバの父は、外の世界を知っている。霧と雪と信仰で隔絶されたこの村以外の、外の社会を知っている、数少ない村人のひとりだった。
ぼくは声を絞り出した。
「今の話、ウスクルにはするなよ」
「分かってるって」
ウルバはうなずいた。
ぼくたちふたりにとってウスクルの存在はぜったいだったし、ウスクルを悲しませることは神に背くよりも罪深いことなのだと、ぼくたちはほんとうに信じていたのだ。
♢ ♢ ♢
「神さまはいるに決まっているじゃない」
ウスクルは族長の娘であり、長女であり、誰よりも
彼女は誰よりも真剣に神に祈り、神のために学び、神のために働いた。病弱な弟が、将来、族長になる日を夢見て、彼女は毎朝毎晩、神に祈っていた。
「ウルバ、あなた、神さまを疑っているの?」
「いや、そうじゃねえって」
その日の午後のことである。質素な昼食を終えた子どもたちは、めいめい帰宅し、家仕事に殉じる。ぼくの家は朝早い農家で、ウルバの母は朝早い鶏飼いで、ウスクルは族長の娘だ。急いで家に帰ってやるほどの仕事もない。
「ただ誰も神さまを見たことがないんだろ? だったら、ほんとうは神さまがいなくても、誰も気づいていないんじゃないかって、そう思ったんだ」
ウルバはわんぱくで、俗に言うわんぱく小僧で、そしてあまり利口ではない。朝、あれほど約束したのに。ウスクルにこの話はしないと、あれほどふたりで話し合ったのにもかかわらず、ウルバはこうやって、ウスクルに神さまへの疑問を投げかけている。
「だって神さまの棺の中は、誰も見たことがないんだろ?」
先の火事の時、ほこらは災禍をまぬがれた。ほこらは守られ、木製の棺桶は燃えず、神さまは今も地下室で眠っている。
ウスクルは目尻をとがらせた。
「そうよ、見たことはないわ。でも神さまはいるのよ。そこにいらっしゃるの」
ウスクルは族長の娘であり、長女であり、誰よりも敬虔な神の信者だった。病弱な弟が、将来、族長になる日を夢見て、彼女は毎朝毎晩、神に祈っていた。
そんなウスクルにとって、ウルバの言葉は聞くに耐えないものだったに違いない。ぼくはあんなに怒っていたウスクルを見たのははじめてだったし、後にも先にも、彼女があんなにも怒っていたことはなかったと思う。
「ウルバ、まだ疑うの?」
疑うのなら、お父さまに言いつけるわよ。
ウスクルは族長の娘なのだ。ウスクルの弟は病弱で、族長の跡を継ぐことはたぶん、できない。
「わ、分かったよ」
ウルバは不服そうに口をとがらせた。ぼくたちにとって、ウスクルはぜったいだ。ぜったいに守られるべき、神さまよりも神聖な存在だった。
族長の座はきっと、ウスクルに譲られるのだろう。そして女は族長にはなれない。神さまが決めたことだから。
ウスクルは族長の娘であり、長女であり、誰よりも敬虔な神の信者なのだ。たぶん将来の族長は、ウスクルの夫がなるのだろう。
ぼくたちは翌日の再会を約束し、家路へついた。
別れ際、ウルバが何か言いたそうに口をもごもごさせていたのを、ぼくはとてもよく覚えている。
♢ ♢ ♢
昨日とかおとといとか、ほんとうはそんな最近の話ではなかったのだと思う。
ウルバの父親は飲んだくれで腰を痛めていて、満足に働いてもいないけれど、それでもウルバにとっては父親だった。暴力を振るっても、ろくでなしの父親でも、それでもウルバにとっては父親だったのだ。
息子は父親を信じていた。神さまはほんとうは死んでしまったのだと、そう口にする父の背中を見て育ち、いつしかそれは、彼自身の秘めたる想いになっていた。
神さまは死んだ。
二十年前の火事で。
でも現実にほこらは現存していて、そして地下には棺もある。火事の中、村の中でただひとつ無事だった、木製の棺。鍵がかかって開かないその棺の中身は、とうぜん神さまが横たわっているはずで、それでも中は誰も改めたことがないのだという。
ウルバは信仰を捨てていた。ぼくが気づかないうちに。彼はぼくの知らないところで、ただひとり、大人になっていたのだと思う。
その日の夜中、するどい鐘の音で目が覚めた。外は明るい。夜中のはずなのに、明るかった。
火事だった。
夢を見ているのだと思った。ぼくが知るはずのない二十年前の大災禍を、神さまがぼくに見せているのだと思った。
火の手は村の中央、あの神さまのほこらから上がっていた。ウソみたいに霧の晴れた空へ、黒い煙がもくもくと立ちのぼっていた。誰かが叫んだ。ヤギが、牛が、鶏が、鳴いた。
父と兄が家を飛び出て、母が妹たちを抱きしめて、ぼくは窓から炎を見ていた。ほこらがどうなっているのか分からない。でも大丈夫だ。二十年前の火事の時だって、ほこらは無事だったのだから。地下の棺に眠る神さまだって、きっと大丈夫。だって眠っているのは神さまなのだから。
ぼくは手を組んで祈った。ウスクルならきっとそうするだろう。そして族長と同じように、神さまへの祝詞を唱えるのだ。
「……」
でもぼくが考えたのは、神さまのことでもウスクルの柔らかく編まれた髪のことでもなく、自分の信仰に揺れる、ウルバの横顔だった。
♢ ♢ ♢
火事は夜中すぎには消し止められ、明け方にはいつもどおりの冷たい霧が、村を覆い隠した。
夜更かしをした村は死んだように眠り、ぼくも眠った。
目が覚めると夕方で、窓の外には燃えたほこらが見える。族長をはじめとした大人の男たちが、考え込んだように円を組んでいた。
ほこらは燃えた。燃えてしまった。二十年前の火事で焼け残ったほこらは、今度こそ燃えてしまった。
「……そうだ」
ウルバはどうしているだろう。神への不信にとらわれていたウルバ。不敬虔をとがめたウスクルのまなざし。
胸が逸る。鼓動が大きくなる。ふだん、ほこらに火の気はない。それなのに火事は起きて、現にほこらは燃えた。ほこらの地下室がどうなっているのか、それも分からない。
ぼくは家を飛び出した。
夕日が稜線に向かって溶けていく中を、ぼくはただひたすらに走った。
ウルバの家の前には人だかりができていて、ぼくはそれをかき分けるようにして家へと押し入った。ふもとの町から来た医者がいて、看護婦がいて、ウルバの母がいた。ウスクルもいた。ふたりとも泣いていた。
「……」
ウルバは伏せっていた。硬く目を閉じたまま、悪夢にうなされていた。
時おり思い出したようにけいれんし、腕をピンと伸ばしたまま、四肢を引きつらせてのけぞった。医者はウルバの左手に注射をして、看護婦は暴れる彼を押さえつけて殴られていた。
ウルバの母は泣き叫び、ウスクルは泣きながら神に祈っていた。開いた玄関からは、ざわざわとどよめく村人たちの声。薄暗い室内の中で、ウルバの父親は何も言わず、石みたいな視線を息子に投げかけていただけだった。
医者は両親にあきらめるように言い、母親は泣き崩れ、父親はやっぱり黙りっぱなしで、ぼくは大泣きするウスクルを送ってから家へ帰った。
村全体が寝静まった頃合いを見計らい、厨房からランプを拝借した。足音を殺して家を出る。
村を覆い隠す霧は晴れていた。夜空には星の海ができていた。
イエルヒェンの村は山岳地帯にある。夏場とはいえ、夜は冷える。ぼくは大急ぎでほこらへと走った。
ほこらは焼け落ちていた。御神体を模した石製の像だけが焼け残り、あいまいに彫られた顔が煤で汚れている。火事の後で誰かが供えたピンクの花が、夜風に揺れていた。
「……」
地下室への階段が、暗く口を開けていた。ランプをかざす。獣がうなるような風の音が、耳のすぐ横を通り抜けていく。
ウルバは言った。ウルバの父は言ったのだ。神は死んだと。二十年前の火事でほんとうは、神さまはもう死んでしまったのだと。
あの火事からもう、二十一年になる。
ぼくは神を
地下室も同じように燃えていた。階段に煤がこびりついている。炎が舐めた跡。焦げた臭い。その中でかすかに感じられる、油の臭い。
「……」
ぼくはランプを前に突き出した。
暗がりに慣れた目に、白い光が刺さった。白い光の刺激が過ぎ去るのを待ってから、ぼくは瞬きして、そして目を開けた。
「……そん、な」
木製の棺はあった。ほんとうにあった。
木製の棺は焼けていた。ほとんど原型を失ってもなお、それでもほんの少しだけ、焼け残っていた。
棺の中に、神さまはいなかった。
空っぽの焼けた棺だけが、そこに転がっていた。
♢ ♢ ♢
それがぼくの村で信仰されていた神さまの正体だった。
ぼくはスプーンでカップの中身をかき回しながら、
「たぶん、ウルバの父さんが言うように……。御神体は二十年前の火事で、燃えてしまったんだと思う」
御神体だけではない。ほこらだって、きっと燃えたのだ。今思えば、あのほこらはずいぶん小綺麗だった。何十年も、何百年も
ぼくは続けた。
「御神体もほこらも焼けて……。それでも当時の村人たちは、神さまの奇跡を信じるしかなかったんだ。ほこらを再建して、新しい棺を用意して……。そこに御神体が眠っていることを、自分たちが神さまに見捨てられていないということを、信じ続けたんだ」
過去を
ウルバの父親は真実を知っていた。彼は村の外の社会を知り、隔絶されたイエルヒェンの信仰を外から見て、そして自らの意思で神を捨てたのだ。
飲んだくれでろくでなしのウルバの父親。あの村の中でただひとり、信仰への
そしてウルバは彼の息子だった。
ひとり息子だった。
ずっとぼくの話を聞き続けてくれていた彼女は、ようやく口を開いた。
「それで? そのウルバって子は、どうなったの?」
「生きているよ」
そう、彼は死ななかった。三日三晩目を覚まさずに、三日三晩苦しみ抜いて、ようやく目が覚めたころにはもう、神への疑念を口にすることはなくなっていた。
「あいつは信仰に目覚めたんだ」
彼はウスクルと同様に、あるいはウスクル以上に敬虔な神の使徒となって、反対にぼくは急速にその信仰心をなくしていった。十三歳の霧深い夏の日にイエルヒェンの村を後にして以来、今まで一度も、故郷には帰っていない。
彼女は生ぬるくなっているはずのカップから、顔を上げる。
「あなたが神学の道に進んだのは、どうして? だって、あなた、神を信じていないんでしょう?」
どうしてだろう。
ぼくは考えた。スプーンでカップをかき回す。
「さあ、なんでだろうね」
イエルヒェンの村は、空っぽの棺に頭を下げ、そこに神さまがいるのだと信じて疑わなかった。ぼくの父も母も、あるいは族長たちだって、神の棺が燃えたことを知っているのに。神さまの棺桶は空っぽだと知っていてもなお、それでもひざまずき、祈り続けた。
結局のところ、信仰なんてそんなものなのだと思う。
「二度目の火事の後は、どうなったの?」
「ほこらは再建されて、それでも棺は焼けずに残ったんだ」
ぼくはたしかに、焼けた棺を見た。中身が空っぽの、御神体の入っていない棺桶を、たしかに見たのだ。
「だから真実を知っているのは、ぼくの世代では、ぼくだけだよ」
信仰に目覚めたウルバはまじめな青年になった。きっと美しくなっただろうウスクルと結婚するのだと、今朝、手紙が届いていた。
ウルバが地下室で真実を見たのかどうか、ぼくは知らないし、ウスクルはおそらく、何も知らないのだと思う。あの日、棺の中の真実を知らなければ、ぼくとウルバはまだ、ふたりそろってイエルヒェンの村で笑っていたのかもしれない。
ウスクルの弟は死に、族長の座はウスクルに譲られた。女は族長にはなれない。神さまが決めたことだから。ウスクルは族長の娘であり、長女であり、誰よりも敬虔な神の信者なのだ。
きっとイエルヒェンの族長は、ウスクルの夫になった、ウルバがなるのだと思う。
神の棺桶 山南こはる @kuonkazami
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