踏めない影に響く声
蒼樹里緒
踏めない影に響く声
立入禁止の屋上は、ある人と僕にとって大切な場所だ。本人のいる教室に行けばいいけど、なんとなくそうする気にはなれなかった。卒業式の迫る今日になっても、待ち人は現れない。
――今日もだめかな。
校庭に響く体育の授業の音、飛び去っていくカラスの鳴き声、雨も降りそうにない青い空。学ランのズボンをはいた膝を抱えて、眼鏡のレンズ越しにぼんやりと景色を眺めていると、ドアが開いた。
長い黒髪と紺色のセーラー服のスカートが、風になびく。僕の短い髪は、少しも動かないのに。彼女は、僕のほうを見て目を瞠った。
「あぁ、やっぱりここにいたのか」
安心したような微笑みと声音に、僕の心も揺さぶられた。
間違いない。彼女には、僕がちゃんと視えている。
♪
めちゃくちゃ美人な先輩がいる。
その噂は、クラスの男子たちの間でも持ちきりになっていた。
ほらあれだよあれ、と男子の一人が指をさした。
入学式直前の体育館で、在校生側のパイプ椅子に座り、ヘッドフォンで音楽を聴いているみたいな黒髪の女子。遠目に見ても、確かにきれいな人だとわかった。膝丈のスカートの裾からほっそりとした白い足が伸びて、涼しげな目を伏しがちにしている。ヘッドフォンを除けば一見清楚な雰囲気だし、刺々しさもないのに、なんだか妙に近寄りづらい。
逆に、女子たちの反応は冷ややかだった。なにあれ、感じ悪い、と露骨に陰口を叩いていたのも
その時は、学年も別だから関わることもないだろうと、それ以上気にはしなかった。
ある晴れた日、屋上に行くまでは。
先輩は、フェンスのそばに足を投げ出して座っていた。しかも裸足だ。
控えめにドアを閉めた僕を見て、彼女は穏やかに笑った。
「おや、私以外の来訪者とは珍しいな」
第一印象とはかけ離れた口調だったけど、不思議と先輩にはよく似合っていた。高すぎも低すぎもしない声が、水みたいにすっと体の中に入ってくる。
おいで、とやわらかく誘われて、僕は
「えーと……ここ、立入禁止ですよね?」
「そうだが、鍵は壊れているだろう。放置してあるということは直す気がない、つまり実質的には誰でも侵入可能だ」
「まあ、そうですけど」
「君、それはどうした」
先輩の視線が、僕の腕に抱えたずぶ濡れの体育着に向けられた。
うまく笑おうとしたけど、自分の口からは乾いたそれしか出てこなかった。
「今、うちのクラスは校庭で体育やってるんですけど。着替えようと思ったら、なんでかケチャップとかマヨネーズまみれになってて。洗ったんで、屋上ならよく乾くかなって」
「なるほど。ということは、サボりだな」
「先輩もそうじゃないんですか」
「違いない。授業は出ても退屈なだけだからな。それに、私は他人に興味がない」
「え?」
――でも、こうして僕と話をしてくれているのに。
僕の疑問を察してか、先輩はくすりと笑った。
「君は、私に恋愛感情を抱いていないだろう」
「え、はあ、そうですね」
「入ってきたときの視線も、下心は感じられなかった。だから平気だ」
――喜んでいいのかな。
戸惑いながらも体育着を自分の横に広げて干すと、先輩がぽつりとつぶやく。
「恋愛というものは、そんなに楽しいのだろうか」
彼女の黒真珠に似た瞳は、青空を無感動に眺めていた。細長い雲が、ゆったりと流れていた。
先輩の疑問に、僕はすぐ共感した。
「僕も、あんまりそういうことには興味ないです」
「ほかに関心があるのか」
「勉強です」
「学生の鑑だな、いいことだ」
「恋愛なんて不確かなものに振り回されるくらいなら、自分のためにがんばりたいんですよね」
「同感だ」
うなずいた先輩は、またどこか遠くを見つめた。
「愛とは厄介なものだな。告白してくる男子たちは、私の何を好きになったのだろう。やっぱり外見か」
「先輩は、そういうの迷惑ですか」
「ああ。私には、恋愛よりも優先すべき大切なものがあるから」
小さく息を吸い込んだ先輩の唇から、透き通る音色が紡ぎ出された。オペラみたいな歌は、昼前の空気に乗って爽やかに響いた。体育着にいたずらされたことなんて忘れるくらいに。
歌がやむと同時に、僕は拍手した。
ありがとう、と先輩はうれしそうに微笑んだ。
「ここに来る時も、先輩の歌は聞こえてました」
「そうか。誰かの前で歌うことは少ないのだが、君にならいいと思えた。なぜだろうな」
「そのヘッドフォンで聴いてるのも、オペラとかですか」
「いや、別に何も」
「えっ」
「これを着けていれば、周りの雑音は多少緩和できるから。自分の歌だけに集中したいしな」
先輩と直接話すのは初めてだったけど、しゃべっていても緊張はしなかった。最初から知り合いだったみたいに、自然と言葉が出てきた。
「先輩は強いですね」
「ん?」
「ひとりでいることが、怖くないんですか」
「なぜ恐れる必要がある」
彼女の声は静かなのに、眼差しは凛としていて。見つめられた僕の心臓は、大きく跳ねた。
「人は、得てして孤独なものだ。別の存在が周りにいることで、『ひとり』ではなくなる。それだけのことだ」
たった一、二歳の差とは思えないほど達観した言葉だ。
入学式の日も、先輩は自分から望んで孤立しているように見えた。勉強ばかりしてまともな人付き合いを避けた結果、周りから自然と浮いてしまった僕とは違って。
――僕のあり方とは、全然違うんだ。
思い知らされて、僕はうつむいた。
「……僕は、ひとりじゃやっぱりさびしいです。一緒に泣いたり笑ったりできる人がいたらいいのに、高校生になってもうまく友達が作れなくて。情けないですよね」
「恥じることはない」
「え?」
「君は、私と話していてつまらないのか?」
「そ、そんなことないですッ」
思わず大きくなった声に、先輩はくすくすと笑った。
「なら、だいじょうぶだ。私と君は単なる『上級生と下級生』かもしれないが、話し相手という立場にはなれているだろう?」
「……あの」
「何かな」
「また、ここに来てもいいですか」
「ああ、もちろん」
他人と関わることを遠ざけていた僕が、唯一近づいて話せた人。この時に出会ったのがほかの人間だったら、きっといい方向には変わらなかっただろう。
先輩の優しい笑顔に勇気づけられてから、僕は毎日屋上に通った。さすがに授業をしょっちゅうはサボれないから、昼休みや放課後だけだったけど。いつドアを開けても、先輩はフェンスのそばにいてくれた。
クラスでどれだけつらい目に遭っても、先輩の歌を聴くと、どんな傷でも癒されるような気分になれた。
それなのに。
僕が死んだ日から、先輩は屋上で歌うのをやめてしまった。
♪
「あぁ、やっぱりここにいたのか」
僕を見つけた先輩は、うれしそうに歩み寄ってくる。初めて話をした日と同じように、艶やかな黒髪が冷たい風にふわりとなびいた。違うのは、ヘッドフォンをつけていないことくらいだ。
僕も立って振り向き、頭を下げる。
「お久しぶりです。先輩には、僕が視えてるんですか」
「そうでなければ、声をかけはしないさ。自分でも、なぜ視えるのか不思議だよ。霊感もないから。だが、きっと君にはもう触れられないのだろうな」
僕の肩に伸びてきたしなやかな指は、やっぱりするりと体を通り抜けてしまう。
先輩の眉が下がる。
「……本当に、君は死んでしまったのだな」
「残念ですけど、そうみたいです」
「
「僕は、元々あんまり生きたいとは思ってなかったんで。事実として受け止めてるだけです」
「そうか」
僕が最期に見たのは、やけにまぶしいトラックのヘッドライトだった。
自分の葬式を誰にも気づかれずに傍観するのは、さびしかった。飾られた遺影を見ても、なかなか実感が湧かなくて。通夜で先輩がお焼香を上げに来てくれたことだけが、心の底からうれしかった。
あの事故以来、制服姿のままでいる僕は、通っていた高校の屋上に居座っている。どうしても断ち切れない未練があるとすれば、ここだけだ。
座らないか、と先輩に促されて、フェンスのそばにふたりで腰を下ろす。
靴と靴下を脱いで足を投げ出した先輩は、自嘲的に苦笑した。
「おかしなものだよ。君がいなくなってから、何かがぽっかりと抜け落ちたようでな。しばらくは、ここにも来られなかった」
「先輩、通夜にも来てくださってましたよね。ありがとうございました」
「……不幸な事故だったな。飲酒運転のトラックが、信号無視で突っ込んでくるなんて」
「死ぬのって、あっという間なんですね。痛かったのは一瞬でした」
「生きたいとは思わなかったのか」
「はい。人間、死ぬときは死ぬものだと思ってたんで。でも、先輩に会えなくなるのはさびしかったです」
先輩はわずかに目を
「君は、いつもさびしがっていたな。私は、少しでも君の助けになれていただろうか」
「もちろん。先輩のおかげで、勉強もがんばれました」
「二学期までの定期試験も、一年生で首位だったそうじゃないか。立派だよ」
「先輩も、受験はだいじょうぶでしたか」
「ああ。声楽科のある大学に進むことになった」
「よかった……! おめでとうございます」
「ありがとう」
空に浮かぶ雲は、
未練がなくなったら、僕はどこへ行くんだろう。死後の世界なんて、想像したこともなかった。命が尽きたらそこで終わって、全部消えるものだと思い込んでいたから。
先輩としゃべっていると、まだ生きているみたいに錯覚してしまう。こんなささやかな幸せはずっと続くはずがないと、わかりきっているのに。
「君と知り合うまでは、私は誰かのために歌ってはいなかった。母のようなオペラ歌手になりたくて、自分を高めることだけに集中していた。君に毎日聴かせて、初めて楽しさがわかったよ」
「僕も、先輩の助けになれてたってことですか」
「そうだな。あのヘッドフォンをつけるのも、もうやめた。もっと周りの音をよく聴こうと思って」
変わったのは、僕だけじゃないらしい。
今日は一緒に帰らないか、と誘われて、喜んでうなずく。
一日の授業は長いけど、先輩のそばにいられるなら、何時間でも待てるから。
♪
放課後の空は、いつもの
下校していく生徒たちをフェンス越しに眺めていると、ドアが開いた。
鞄を持って紺色のダッフルコートを着た先輩が、微笑んでいる。
「すまない、待たせたな」
「いえ、だいじょうぶです」
「退屈ではなかったか?」
「はい。空の色が変わっていくのがこんなにきれいだなんて、知りませんでした」
僕が信じるものは、自分の脳と努力だけだった。周りの景色なんて、ただ体の横を通り過ぎていくものとしか思っていなかったのに。
人も減り始めた頃、僕らは校門を出た。さすがに、屋上以外では会話も堂々とできない。僕の姿は、先輩にしか視えていないだろうから。お互い、しばらく黙った。
思えば、先輩とこうして帰り道を歩くのは初めてだ。通っていた塾の都合で、いつも僕のほうが先に帰っていたから。先輩の容姿が目立つのは校外でも変わらないみたいで、生徒以外の通行人の視線がちらちらとこっちに注がれる。本人は慣れきっているのか、眉を動かしもしない。
先輩の足元には長い影が伸びているけど、僕にはない。よく考えたら、実体のない幽霊に影なんてつかないよな。
死というものは、影に似ている。自分や他人が日常的に寄り添っていて、すぐそばにあると知っているのに、普段はあまり意識しないもの。僕は、自分の影をもう踏めなくなってしまったけど、あたたかい光が今も僕を照らしてくれているから。もう、それだけで充分だ。
人通りの少ない交差点に出たところで、先輩はやっと口を開いた。
「卒業式も近いというのに、私に告白してくる男子が絶えないのはなぜだろう」
「終わりが迫ってるから今のうちに、ってことかなと」
「そういうものか」
「僕も誰かにそういうことした経験はないんで、よくわかりませんけど」
先輩は他人に興味がないと言っていたけど、僕も似たようなものだったんだと初めて自覚した。他人と関わろうとしないくせにさびしがって、仲良くなろうとする努力もしなかった。先輩と出会っていろんなことを話して、距離の取り方や接し方がだんだんわかってきたんだ。
クラスのみんなとも、死ぬ前に少しくらい話しておけばよかったかもしれない。
「未だに、恋愛というものはよくわからない。だが、これだけは確かだ」
空は、赤ワインみたいな色を保っている。だんだん暗くなっていくそれを見上げながら、先輩は僕に真剣に告げた。
「――私は、君が好きだ。恋愛対象としてではなく、ひとりの人間として」
僕はもうこの世にはいない存在なのに、先輩はありがたすぎる言葉をかけてくれた。自分の心臓が今も動いていたら、バクバクと脈打っていたかもしれない。
暑さも寒さも空腹も眠気も、とっくに感じなくなっているのに。胸に流れ込んできたあたたかいものは、一体なんだろう。
「僕も、先輩が――」
言いかけて、口をつぐむ。
「……やっぱり、言わないでおきます」
「なぜ?」
「大切すぎて、自分で口に出すと軽くなっちゃいそうなんです」
「なるほど。あえて言葉にしないほうが伝わる想いもある、か」
先輩は、すんなりと僕の意思を汲んでくれた。どちらからともなく笑い合う。
横断歩道の信号が、青に変わる。
先輩が渡り出したときだった――ワゴン車が信号を無視して突っ込んできたのは。
「先輩ッ!」
――いやだ、この人が僕と同じ目に遭うなんて……!
先輩の黒い瞳が、見開かれる。
触れられないとわかりきっているのに、僕は手を伸ばした。
でも、てのひらには確かに先輩の腕の感触があって。
勢いで強く引っ張り、ふたりして歩道に倒れ込む。
バカヤロー気をつけろ、と怒鳴る運転手にイラッとした。どっちがだよ。
「先輩、怪我してませんか!」
「……ああ、なんともないようだ」
立ってプリーツスカートの
「君が助けてくれたのだな。ありがとう」
髪や肌を染め上げる夕焼けの光を抜きにしても、この瞬間の笑顔が今までで一番きれいだ。
――あぁ、そうだ。僕はずっと、先輩に触れてみたいと願っていたんだ。
これこそが、最大の未練だった。他人との距離をうまく縮められなかった僕が、ただひとり、限りなく近くにいたいと思えた人。
喜びが全身を駆け巡ったとき、すぅっとつま先からなにかが消えていく感覚がした。自分の足元が、透けている。
先輩の微笑みに、さびしそうな色がまじった。
「いってしまうのか」
「時間切れ、みたいですね」
「なら、私は歌を捧げよう」
「え?」
「見送ることしかできないなんて、悔しいからな。これくらいのことはさせて欲しい」
「……ありがとう、ございます」
「私こそ、ありがとう。君と過ごせて、本当に楽しかったよ」
そうして、ふたりきりの道に澄んだ歌声が響き始める。葉の落ちた木の枝さえも優しく撫でるような歌だ。オペラには詳しくないけど、クラシックにもある
誰かのために――先輩のために、僕は初めて涙をこぼした。
先輩は、僕が完全に消えるその瞬間まで、笑って歌い続けてくれた。
踏めない影に響く声 蒼樹里緒 @aokirio
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