赤い傘

尾八原ジュージ

赤い傘

 スマホを見ると、画面には21:24と表示されている。俺は折り畳み傘を広げながら、とっとと帰ればよかった、と後悔した。


 大学の図書館を、閉館と同時に出たのが午後9時ちょうど。それから駐輪場に行ったら、サークル仲間に会って立ち話をしてしまった。その間に雨が降り始めたのだ。


 サークル仲間は大急ぎで自転車をこいで行ったが、こちらはそういうわけにはいかない。図書館で大きな本を3冊も借りてきてしまったのだ。これを持って片手運転は辛い。まして雨の降る夜である。


 しかたがないので、俺は自転車を置いて、バスで駅に向かうことにした。駐輪場から学部棟のバス停までは徒歩約5分。9時30分の最終便には何とか間に合うはずだ。そのバスを逃してしまうと、駅まで30分、重い本を抱えて雨の中を歩く羽目になる。


 さっき降り始めたばかりの雨は、どんどん激しさを増していた。早くもスニーカーの底に水が染みている。もう6月の初めだが、こんな夜はやっぱり少し肌寒い。


 本が濡れないように、バックパックを前に抱えた俺は、人気のないキャンパスを急ぎ足で歩いた。ぽつりぽつりと立っている街灯が、わずかな光を投げかけている。


 やがて前方左手に、真っ黒い箱のような学部棟が見えてきたとき、俺はふと嫌な話を思い出した。おあつらえ向きに雨も降っている。


 俺は思わず辺りを見回した。誰もいないようだった。足を速めて学部棟を回り込むと、ようやく前方にバス停が見えてきた。


 俺はほっと溜め息をついた。バス停の横に赤い傘が見える。誰かが待っているということは、まだバスは来ていないということだ。


 庇もベンチもないバス停に、ひとりで立っていたのは女性だった。大きめの傘をさしているので顔は見えないが、どうやら知人ではなさそうだ。服装からして学生らしい。


 身長150センチくらいの小柄な女の子だが、手足が長くてスタイルがいい。傘と同系色のシャツの袖をこなれた感じに捲り、スキニージーンズに白いミュールを合わせている。右肩にかけたカンバス地の白いトートバッグが、ぱっと目についた。


 どんな顔かな、と思いながら、俺は彼女の右側に立ち、声をかけた。


「どうも」


「どうも」


 傘が前後に揺れた。顔は見えないが、会釈をしてくれたようだ。


「バス、まだ来てないですよ」


 やった。向こうから会話を続けてくれた。ラッキーだ。しかも声がかわいい。相手の顔が隠れているのをいいことに、俺は堂々とニヤついた。


「そうですか! よかった~。駅まで歩きたくないですよね」


「ほんと。歩くと遠いですよね」


「しかも雨だし。結構降ってきましたね」


「ツイてないですね」


 彼女はそう言ったが、俺は内心(ツイてるぜ!)と心の中でガッツポーズをしていた。このまま会話を弾ませたい。もしも好みのタイプだったら、別れるまでになんとか名前と連絡先を知りたい。それが駄目なら顔見知り程度の仲になんとか……。


 うまい具合に雨が降っている。俺は、とっておきの話題を出すことにした。


「雨の日に、学部棟の近くに幽霊が出るって話、知ってます?」


 学内ではそこそこ有名な噂だ。赤い傘がぴくりと動いた。


 意外に思われるかもしれないが、怖い話が好きな女の子は意外と多い。俺は初対面の女の子にあえて怪談を語ることで、今までに18人の女の子と連絡先を交換することに成功した。もっともそのうち2人は友達止まり、6人は顔見知り程度、残りの10人はいつの間にかフェードアウトしてしまったが。


「知ってますよ」


 女の子が答えた。やっぱりこの噂は学内での認知度が高い。したがって共通の話題になりやすいのだ。


 頼りない街灯の光。寂しげな雨音。少し冷たい夜の空気。


 怪談にはふさわしい雰囲気だ。


 それに、彼女はちょうど赤い傘をさしている。


 俺は話を続けた。


「雨が降ると、学部棟の周りに赤い傘をさした女の幽霊が出る……ですよね。俺、ゼミの友達から聞きました」


 俺の目の前の赤い傘が、うなずくようにゆらゆらと揺れた。


「そうそう。結構有名ですよね」


 彼女の声色には、怖い話を嫌がっている気配はなかった。むしろ楽しんでいるようだ。


「俺思うんですけど、何で雨の日なんですかね。やっぱりジメジメして、幽霊が出るのにいい感じなんですかね?」


「ふふふ。私、何でか知ってますよ」


 含み笑いのような声で、彼女が言った。傘がまたゆらゆらと動いた。


「えっ、マジですか?」


「はい。雨の日しか出ないのは、顔を隠すためです。雨の日は傘で隠せるでしょ?」


「へー、その説は初耳だなぁ。じゃあ、なんで顔を隠すんでしょうね?」


 ふと、赤い傘がぴたりと止まった。俺と彼女の間に、少しの沈黙が流れた。


「……飛び降りたんです。学部棟の4階の、美術室の窓から」


 女の子がぽつりぽつりと話し始めた。


「今は学部棟の4階の窓って、全部格子がついてるでしょ? あれは飛び降り自殺があったからなんです」


「ははは、マジすか。こえー」


「本当ですよ」


 真面目というより、冷たいくらいの声が返ってきた。


 俺は急に、背筋がぞっと寒くなった。あの傘の下で、彼女は今、一体どんな顔をしているのだろう。


 女の子は淡々と話を続ける。


「落ちていく途中に、玄関の庇の角に顔をぶつけて、顔面が思いっきりえぐれたんです。だから」


 突然、雨音が強くなった。俺は知らないうちに、前に抱えたバックパックをぎゅっと抱きしめていた。バスの到着時間はとっくに過ぎているはずなのに、まだ姿も見えない。


 心細い街灯の下に、赤い傘が浮かび上がって見える。


「だから顔を見られたくないんです」


 傘で顔を隠したままの彼女の囁き声が、雨を縫って耳に届く。


 ふと、女の子の真っ白なトートバッグが俺の目を奪った。バッグの底が、真っ赤に染まっていたのだ。赤い液体がぽたりと滴り落ち、足元の水たまりに溶けた。


「あ……カバン……」


 思わず口から漏れた声は、やけに掠れていた。


 赤い傘が少し動いた。


「カバン……? あっ」


 女の子の声が突然大きくなった。


「あーっ! 顔料が溶けてる!」


「へっ?」


「雨でバッグが濡れて……もう、何で蓋が開いてるのー!?」


「ははは……」


 思わず乾いた笑いがこぼれた。俺は一体、何をそんなに怖がっていたのだろう。この子は人間だ。バッグを覗き込んで慌てている。ごく当たり前の女の子じゃないか。


「大変ですね。よかったらこれ、使ってください」


 俺はバックパックからポケットティッシュを取り出して、女の子に差し出した。こんなものが役に立つかわからなかったが、彼女は「すみません」と言って俺の方に右手を伸ばし、ティッシュを受け取った。雨で冷えたのだろう、氷のように冷たい手だった。


「はぁ……もう、私こんなのばっか」


 女の子はバッグを見ながらため息を吐いた。「やなことばっかりなんです」


「そんなことないですよ! ぜーったいいいことありますって! そうだ……」


 今度一緒に新しいやつを探しに行きましょうよ、と言おうとした俺を遮って、彼女が「そんなことないですよ」と言った。


「だから飛び降りたんです」


「えっ?」


 そのとき、サーッという音が聞こえた。右を向くと、バスのヘッドライトが雨にけぶって見えた。


「あ、バス来たみたいですね……」


 そう言いながら振り返ると、赤い傘をさした女の子の姿はなかった。


 茫然と立ち尽くす俺の目の前に、雨水を跳ね散らかしながら、バスがようやく停車した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

赤い傘 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説