3.

 そうだ、あの花。なおちゃんの上に小さな奇跡みたいに乗っかっていた、桜の花。

 結局わたしは、あの花をどうしたのだろう。二十年も前の記憶の続きは、白いもやに呑み込まれてしまっている。

「なおちゃんの桜……」

「奈々緒ちゃんのだよ」

 返事が耳に飛び込んできて、わたしは今度こそ、心臓が止まりそうにびっくりした。反射的に顔を上げる。

 目の前に立っていたのは、小さな女の子だった。黒い髪を二つ結びにして、まるい瞳でまっすぐわたしの目を見ている。

 一緒に遊んだ時のままの、なおこちゃんだった。

「奈々緒ちゃん、忘れて帰っちゃうから。菜奈さんが押し花にして、楽譜に挟んだの」

 なおこちゃんが伯母について語る声音は、不思議な慈しみに満ちていた。

「いつか奈々緒ちゃんがまた遊びに来たとき、今度こそ忘れずに渡せるようにね」

 目を細めて笑う。幼い女の子のように、年老いた猫のように。

「菜奈さんは忘れちゃってたかもしれないけど、菜奈さんが奈々緒ちゃんのこと待ってたから、なおこが代わりに待っていてあげたよ」

 なおこちゃんの言葉は謎かけみたいだ。わたしは何も答えられない。答える言葉を、持っていない。伯母の楽譜を抱えたまま、なおこちゃんの笑顔をただ黙って見つめている。

「奈々緒ちゃん、ピアノ弾いてくれて、ありがとう。菜奈さんより」

 言いおえると、なおこちゃんは満足そうな笑顔のままわたしのわきを通り過ぎ、開け放してあった居間のガラス戸を抜けて出て行った。なおちゃんがいってしまったのが、見なくてもわかった。

 わたしは、手の中の楽譜と、右手のグランドピアノを順番に見やった。それから、埃がなるべく舞い上がらないよう慎重にピアノの屋根をひらいて、椅子に腰かけた。

 譜面台に楽譜を立てかけ、すっかり色褪せた桜の花を、そのわきにそっと載せる。

 どっしりとした黒いグランドピアノが奏でる音には、一つの狂いもなかった。わたしの記憶にはもう残っていないけれど、きっと、二十年前と同じに柔らかくて、二十年前よりも鮮やかな音色だった。

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はなむけ 音崎 琳 @otosakilin

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