2.
「なおちゃん、なおちゃん。どこにいるの」
どこにもいない。ソファの上にも、テーブルの下にも、ピアノの陰にもいない。
おばさんの家の、小さな黒猫。なーお、と鳴くから、なおちゃんっていうんだって。
「なおちゃん、なおちゃん」
おばさんの家に来たのは初めてだから、あちこち見て回るのは少しきんちょうする。おばさんは、わたしがピアノ教室に通いはじめたのを知って、それならうちに大きなピアノがあるから、弾きにいらっしゃいと招待してくれたのだ。
おばさんは、お茶とおやつを用意するね、それまでなおと一緒に遊んでいて、と、どこかへ行ってしまって、まだ帰ってこない。
それなのに、なおちゃんがいなくなっちゃった。
「なおちゃん、なおちゃん」
あっちこっちに花が生けてあるせいか、家じゅう不思議な、良い香りがする。あんまり歩きまわると、元の部屋に戻れなくなるかも。そう思うと、急に不安になってくる。
くるりと踵を返したところで、目が合った。
「なおのこと、呼んだ?」
「え……?」
目の前に立っていたのは、わたしより少し年下に見える女の子だった。黒い髪を二つ結びにして、まるい瞳でまっすぐわたしの目を見ている。
「えっと……わたし、なおちゃんを……」
蚊の鳴くような声で答える。ひとり暮らしのおばさんの家に、他の子が遊びに来ているなんて聞いてない。
女の子はぱちぱちっと瞬きしてから、ぺろりと舌を出した。
「なおちゃんじゃなくて、なおこ」
「なおちゃんを探してるの……猫の……」
なおこちゃんは両手でわたしの手を引いて、にっこりした。
「なおこと一緒に遊ぼうよ」
こっちこっち、と、なおこちゃんは慣れた様子でわたしを先導し、居間のガラス戸からテラスに出た。そのまま、裸足で庭に降りる。
「ちょっと待って」
玄関で履かせてもらったスリッパと、迷ったけれどよそいきの白い靴下も脱いで、テラスの上に並べて置く。それから裸足で芝生に降りた。青あおとした芝は日ざしでほんのり温まっていて、足の裏がちくちくする。どこからか舞い込んできた白い小さな花びらが、点々と散っていた。
なおこちゃんの遊び方は、鬼ごっこのようなかけっこのような、ルールのない気まぐれなものだった。走って逃げていたかと思えばこちらを追いかけ、いつの間にか手をつないでいたと思ったらまた逃げる。おばさんの家の庭はどうやらとっても広いようで、花壇以外にも植え込みがあったり、木が生えていたり、れんがの道がつたのアーチの下を通っていたり、椅子と丸テーブルが置いてあったり、はては小さな噴水まであった。
次々と変わる眺めに夢中になっているうちに、いつの間にか、なおこちゃんの姿が消えていた。
「なおこちゃん、なおこちゃん」
心細くなって、名前を呼んで歩く。ここでなおこちゃんとはぐれたら、今度こそ迷子になってしまう。それなのに、なおこちゃんは見つからない。庭にいるはずが小さな森の中のようで、太陽が木の葉に遮られてひんやりする。二股に分かれた小路の上で、わたしは途方に暮れて立ちすくんだ。
ひらひらと、視界に白い花びらが舞っていた。
あたりを見回す。左手の木々の奥に、白く染まった梢が見える。
白に向かって駆け出す。木立を抜ける。急に日ざしの下に出て、眩しさに目が眩む。
何度も目をしばたかせる。ひらひらと白い花びらが零れている。
木立のはずれに一本だけで立っている桜の木が、満開になっていた。その根元で、小さな黒猫が、のんびりと四肢を伸ばして寝そべっていた。
「なおちゃん……」
黒猫のそばにかがみこむ。小さな額に、白い桜の花が一輪、乗っていた。
そっと指を伸ばして、花をつまみあげる。猫が不意に目をひらいて、こちらを見た。一度大きく口をひらいてから、ぺろりと口のまわりを舐める。あくびのようにも、笑ったようにも見えた。
猫はそのまま身体を起こし、一つ伸びをしてとことこ歩き出した。行く先に目を向けると、すぐそこがテラスで、おばさんが手を振っていた。
「庭にいたのね、奈々緒ちゃん。……あら?」
おばさんは、わたしの右手に視線を留めて、首を傾げた。わたしはつまんだままの桜を、落とさないように両手で包んで、差し出して見せた。
「このお花、貰って帰ってもいい?」
おばさんに身体をすり寄せていたなおちゃんが、なーお、と、返事をするように鳴いた。
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