はなむけ

音崎 琳

1.

 その黒いグランドピアノは、居間と二間続きになった小さな部屋のまんなかで、埃除けのカバーを被っていた。カバーの上も、椅子の座面も、うっすら白い埃で覆われている。そしてピアノと向き合うように置かれた書棚の、ちょうど目に留まる位置に、小さな子ども向けの練習曲集が差してあった。そこにもやっぱり、薄く埃が積もっていた。

 この家には、幼い頃に一度来たきりだ。はっきりと覚えているのは、大きなピアノがあったことだけ。

 書架に眠っていたその楽譜は、もちろんわたしにはなじみのないものだ。首を傾げる。聞いたかぎり、この家にピアノの練習をする子どもがいたことはないはず。

 不思議と気にかかって、つい手に取ってしまう。勝手にひとのものを盗み見ているような後ろめたさが、心臓の鼓動に拍車をかける。

 ぱらぱら開いた楽譜の中に、何かが挟まっているのが見えて、心臓がどきりと音を立てた。

 そっとページを開きなおす。白い、柔らかな……ティッシュペーパー。まんなかにぼんやりと、茶色が透けて見える。五枚の花弁が広がった、花の形をしている。

 桜の花だ。

 気づいた瞬間、何かがどっと胸に押し寄せてきた。何だろう、何か、わたしは知っている、思い出せない、覚えている。満面の幼い笑顔がまなかいに浮かぶ。

 そうだ。『なおこ』。あの子はなおこと言っていた。

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