第4話
ボンッ、激しく手が叩き付けられて、
「勝手にしろ! 二度と戻ってくんな!」
投げ捨てるみたいなでかいガラガラ声が響き渡った。
「冗談じゃない、戻ってくるかって! わたしこそ!」
二倍返し! わたしは思いっきり叫んでやった。
何押しつけてきてんだよ。いい加減、切れたっての!
ドアを叩き閉めて、蹴飛ばしてやった。
くそぉ、これくらいじゃ収まらない。
うざい、うざいんだって! このバカ!
わたしの気持ちなんてね、シンジにわかるわけないっての。働いてりゃそれでいいっての?
だいたい、あ~だこ~だ、ホントはわたしを使い回してるだけじゃない。
ぶるぶる震えながらきしむ安アパートの階段。最後の四段を飛び降りると……、ああっ、足が痛い。
『二度と戻ってくんな!』
上等だよ、こっちから願い下げ。もう、おしまい! 終わり!
だいたい、何様のつもり!
ここんところずっと我慢してきたけど、もう、限界。
『何だよ、オレの服は? おいおい、あれ、困るんだよな。今日、着てこうと思ってたのにさ』
うだ~っと座ってて言う台詞? だいたい、態度がデカすぎ。
『お前なぁ、いっつも言うけどさ、ズボンくらい履いてろよ。朝から平ったい尻が見たいわけじゃないんだからな』
家ん中で楽にしてて何が悪いって。いちいち、いちいち、うざい!
服がどうとか、もうちょっと化粧をどうにかしろとか。言う事はそれだけかって。TV見て、へらへらしてるばっかのクセに。
『おい、めぐ。やっぱ可愛いと思わん? な、あの胸、お~、最高』
そう。
オトコがそんなんだってのはわかってるけどさ、いい加減、呆れるって。エログラビア見るのもしょうがない
でもね、口を開けば、ムネムネ、ムネムネ。
埋もれてみたいって、男のロマンって……そういうこと、平気で言うかな。わたしの胸が小さいってバカにしてるのとおんなじじゃない。
ああ、それはまだ、いいんだ。それぐらい、わかってる。シンジだけが特別、なんて思ってない。特別、なんて……。
でも、ここんとこのあれは何?
わたしはあんたの奴隷じゃないんだから。しかも、エッチまで込みの。
ううん、エッチがあるからこそだ、きっと。
『そうそう、そっち、いいわ、やっぱ』
弱点の左側のカリのところ、舐め舐め……そして、あの時の、この間の。
自然に浮かんでくると、ああもう、むかつく。
こんなんじゃないって、思ってたなぁ。わたしが甘かったのか……うん、たぶん、そうだ。
『こっちは?』
袋の裏側からたどって、毛のもわっとした太ももを押し広げると、
奥への小道をちろちろと――そう、昨日だって。
上目遣いにうかがうと、仰向いたままはあはあ、すっかりマグロ状態で。
(ふふ、感じてる、感じてる)
でも、なんだか可愛くて、もっとしてあげたくなって……それは、いつも感じることなんだけど。
舌を尖らせて一番深いところを割ると、ちまっとしたシワシワに、ツンツン。
それで、片手は太もものあたりをぐるぐる、もう一方の手は、根元から上の方を優しく。
当てた手で、緊張してくるのがわかる。先っぽへ指を這わせると、あ、もう限界かも。
(わたしも)
一緒に感じたい、中でビクッとして欲しいな。
またがって、上から入れて。思った瞬間、あっ……。
うっ、喘ぎ声が聞こえて、手の中で膨らむ。ダメ、ちゃんと気持ちよくしてあげないと。
唇で包み込んで、すぐに口の中で弾ける。
袋に当てた手を柔らかく、お尻はギュッと抱き締めて。
――でも、何だっての。
終わったら、話す事ぜんぶに、「ああ」「おお」。気がついたら、いびきかいて寝てる。
もう、思い出せば、ここんところそんなのばっかり。普段はゴロゴロ。したくなったら、それらしいこと言って、おざなりに触ってきて。
「今日はしてやるか?」
そんなさ、付け足しみたいに言われても、ちっとも嬉しくなんかない。結局、気持ちよくなりたいだけでしょ?
わかってるけど、そんなの。
エッチばっかりじゃない。他だって、そう。結局、何もかもお世話して欲しいだけじゃない。
うまく使いまわして楽して、愛想ふるっておいて。
「どっか食べにでも行くか?」
思いつきで言われたって、底は見えてるんだ。そんなの、見てきた。よく知ってる。人間なんて、すぐ自分に甘えちゃうんだ。
いつだって、うなずいてる方がいつの間にかゴミ箱行き。捨ててる方は、その後どうなるかなんて、気にしない。
あ~あ。
わかってるけど、こんなだって。
でも、でも、ね。
『俺はめぐみのこと、道具になんてしない』
…………。
ああ、やめよ。むかついてくるばっかだ。やれないなら言うなよな、そんなこと。口だけのオトコなんて、いちばん嫌い。
ネオンが一つ、二つ。空も、真っ暗。
もうこんな時間かぁ……ミスドの時計、8時半。どうしよっか……。
お金、持ってるっけ? 引っつかんできたポーチの中身……四千円。こんなんじゃ、二晩食べるので目一杯だ。
あ…。
いつもより軽い感じ、しまった、ケータイ!
テーブルの上、充電器に置いたままだ。
ああ、どうしよ。参ったなぁ……。
ドン、肩にぶち当たってきた高校生。この、ちょっとは気を付けてよ。フラフラしてると、また、ドン。もう。あ、後ろから凄い勢いで人が溢れてきてる。
腰を下ろすと、駅の端っこ。考えてみたら、今日は金曜日だっけ。
だよね、だから慎二、出かけるって言ってたんだもん。
……バカ。帰ってくるなり勝手ばっか言ってさ。
あごに手をついて、ぼんやり光を見つめてた。
いろんなことが頭を巡る。昨日見たTVの音、さっきの怒鳴り声、この間、コンビニのおばさんと話したこと、あ、あのゴスなスカートも、いいなぁ……。
ぐるぐる、ぐるぐる、頭の中で回る。通り過ぎてく人、人、人。
キラキラ、光る。楽しそうな話し声、バカ笑い。叫んだり、遠くで鳴ってる音楽……。
こんなとこで座ってるの、久しぶりな気がする。そうだよ、ずっと慎二と一緒だったもの。ずっと、って、どれくらいだっけ?
去年の夏は、一緒だった。海も行ったし。その前は……、なんかよく思い出せない。あの時、久しぶりって思ったんだ。中学の時、家族で行って以来って。
もうすぐまた夏。どうしよう、今年は……。
「バカ」
言いたくなった。
「バカ!」
ほっぺたに空気を入れて、口をぷぅ。もう、どうでもいいや。
「……したの。寂しい~って感じじゃない」
いきなり頭の上から降ってきた。なんか、鼻にかかったオトコの声。
わたしに……?
見上げると、いかにも、な感じの奴。目の色だけでわかる。細めて、ちょっと湿った感じの。
ああ、今、取り込み中~。あっち行って。あたし、今一人モードなんだよね。
言おうと思って、
「え……と、あ……」
声が出ない。
にやけた顔、後ろのコンクリート壁に手をつくと、
「あ、その服、かわいいなぁ」
あれ、どうしてだろ、えっと……。
「ねぇねぇ、ちょっと遊ばん? ほれ、連れもありだしさ」
ズルッとしたシャツの腕で指差すと、
「お~い、山崎ぃ~」
宝くじ売り場のとこで、長めの髪の男がオッと口をとがらせて……。
背中が重い感じがズンとして、手を握り締めてた。
自然に立ち上がってて……怖い。
「お、オッケー? そうこなくっちゃね」
無造作に肩に回される手。
イヤだ! やめてよ。
「やめて!」
怖い。すごく、どうしよう。お腹と胸の中に、じわっと重くて暗いもの。
「お、ちょい待ってって」
走り出してた。人の肩、振られてる手、手。声の嵐。光がごちゃごちゃに降りかかってくる。
「いてぇ」「おい」「何、あの子」
やめて。誰も、来ないで。イヤだ!
走って、走って、走って。……息が切れてる。だんだん、声と人の波が少なくなって。
しゃがみこんだ。ああ、苦しい。
胸を抑えたら、手が震えてる。
ギュッと握りしめて、唾を飲み込んだら、少し……。
怖かった。
あの、にやって笑った顔。目が、ダメ。怖い。
息が吸えるようになる。見上げたら、デパートのでっかい広告……。
裏の地下道の入り口だ、ここ。
目を閉じて、唇をぎゅっ――どうして?
まだ背中が震えてた。
地下道からスロープを上がってくるカップル。帽子のカレシがこっちを見下ろすと、腕を組んだカノジョが、ふざけた調子で耳元に何かを言って……。
イヤだ。
はっきりした言葉が、胸に上がってきて、また……。
奥歯をかんで、押さえ込む。だめ、落ち着かないと。なんで、もう。急にこんなになるの? 誰かに……どっかに行かなきゃ。
ジーンズのポケットを探ると、鍵は……持ってた。
ケータイを取りに行こう。ないと、どうしようもない。ケイも、このはも、たぶんまだ連絡とれるはずだもの。この間、話したばっかりだし。
事情話して、ちょっと泊めてもらおう。
それから……それからのことは、あとで考える。
アパートの階段を上がってドアを開けると、部屋の中は真っ暗だった。
窓の外の光に照らされたテーブルの上――食べかけの惣菜がそのまんま。まだ、飲み会行ったまま、だよね。所長のなんとか祝いだっけ……たぶん、遅くなる。
ケータイ、あった。荷物もいろいろ持ってかなくちゃ。どうせだもの。
冷蔵庫を開けて……あ、まだこの間買ったピザがある、お腹減ったし、食べてこう。
レンジでチン……ああ、あったかい。
もう五月だし、そんなに冷えるはずないんだけど。夜だから、かな。ケータイの表示、十時、かぁ。
ピザが美味しい。この間、ダブルチーズだ~って、買ってきた奴。
やっぱり、正解だった。
はあ……。
息を吐いて、背中がジンとする。台所の窓がガタガタ……風が吹いてる。
このままここで待ってて、あいつに話したら。それで、ちゃんと気持ちを伝えれば、また……。
やめよ。そんなの、無理だ。だって、わかってる。
『二度と戻ってくんな!』――無理して一緒にいたって、いいことなんて何もない。押し付けたって、ダメなんだ。
テーブルに腰かけたまま、ひと息。バック、出さなきゃ。シンジが帰ってこないうちに、出て行こう。
ケータイ、誰にかけよう。近いところがいいな。さっきみたいなこと……駅前は今ちょっと、行きたくない。
……あれ?
電気に照らされた玄関をなんとなく見て、初めて気づいた。入ってきた時は、真っ暗だったから。
あれ、いっつも履いてる茶色の革靴だ。
ミシ。
奥で何かがきしむ音がした。ベッド?
まさか……寝室のドアを開ける。
え、どうして?
暗がりの中で、影がもそりと動く。布のずれる音が、低く響いた。
布団かぶって出てるのは、顔、だけ?
「シンジ……」
どういう……もう、帰ってきたの?
ううん、たぶん違う。だって、様子が……。
「……おぅ」
小さくて、掠れた声だった。なんだか、視線も合ってない。もしかして。
「熱?」
「ああ、ちょっと、な」
背中に何かぞくっとした感じがして、ぜんぶ吹っ飛んでた。
電気をつけて、ベッドの横にしゃがみ込んだら、ひどい。
目は真っ赤で、顔全体がむくんでる感じで……。
「大丈夫? 高い?」
額を触ったら……うわ、あつ。
「八度ちょい」
短く答えがきた。
「ウソ、そんなんじゃないよ。もう一回、はかって」
枕元に置いたままの体温計を渡すと、ちらっとこっちを見て、黙ったまま脇にはさんだ。
ピピピ。
すぐに音がすると……やっぱ、ひどい。三十九度五分、高熱だ。
どうしよう……まず、氷枕出さなきゃ――立ち上がりかけた時、横で電話が鳴った。手がすぐ伸びてきて……ちょっと、シンジ。
「はい……。あ、さっきはどうも、篠原さん。
スマンっす、ちょっとやばくて、熱高いもんで。
あ、所長には言っといてください。はい、すいません」
ぼそぼそ話し声が続く。わたしは、冷蔵庫を開けて氷枕を出した。
薬は、飲んだのかな。薬箱……あ、開けてある。
氷枕をタオルに包んで戻ってくると、まだ話してる。今は、さっきよりトーンの高い声。
「あ、所長、ええ、え? ひどいっすよ。俺だって風邪引くんすから」
もう、無理して。変なとこで愛想いいんだから。
通話が終わると、受話器を布団の上に投げ出したまま、その場にばったりうつぶせ気味になった。
「あぁ、きっつい」
小さく呟くと、こっちに向けたトレーナーのでっかい背中が苦しそうで。
ああ、もう。
背中に手を当てて、
「大丈夫? 何か買ってくる?」
「……いい。いらん」
また短く言うと、そのまま布団をかぶって横になった。
と、また子機がプルルルル……。
もう、何?
動きかけるシンジ。
わたしは、上げられた手を軽く押しのけると、通話ボタンを押した。
「メグ、出るなって……」
小さい声。そんなの、聞こえない。
「はい」
と、受話器の向こうから、ガヤガヤした声が響いてくる。
間違いない、飲み屋かなんかのBGMだ。
『あ~、やっぱ~』
ちゃらけたオトコの声がいきなり。
『どうもね~、カノジョぉ。シンジは~? 楽しくやってる~?』
何だっての? メチャクチャ酔ってんじゃん、こいつ。
「あの、それどころじゃないんだけど。今……」
叫んでる声が聞こえた。
『所長、やっぱ、オンナっすよ。あいつ。まったく、あのバカ!』
「ははは」「エロバカ!」――うるさい合いの手。
「ちょっと、ねぇ……」
言っても、全然聞こえてない。と、プチ。いきなり通話切れるし。
「バカじゃないの」
受話器をベッドサイドに投げた時、
「出るなって言ったろうが……」
小さいうめきが聞こえた。
「何言ってんの。もう、電源切った。バカじゃない、あんなの」
「違ぇんだって。おまえ、何もわかってねぇな。……あぁ、きっつぃ」
「はいはい。いいから、寝てなって」
普通じゃないよ、あいつら。ただの熱じゃない、三十九度五分だよ。
声聞きゃわかるじゃない。ホント、脳みそあるのかって。
持ってきた氷枕を置いて、ほら、シンジ、ここ。
「ああ、月曜、やべぇなぁ……」
目を閉じたまま眉根が寄ると、
「バカめぐ。ほんと、おまえバカ。出るなって言ったろうが」
色のない唇が小さく悪態をついた。あのねぇ……。
「出て何が悪いのよ。クソ飲み会じゃない、あんなの」
「わかってねぇ。ホント……、ああ、きっつぃ」
わかってねぇって、どうせ、いつも聞いてるアホ所長のご機嫌取りでしょ?
ゴマ擦ったって、結局ダメな奴じゃない。
無理してまですること?
あんな会社、過労死したって「そんなつもりありませんでした」だよ。この間、朝のニュースで見たみたいに。
「飲み物は? ポカリでも買ってくる?」
投げたみたいなため息が聞こえた。
「……ああ。頼む。さすがにちょっとやぱい」
自販機で飲み物を買ってくると、シンジはもう、目を開けてなくて。
ねえ、飲む?――声をかけても、はぁはぁ、苦しそうな寝息が返ってくるだけだった。
もう一度、額に手を当てる。
やっぱり、すごく高い。額ににじむ汗。半分開いた口。
すごく疲れて見える顔全体……。
大丈夫かな。やっぱり九度五分なんて、簡単な熱じゃないよ――
もしかしたら、救急車、呼んだ方がいいのかな。
布団をかけて、横に腰かけた。
「シンジ……」
自然に口から声が出て、なんだか、胸がグッとなった。
急に変な眺めが頭をすぎる。
ああ、何考えてんの、やめなって。
……どうしよう。
違う、そんなこと、考えても。
どうしよう、このまま、シンジが死んじゃったら。
ダメだって、そんなこと……。
喉の奥が冷たくなった。
シンジが死んだら、わたし……。
目を閉じると、頭の奥が真っ黒になって、それ以上考えられない。
抜けて何もかもがなくなった黒い黒い穴の中に、何もないわたしがいて、わたしは……。
目を開けて、シンジの顔を見た。
大丈夫、大丈夫だよ。そんなこと、あるわけない。大丈夫。
繰り返して、また戻って……。いろんなことが頭に浮かぶ。
そして、急に、深くて暗い……思いっきり首を振ると、合わせた手を握り締めた。
お願い、ひどくならないで。それだけは、イヤだ。
じっと座ったまま、ずいぶん時間が経った気がした。
何度か替えた、氷枕と汗でベトベトになったTシャツ、それと、無理やりに水分補給。
できることが他にぜんぜん思いつかないのが、ホントにバカだ、わたし。
また、額ににじんだ汗――タオルで拭うと、少し、楽そうになったかも。
ちょっと目元が動いた。
「シンジ?」
小さく言うと、目が開いた。
「う、喉乾いた」
ペットボトルを渡すと、ゴクゴクゴク。
着替えを出してあげると、今度はそれほど汗をかいてなかった。
そのまま、また、何も言わずに横になる。額に手を当てて……ああ、だいぶ低くなってる……。
「メグ」
下目遣いで低い声が聞こえて、うん。
「悪いな。寝ろよ、お前も」
「うん」
うなずくと、柔らかくなった氷枕を外した。
新しい奴に取り替えると、シンジはすぐに目を閉じる。楽になったような息の感じ……よかった。
カーテンの向こうが少し明るくなってる。もう、朝なんだ。
もういっぺん、顔をのぞき込んで――やっぱり、大丈夫そうだ。
一度目を閉じて、何だか、毛布からのぞいてる背中がすごくそばにあるような気がして。
押入れからふとんを引っ張り出すと、ベッドの下にひいた。
横になると、自然に息がはぁ……。うん、なんだか、よかった。あったかい、感じ……。
眠くなる……、うん……眠い………。
うん……。
あったかい。
じんとして、手が、頭にあって。
あれ、ええと……。
ゆっくり目を開けた。あ、シンジ。
頭がボーっとしてる。ああ、寝てたんだ、わたし。
「戻ってきてたんだな、お前。やっぱ、夢じゃなかったのか」
ベッドの上から手を伸ばしてるシンジの目も、まだ、開いたばかりみたいだった。
「……うん」
うなずくと、息を吐くみたいな小さい声で、
「メグ」
「ん」
「昨日は、ごめんな」
ごめん……ああ、そうか。もう、どうでもいいよ、そんなこと。
「ううん」
たくましい手首を握った。
「よくケンカすんね、わたしら」
そうだな、シンジの目が笑った。
「でもな、もう戻ってこないと思った。昨日は」
「うん」
わたしはうなずいて、
「もう、帰らないつもりだったもん、わたし」
そっか……シンジは言って上を向くと、わたしは聞いた。
「大丈夫? 熱」
「ああ、楽になった。……久しぶりに風邪ひいたな。
ホントはここんとこ、仕事がバタバタ……」
言いかけて、シンジは一度言葉を止めた。そして、少し黙ってから、
「俺さ」
ふぅ、と息をする音が聞こえる。
わたしは横になったまま、言葉が降ってくるのを待ってた。
「お前とは、嘘なしでやろうと、そうやってやってきたいと思っててさ」
「うん」
「なんてのか……うまく言えんけど、まあ、馬鹿だしさ、しょうもねぇけど、正直っても、お前にしてみりゃ、イヤなだけかもしれんけど、さ」
「うん……シンジ、エロで馬鹿だもんねぇ」
「言うか、お前は」
「うん、だって、ホントじゃない」
「そうだな、ホントだ」
「わたしも、バカだけど。思いっきり」
「すぐ怒るし」
「そう」
「料理下手だし」
「そう」
「ホント」
「ホントに」
どっちともなく笑い出した。クスクス、ふふふ、あははは。
おかしかった。もう、こんなのばっかり、シンジとわたし。
ホント、バカだ。
それからしばらく、わたしたちは二人で笑い続けてた。
*************************************
いつものコンビニでレトルトのコーナーをのぞき込んでると、横から声をかけられた。
「今日はなんにするの、メグちゃん」
あ、おばちゃん。
「こんちはー」
昼過ぎだとあまり込んでないお店。すぐ話になって、
『おべんとじゃないんだね、今日は』『うん、おかゆとかないかなぁって思って』
シンジが昨日熱出した事を話すと、そりゃ大変だねぇ、丸いメガネでニコニコ、いつも通りに。
あ、そうだ。
梅がゆと鮭ぞうすいってのをレジ打ちしてもらいながら、思いついた。
「おかゆの美味しい作り方って、わかる? おばちゃん」
「お、作ってあげるの? だんなさまに」
あははは、まったく、そんなんじゃないって。たまには、手作りも悪くないかなぁってことで。
そうね、たまにはいいかもね。いつもじゃ、うちの店も困るけど――笑いながらおばちゃんは、おかゆの作り方を教えてくれた。
おコメを研ぐ所から始めて、卵はふわっと最後に……。
そっか、できたご飯使うんじゃないんだ、へぇ。ちょっと前に作ったぐちゃぐちゃの一品を思い出しつつ、やっぱり、主婦は違うなぁ。
コンビニを出る時、ポンと肩を叩かれた。
シンジくん、大事にしてあげなさいよ。なかなかいないよ、あれだけカッコいい男の子は。
そんな、あいつ、外っ面だけはいいから――言ったら、ふんふん、ニコニコ笑いながら頷いて。
「じゃあね、メグちゃん」
外は、空が抜けるみたいで、とても暖かかった。
横断歩道を渡って、いつもの通りに入ると、すごく風が気持ちよくて。
すぅ。ゆっくりカーブしてる道を抜けてきて、木が揺れてて……。
空を見上げて、いつもの公園の前。
なんだか、すごく、身体がぽかぽかする。あ~あ、髪切ろうかなぁ。
すぅ……。
また、風が吹いた。木が、葉が鳴ってる。うん、ホントに、あったかい。
足が風の方に向いて、ずっと、木のざわざわの中。
「はあ~」
真っ青。すごい。空を見上げて、目を閉じて、木々の真ん中。
向こうの方で、歩いているちっちゃい子。お母さん。
前のベンチで、自転車を横に停めて話してる女子高生の二人組み。
もう一回、息を吸った。
手の先がじんじんして、頭の中に、一杯の息吹きが入ってくる。
身体中が何かで溢れて、すごく……。
小さな声が、心に降ってきた。
めぐみだ。
心の中で、め・ぐ・み。音をたどって、それは、とても大きな声で広がって。
めぐみだ。
うん、そうだ、
「わたしは、めぐみだ」
声に出して言った時、弾け飛んだ。わたしの胸の中で、身体の中で、世界全部で!
わたしは、めぐみだ!
いろんな声が、降ってくる。めぐみ。めぐみ。めぐみ。みんなが呼んでくれた声。
バカなオヤジのも、入院してる母親のも、死んじゃったお姉のも。誰のかなんて、区別がつかないくらいに、たくさんの人の声。
ありがと、ありがとう。誰に、でもなくて、自然に湧き上がってくるそんな言葉、気持ち。
わたしは、歩き始めた。ベンチの横を抜けて、木の枝が揺れる小道を通って。
どんどん溢れてくる気持ち。
誰かに伝えたい、すぐに、伝えたい。
……あいつに、シンジに伝えたい!
走り始めてた。風と一緒に。風になって。
わたし、生きてるよ、わたし、今、生きてる。
階段を駆け上がって、ドアをバタンと開けた。
「ただいま、シンジ。ねぇ、聞いて!」
完
Call My Name 里田慕 @s_sitau
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