砂漠の海月

二兎二足

砂漠の海月

 あの日のコンビニのレシートを捨てられないまま大人になってしまった。

 財布をのぞけばいつもチラっと端が見える。カード入れの小さなポケットに収めたままで、もう印字がほとんど白い。熱転写では保存はきかず、証明書類にも当たらない。ほんの日々の使用用途が記載されただけのもの。

 何故それを後生大事にしてるかは、日付が問題だった。





 砂漠で変なものに出会う。

 ガイドの駱駝の勧めを無視して、すぐ近くだからと歩くことにした。ここまで乗ってきて随分助かったとは思っていたのだが、ケツが痛いのに耐えられなくて違う姿勢でいたかった。

 それで一応方角通りに歩き出したのだが、もしかしたら選択を間違えたかと後悔しはじめた頃だった。


 目の前に巨大な寒天状の丸い物体が、自重に耐えられず形を崩して砂上にへたり込んでいた。生き物だとしても手足もないそれをへたり込んでいると言うのはおかしいかもしれないが、何というかこの炎天下でへしゃげた形を見ると、ここで同じく疲れたか、と同情せざるを得なかった。


 何だかわからないのでおいそれと触れるわけにもいかず、頼りになるからと渡された杖の先で突付いてみた。ブヨンとした感触でそれは少しの抵抗を伝えてくる。もっと大きく揺らせばふるふるとプリンのように震えるだろう。

 そうだそういえば、あのレシートに記載された中にはプリンが入っていたな。


 全く関係ないものだが、ふいに浮かんだ。他にも食品ばかりが連なっていたはずだ。確認するともっと文字が消えてしまいそうだから、迂闊に手を出せないが、プリンがあったのは覚えている。

 子供の頃のレシートなのだ。当然お菓子ぐらいしか買っていない。確かあの時帰ってからすぐにプリンを食べた。焦るように素早く。その後にもチョコウェハースを食べたし、ひとつポテチを開けて母に夕飯はどうするのかと叱られた。



 少し休憩と思ってこの不明な物体の影で座っていた。どのぐらい前からいたんだろうか。影の砂は焼けていなかった。寒天状なのは色もそうで半透明に透けるから、陽も完全には遮断していないが、座れるぐらいには砂漠の砂は優しかった。


 思い出しついでにレシートの日付を想う。あの日、母が出て行った。僕を叱ったまま、父とも夜半に口論して、翌朝もういなかった。父が用意したトーストを食べて学校に行き、親戚に急用があったかはたまた旅行か、その日は一日中考えていた。たまたま聞く機会が無かったんだろうと。それほど夫婦喧嘩も日常化していたし、僕を叱るのもわりと当たり前のことだった。当然だ、夕飯があるのにそんなに菓子を詰め込んでいては、作ったのに食べられないことになる。然るべき栄養を摂取するよう、母が用意するものをきちんと食べないことは悪いことだ。

 色々考えた。自分だけが悪かったと思って泣いて暮らした日々もあったし、父を恨んでは反抗して家を飛び出して交通事故にあって戻るという、情けないことを仕出かしたこともあった。

 何を考えたところで、母が出て行った本当の原因は僕らには分からないものだった。消えるように、全く不明になってしまったので、警察に失踪届を父が出していたことも後年知った。



 社会人になってからもう数年経った。取材名目に長期休暇を取り、この砂漠横断に来た。特別な目的ではなかった。ただ単に、旅人といえば砂漠だろうと、漠然と思い描いていたイメージの通りになってみたかっただけだった。


 そこでこんな変なものに出会う。何の伏線だろうか。僕の人生の物語において、こいつは何か印象的なものになるんだろうか。印象的といえばあまりに変だから記憶には残るかもしれないが、僕は学者でも研究者でもなく、こんなものを見たところで、波打ち際のクラゲみたいだと思うだけだった。

 日除けにはなる。貴重な水を一口含んでしばらく口中で舌を潤し、ほんの少しずつ飲み込んだ。気づくとあぐらの直ぐ側まで、薄いグレーの影が縮んでいた。

 陽が高くなったのか、いや、もしかするとこいつが縮んだんだろうか。水分を多く含んでるようだから、干からびていっているのかもしれない。

 後ろを向いて見上げると、確かに先程よりは威圧感がないように思える。


「お前、大丈夫か?」


 思わず声を掛けてしまう。もちろん返答は期待しないが、外国で一人旅をしていると日本語に餓えてしまうものだから、独り言は多くなった。

 変なものに人格を与え話しかけているという、妙な状況を自分では気付けず受け入れていることで、かなり体力を失っていたのかもしれない。と後に思った。

 日陰をくれた恩も感じてか、親近感もわいていた。

 クラゲは特に何も言わないし動かない。

 ただジリジリと蒸発していくように見えた。

 体積を落とせば落とすほど、その速度は早くなり、ほんの小一時間ほどで消えるかもしれないと思えた。まさかこんな大きなものが、たったそれだけで消えるなんてと思うのは馬鹿だろう。

 砂漠の陽は容赦がない。強く照りつけて砂を焼き、水一滴も残さず生き物の存在を許さない。いくらか適応している動物だってギリギリそこにいられるという妙な進化をしてしまっただけ。


 そこでこんな水を含んだ形の物体は、存在できるはずがない。


 どこから来たのだろうと考えるのも無意味だった。ただ在ることだけが実際で、そしてそのまま消えるのだろう。分からないままになるものなんて、いくらでもある。それは相手が人間だとしても、母のように。



 やはりすぐに小さくなった。だんだんと自分の背丈と同じぐらいになり隠れてもいられず立ち上がり、もう出立しようとそいつを見下ろした。頂上には花のようなクラゲ特有の模様が見えた。やはりクラゲなのか。

 小さく小さくなっていく。もうあと少し眺めていたらきっと消えるところまで見られるだろう。しかし僕はそんな理科観察をしにきたわけじゃない。そもそも目的すらはっきりはしていないが、解明できないようなお前のことを見送ることだって目的ではない。


「さよなら」


 僕は利用するだけ物体を利用して、何も手を出しはしなかった。砂漠にクラゲがいた。

 ふと気になって立ち止まり、財布を取り出して中のレシートを開いた。思った通りだ。印字がまったく消えてしまっている。これも熱に弱いんだ。しばらく見ていなかったから砂漠のせいか、それ以前からか僕には分からないが、なくなってしまったのは事実。僕には完全に母がいなくなった。


 クラゲがいたであろう地点を見やる。

 もう何もいない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

砂漠の海月 二兎二足 @hoihoi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ