わきくん
清水優輝
わきくん
人通りの多い道を抜けて男と女はホテルの一室へ入っていく。
部屋に入ると男はジャケットをハンガーにかけ、ソファーに腰をかけて煙草を吸い始めた。女は何も言わず服を脱ぎ、浴室でシャワーを浴びる。
男は煙草を吸い終わると、浴室から聞こえる音程の外れた鼻歌につられて女に断りなく浴室の扉を開けた。男は息をのんだ。シャワーのお湯が滴る女の右の脇腹に人間の顔があったのだ。それは太って皮膚が醜く弛んでいる男の顔の形をした痣だった。女は男に気がつくと、狡猾な表情をして脇腹の痣を指先で撫でた。まるで自らの恥部を愛撫するようにゆっくりと撫で回す。すると女の体の一部の、痣であるはずの男の顔面が緩んでいく。そしてだらりと舌を垂らして悦んだ。
その一部始終を見た男はすぐさまジャケットを羽織り、逃げ去るようにして部屋を出ていった。
ホテルに残された女は自分の体の痣に向かって話しかける。
「わきくん、また逃げられちゃった」
「お前がブスだからだろうが」と、痣は嗄れ声で返事をする。
「ひどいわねえ」
「お前の母親もよくお前にブスだと言っていたな。俺からすればあのアバズレもブスに違いない。ブスの股から生まれたらそりゃあブスになる。お前みたいな役に立たないブスははやく死んだほうがいいんじゃないか。」
「あなたに言われなくても分かっているわよ。」
痣と話しながら女は浴室から出た。タオルで全身の水を際なく拭き取ると、裸のままベッドに倒れこむ。
女は今日のように男に声をかけられてホテルに行くことは何度もあった。しかしいざ女が服を脱ぐと男は騙されただの、気持ち悪いだのと文句を言って全員帰ってしまう。
この脇腹を嫌うのは男だけではない。女を生んだ母親もこの痣を忌み嫌った。
「汚らしい身体。呪われているのよ。人面瘡の子どもなんていらない」
女はかつて母親から言われた言葉を呟いた。
母親は娘の痣を消し去ろうとして口喧嘩の末にアイロンを女の右脇腹に当てた。肉の焼ける匂いと苦痛に女は喉から血が出るほど泣き叫んだ。母親は必死だった。この痣を見るくらいなら、女に一生の火傷を負わせた方がましだった。この一件により女と母親は福祉の手により引き剥がされたが、女の脇腹の痣は消えなかった。
母親から離れ、児童養護施設に入ってから女は自分の痣を「わきくん」と名付けて話しかけるようになった。女が痣と仲良くなるにつれて、痣はまばたきをし、頬を動かして表情を作り、言葉を話せるようになった。そうして、いつしか施設でも学校でも女は痣としか喋らなくなっていった。
女が虚ろな目で独り言をする様子が他の子どもたちには気味が悪く思え、自然と周りから人が遠のいた。女は自分の痣の男と会話していれば寂しくなかった。
「ブスブスブス。幽霊女。気持ち悪いんだよ。お前なんて死ね」
女はベッドの上に設置されたパネルに指を伸ばして部屋の照明を暗くした。適当な有線を選び、枕に顔を沈める。濡れている髪の毛が気持ち悪く、シーツを湿らしていく。
うつ伏せになり、視界を遮断していると、母親と一緒に暮らしていた頃を思い出す。母親は毎晩知らない男を連れて帰ってきてはその男に抱かれていた。幼い頃は女の喘ぎ声が子守歌だった。
ある日、私が一人で留守番をしているとき、母親の男がふらりとやってきた。母親が家にいないとわかると私の顔に陰茎を押し付けた。男は興奮のままに私の着ている物を強引に脱がす。男は私の汚らしい脇腹の痣、豚のような男の顔面を見て逃げて帰ってしまった。その後、私は母親に何度もしつこく頭を叩かれた。私のせいで男に振られたらしい。私の醜い痣のせいで。「悪魔を産んだ魔女だ」と男は母親を罵ったと言う。私はそれを聞いて思わず笑ってしまい、さらに母親を激昂させてしまった。
昔のことを思い出しながら、うとうとと眠りに誘われていると脇腹の男が女の体に鈍痛を与えた。腹を殴られたときのように内臓が圧迫されて吐き気を催す。女がお腹を抱えるように体を丸くすると、次は皮膚を切り裂く鋭い痛みが彼女の太腿に走る。
女は悲鳴を上げた。
「お前が死んだらさぞ愉快だろうなあ」
脇腹の男が狂気的な笑い声で唾を飛ばして女を馬鹿にする。
「馬鹿ね、私が死んだらわきくんも死ぬのよ」
女は自分の脇腹がぐにゃりと曲がるのを感じた。痣が何か話そうとしているらしい。女は即座に手の平で男の口を塞いだ。男は女の手に全力で抗う。舌で女の手を舐める。顔面の筋肉をぐにぐにと動かす。その感覚がおぞましく女の腕に鳥肌が立つ。
女は痣を抑えていた手を解放した。途端に飛び出した男の罵詈雑言をを無視し、指で彼の唇をなぞる。
「わきくんはどうしたら死ぬんだろう」
時折、こうして痣は女の体を痛めつけて遊ぶ。そのたびに女は脇の男の顔を力いっぱい抓ったり、爪を立てたりしてやるのだが、男は痛みを感じないらしい。女の身体だけが痛み、傷つくばかりだ。
女は徒に男の口の中に指を入れて、口内をかき混ぜる。舌が指先に絡んで唾液が滴る。この痣に消化器官などない。滴っている液体は女の血液である。だが、女は気づいていないようだった。夢中で脇に生える顔の口に指を入れては出して、遊んでいる。生暖かい感触が妙に気持ちよく、もっと奥深いところを触れようと指をぐっと脇腹に押し込むと嘔吐反射を起こした男がどばっと血を吐いた。
「わきくんはなんで生まれてきたの」
女は男の口に指だけでなく、手のすべてを挿入し始める。口内が解れてくると手首まで男の口に、脇の中に押し込む。肉の中で手を握ったり開いたりすると感じたことのない恍惚に襲われた。
「もうやめろよブス!きもいんだよ!」
「あばずれの魔女から生まれた悪魔のブス」
「さっさと死ねばいいのに」
女は何かをぶつぶつと言いながら、体の中に突っ込んだ手をさらに奥まで入れようとする。腕が入り、肘までも体内に入り込みそうになると何かコリコリとした臓器が女の指先に触れた。子宮だった。女は自らの子宮を掴んで素早く引っ張り出す。このとき、誤って大腸も掴んでしまっていたらしい、ずるずると長い臓器が脇腹から出てくる。同時に大量の血液も飛び散る。握り潰してぐちゃぐちゃになった臓器を眺めて女は呟いた。
「わきくんはこのために居たんだね」
痣の男は口が無くなってしまったため、返事をしなかった。女は穏やかな表情で真っ赤なベッドに横たわり、二度と目を覚まさなかった。
わきくん 清水優輝 @shimizu_yuuki7
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