第25話「距離感」
扉が閉まり、静けさが戻る。どちらからともなく視線が合い、少しだけ恥ずかしさを覚えながらも、居心地がよくて自然と笑顔になる。そんな私を
しばらく黙って座っていたけれど、少しじれったそうにこちらを見て、開いている隣の席を手で軽く叩く。座るように
「さっき来栖のところで、夏樹ミナトのことを聞いてきた」
座って間もなく、周防さんがゆったりと話を切り出した。
静まり返って流れのなかった空気が、その声でほんの少し揺れて、ぴりりと微かな緊張感が混じったように感じた。
「そういえば……あの事件の報告、まだ来ていませんでしたね。あれから夏樹さんはどうなったんですか?」
「事件の内容からも同情したい点はあるが、お咎めなしってわけにはいかないからな。それなりの処罰は受けることになるだろうけど……1つだけ良いことがあった」
「良いことですか?」
「娘のエリさんと孫のシオリさんが、彼と共に生きていくと決めたらしい」
周防さんは机の上に置かれていた報告書を取り、それを私に差し出した。おずおずと受け取り、祈るような思いで表紙を
捕えられた夏樹さんは抵抗する様子もなく、自分が起こした事件の内容や、自らの居場所を特定されないよう、蓑島の記憶を操作して関係のない記憶を作り上げていたことなど、淡々と語ってくれたらしい。蓑島を捜している最中で見つかった〝海の見える邸にいた記憶〟があったけれど、おそらくあの記憶が
その後、彼の手足として操られていた蓑島はもちろん、被害にあった女性達にかけられた闇人の呪いも全て解かれ、少しずつ日常が戻りつつあった。
それから数日後。刑が執行されるのを待っていた夏樹さんのもとに、娘のエリさんと孫のシオリさんが、夏樹さんに会うため軍本部を訪れたそうだ。
実の父親が起こした事件に複雑な思いはあったものの、新堂スミレが彼を想って取った行動が招いた結果であることや、新堂スミレをどれだけ愛していたのか、その想いに触れて、これから先の時間を一緒に生きていきたいと伝えたそうだ。過ごせなかった半世紀という長い時間を取り戻すために――
「何だか、ちょっとだけ安心しました」
「被害を受けた人達のことを考えると、喜んでいいことではないかもしれないけどな。まぁ、表には出ない裏の真実を知っている俺達だけなら、少しくらい許されるだろう。あぁ、それからもう一つ。結晶に残されていた新堂スミレの記憶についてだ」
「夏樹さんが、女性達をスミレさんだと思い込ませるために使っていた、あの記憶ですか?」
「新堂スミレの記憶を、遺体から取り出した
上着のポケットからあの小瓶のペンダントを取り出し、それを私の手の平にそっと置いた。
来栖さんが聞き出した話によれば、あの記憶は
亡くなってから随分経っていたとはいえ、その体に蓄積された記憶があれほど少ないはずはない。そして何より、あまりにも綺麗過ぎる想い出ばかりだった。それには、ちゃんとした理由があったらしい。
「遺体から取り出した記憶には、夏樹ミナトの子供を身籠った時のことや、別れを決意した頃の両親とのやり取りも含め、夏樹にとっては辛い記憶も多数あったらしい」
「それって、夏樹さんが辛い思いをしないように、あえてその記憶を切り取ったってことですよね?」
「新堂スミレの決意と夏樹に対する想いに触れて、その記憶を見せることができなくなったそうだ。新堂スミレの記憶を与えられた女性達が、夏樹のもとを離れる選択をしたのは、その切り取られた目に見えない感情部分の記憶が、どこかに残っていたからなのかもしれないな」
「そうだとしたら、人の記憶って凄いですよね」
「
含み笑ったと思えば、不意に私を見つめ、その眼差しが動かなくなった。あまりにもじっと、食らいつくみたいに見つめるものだから、恥ずかしさで戸惑ってしまった。
「周防さん、どうかしました?」
「いや……今回の事件で、少し考えていたことがあって」
そう言って、また言葉が途切れた。ちらりと横目で見て、また視線を
「もしもの話だけど。俺がミズキを失って……夏樹ミナトと同じことをしたら、どうする?」
「同じことって、私の記憶を別の女性に書き写して、私の代わりを傍に置くってことですよね?」
返した問いに、周防さんはこくりと頷いた。
真っ先に湧き上がった感情は〝悲しさ〟だった。周防さんのもとを去らなければならない寂しさ以上に、私以外の女性が、私の記憶を持って、私の代わりに彼の傍にいるだなんて、考えるだけでも苦しくなる。
それは逆の立場でもそうだ。私が周防さんを失った寂しさや悲しさから、その記憶を取り出して、声も姿も違う別の人に記憶を上書きして、周防さんの代わりにするなんて、できるわけがない。もし、そんなことをするくらいなら――
「もしそうなってしまったら……私の記憶を周防さんの中から消してください」
その答えに、周防さんは大きく目を見開いた。
きっと私のことだから「泣いてしまうかもしれない」とか「そんなの嫌だ」なんて、子供みたいな言葉が返ってくると思っていたのだろう。だからこそ、その予想に反した答えだったから、そんなにも驚いたのかもしれない。
「死んでしまったら、周防さんの傍に誰がいるかなんて確認することはできませんけどね。それでも、別の人が私の記憶を持って傍にいるだなんて、考えるだけでも嫌です」
「そんなことをされるくらいなら、いなかったことにしたほうがマシってことか」
「はい。逆に、周防さんはどうですか? 私が周防さんの代わりを傍に置いておく――」
そこまで言いかけたところで、視界が急に暗くなった。
気づけは周防さんの顔が目の前にあって、唇が重なっていた。息をするのも忘れるほど、熱くて、心臓が痛いくらいに跳ね上がっていた。
一呼吸置いて、周防さんが静かに離れた。それでもまだ距離は近く、唇に吐息がかかるほどの場所で、周防さんは私を見つめていた。
「自分で聞いておいてなんだが、その答えは最後まで聞きたくないな」
「そ、そうですよね。私も、同じですから」
「ミズキと同じように、俺が傍にいられなくなったら、記憶を消してほしいって思うよ。複製なんて許せるわけがない」
「っ!」
再び距離が縮まり、ゆっくりと唇が重なる。
ランプの炎がチリチリと燃える音が聞こえるくらい、古書館は静まり返っている。私の鼓動は煩いくらいに響いたから、きっと周防さんには聞こえているかもしれない。
それでも、今はその時間が止まってしまえばいいのにと、思わずにはいられなかった。
〈FIN〉
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