第17話「痕跡ヲ辿ッテ」

 空に棚引くのは、細く長く、優雅に泳ぐ紺や青の帯の群れ。

 〈職人の街モクラン〉の玄関口にある門をくぐって間もなく、頭上に張り巡らされた縄に無数の帯が括られ、こいのぼりのように空を泳ぎ舞うそれが、街を訪れた者達を鮮やかに出迎えてくれた。


「綺麗ですね、あの帯。ゆったり流れていて、時間が経つのを忘れてしまいそうです」

「ミズキは、モクランに来るのは初めてか?」


 周防さんは私の歩幅に合わせてゆっくり歩きながら、同じように空を見上げて訊ねた。初めてなのは悪いことではないけれど、何となく恥ずかしさを感じながら一度だけ頷いた。


「故郷のノンノと帝都以外の街には、ほとんど行ったことがないので。古書館に転職してからは、あちこち行ってますけど、それでもまだまだ知らない街ばかりです。周防さんは?」

「実は、俺も初めて来たよ。一度は来たいと思っていたんだ」

「仕事以外で来たいってことは、欲しい物でもあるんですか?」

「普段、俺が羽織っている着物な。あれの生地がモクランで織られたものらしい」

「あの綺麗な着物、ここで織られたものだったんですね!」


 ちょっとだけ驚きながら、再び空を見上げた。

 周防さんが隊服の上に羽織っているあの着物は、深みのある鮮やかな紺色。吸い込まれそうな、目を離せなくなるような、不思議な魅力のある色をしている。

 街を訪れた者達を出迎えるあの帯の群れの中にも、周防さんの着物と同じ青があるのを見つけて、何だか自分のことみたいに嬉しくなった。



「モクランで最も有名なのが、青の染織らしい」

「そっか。街の入り口にあるこの帯は、その象徴ってわけなんですね」

「あの着物がどんな場所で、どんなふうに作られたのか。見てみたかったんだ」

「来ることができて良かったですね」

「あぁ。欲を言えば、仕事以外で一緒に来たかったな」

「っ!」


 不意に告げられた一言に、私は見事に言葉を詰まらせた。

 顔が熱くなるのを感じながらも、恐る恐る周防さんを見上げる。案の定、周防さんは不敵に笑っていた。どうして周防さんは、私が恥ずかしくなるとわかっていて言うのだろう。きっと、私の反応を見て楽しんでいるに違いない。


「それ、本心で言ってます?」

「見てみるか? 俺がここに来るまで、どんなことを考えていたか」


 と、躊躇ためらいもなく手を差し出した。

 周防さんが何を考えていたのか――なんて、見てみたいに決まっている。ただ、そんなことをしたら、私の心臓が耐えられないくらいに跳ね上がるのは間違いないし、もっと恥ずかしくなって、ここから逃げ出してしまいそうだ。


「も、物凄く誘惑されそうですが、仕事中なので遠慮します!」

「なんだ、逃げるのか?」

「逃げてませんっ。ほら、周防さん! 着きましたよ!」


 あからさまに誤魔化して、私は小走りに先を急いだ。

 やってきたのは、街の中心に架かる〈ワッカ橋〉。このワッカというのは、この辺りの方言で〝綺麗な水〟という意味だそうだ。

 橋の欄干らんかんに両手を乗せ、少しだけ身を乗り出した。そこから見える川は、純度の高い水質で川底がはっきりと見える。ずっと見ていても飽きないほどに綺麗だった。

 追いついた周防さんも私の隣に立ち、同じ景色を見つめた。


「升川さんはここで、蓑島に連れ去られたんですね」

「あのペンダントに残された記憶が本当ならな」


 私は手袋を外し、欄干に手を伸ばす。触れる直前になって、周防さんの手が私の腕を掴んで引き止めた。


「周防さん?」

「ここに刻まれた記憶は、今まで見てきたものとは比べられないほどに膨大だ。ここに存在している年月が違うからな」

「言われてみれば……ここはたくさんの人が往来します。気の遠くなるような時間の記憶を、静かに記録しているはずですよね」

「何でもかんでも読み取ってしまうミズキでは、時間がかかり過ぎる。それに、泣かれても困るからな」


 と、掴んでいた手を離し、その指先がそっと私の頬を撫でた。たったそれだけの仕草で耳がカッと熱を帯びる。


「そんな、いつも泣いてるわけじゃないですよ」

「いつもだろう」


 ククッと笑って周防さんは手袋を取り、私の代わりに欄干に触れた。

 それからすぐに息を詰まらせ、眠りに落ちるように静かに目を閉じる。蓄積された膨大な記憶の中から、周防さんは蓑島の記憶だけを選び取っていく。


「見つけた――」


 風の音にさえき消されそうな声でそう告げて、周防さんは私の手を握った。

 吸い込んだ息が喉の途中で止まってしまうような、息苦しさに襲われてぎゅっと目を閉じた。

 鈴の音が聞こえる――その音に導かれるように、ぼんやりと景色が見えてきた。

 欄干らんかんに手をかけ、風になびく空の帯を見上げているのは、升川サヤさんだ。誰かと待ち合わせていたのだろうか。手にした懐中時計をしきりに確認しながら、辺りをきょろきょろと見回している。その度に、懐中時計のくさりがシャラシャラと音を立てた。


『すみません』


 声をかけられて振り返ると、そこに蓑島が立っていた。どことなく色気があり、雰囲気があるせいか、升川さんは目が合うと照れくさそうに少しだけ俯いた。


『私に、何か?』

『突然すみません。あの……襟元の糸が解れているのが見えたので。教えた方がいいかと思って』

『えっ、本当ですか?』


 升川さんはえりに触れ、解れている箇所を探した。けれど、なかなか見つけることができず、見兼ねた蓑島が苦笑いをした。


『伸びている糸を切るだけでよければ、僕が切りましょうか?』

『それじゃあ……すみません、お願いしてもいいですか?』


 戸惑いながらも、升川さんは背を向けた。

 彼の手がスッと伸びた――ただ、その手が彼女の襟元に触れることはない。不意に動き出したその手は、着物の袖の中へと向かう。そこから取り出したペンダントを、慣れた動作であっという間に彼女の首につけてしまった。

 驚いて振り返ったものの、それを身に付けた瞬間、彼女の瞳から生気が消える。がらんどうで、表情が消え、ぼんやりと蓑島を見つめ、そこに写し込んでいるだけ。


 蓑島は意思を失った彼女の肩を抱き、そのまま連れて行ってしまった。

 ただ、記憶はそれだけで終わらなかった。この橋の上で連れ去られたのは升川さんだけではない。保護された女性達の何人かが、升川さんと同じように、この橋の上で蓑島に声をかけられ、連れ去れていく姿が残っていた。


「……連れ去られたのは、升川さんだけじゃなかったんですね」 


 全てを読み取り、小さく溜息をついて目を開いた。淡い疲労感に襲われていることを気遣ってくれたのか、周防さんは私の肩を優しく撫でた。


「全員ではないけどな。しかも、ごく最近になって接触した者もいる」

「蓑島リョウが姿を見せる可能性、高くなりましたね」


 深く息を吐きながら、ゆっくりと見上げた。思っていた以上に周防さんが近い距離にいたことに驚いてしまった。

 私が目を丸くしたものだから、周防さんも不思議そうに私を見つめる。互いの想いはわかっているし、念願の関係になったとは言っても、まだまだこの距離感に慣れるには時間が必要だ。もちろん、それは恋愛経験の少ない私の方。


「2人とも。今が仕事中だってこと、忘れないようにね」


 黙って見つめ合う私と周防さんの間に、突然声が割り込んだ。

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