第16話「シオリ」(2)

 日記の日付は〝朱雀ノ月〈リッシュウ〉一日〟から始まっていた。その日の書き出しが「今日も、お腹の子は――」と始まっていることから見ても、この時点ですでに身籠みごもった後のことであり、この日記は何冊かあった内の一冊だったのだろう。

 そこには子供の名前のことや、その子が将来どんな子に育つのだろうかと、未来に想いを馳せた内容がつづられていた。夢喰い人アルプトラウムの力を使わなくても、彼女がどんな想いでその文字を綴っているのかが伝わってくる。優しくて、温かくて、自然と笑みがこぼれてくる。それがずっと、頁を捲る度に感じることができた。

 半分ほど読み終えたところで、周防さんが静かに手袋を外したのがわかった。私もそれを合図に、すぐさま手袋を取った。


「ミズキ、いいか?」

「はい、大丈夫です」


 私は日記を閉じ、周防さんと共にそっと触れた。

 先に流れ込んできたのは、記憶よりも感情だった。心臓を締め付けられるような悲しみと、止めどなく湧き上がる幸福感。その相反する感情が体の中で渦巻いていく。


 まぶたの裏に広がったのは、日記を静かに見下ろす新堂スミレの姿だった。真っ白な頁にペンを走らせ、綴る思いは確実に未来へと向けているはずなのに、それを見つめる表情はどこか悲しげではかなくて、苦痛にゆがんでいた。

 時折、息苦しそうに呼吸をしながら、大きくなったお腹を愛おしげに摩っている。その時の表情は、どこか決意したような凛とした強さがあった。



『忘れなきゃ……あの人のためにも、忘れなきゃ。私は、あの人とこの子の傍にいることができないんだから……』


 それからも、同じ時間、同じ表情で、日記を綴る光景が続いていく。そして朱雀ノ月〈ショショ〉二三日を境に、新堂スミレが日記の前に座ることはなくなった。

 夜が来て、朝が来て、再び夜が来て、朝がやってくる。永遠とも思える時間を、日記は静かに見せてくれる。


 長いこと机の隅に置かれていた日記からは、子供達の楽しげな笑い声が聞こえるだけになった。やがてスミレの母親らしき女性が日記に歩み寄り、寂しげな表情を浮かべて手に取る。涙ぐみながら、その日記を机の引き出しの奥へとしまった。そこで記憶が途切れた。

 私が日記から手を離して目を開けると、周防さんが寂しさをにじませた目で私を見つめていた。記憶を見て表情を変えることなど滅多にないせいか、その姿がやけに新鮮で、言いようのない不安にられた。


「〝あの人のためにも、忘れなきゃ〟って……」

「状況から察すると、お腹の子供の父親ってことだろうな」

「お役に立てそうなこと……ありませんでしたか?」


 記憶を読み終えたのを見計らって、シオリさんがおずおずと訊ねた。

 どう答えていいのかわからず、私は一瞬言葉に詰まってしまった。彼女の過去の一部が新たに見つかったものの、蓑島に繋がる直接的な記憶は何一つなかった。

 返答に困っている私を余所に、周防さんは腕を組み、じっとシオリさんを見つめている。睨まれていると勘違いしたらしく、シオリさんは怯えた様子で何度も瞬きをした。


「……シオリさん」

「は、はいっ」

「失礼を承知の上でお話します。囮になってもらうことは可能ですか?」


 そう訊ねたとたん、アオイさんが素早く割り込んで周防さんの腕を思いっきり叩いた。


「何言ってるのよ! それって、蓑島を誘き出すための囮ってこと? 周防さん、彼女は民間人よ? そんなの駄目に決まってるでしょ。ねぇ、大佐」

「うん。それはさすがに、俺も承諾できないよ」

「わかった上で言ってるんだ」


 周防さんは語気を強めて返し、机の上の写真を手に取った。


「現状、この件は手詰まりだ。アオイのおかげで蓑島の行動はわかったが、居場所まではつきとめられていない。夢喰い人アルプトラウムは俺とミズキだけだから、記憶の収集にも時間がかかる上に、行動範囲にも限界がある。その間に行方不明の女性は増えて行くし、消えたかと思えば、新堂スミレだと思い込んで帰ってくる、そしてそれが増殖していく。この状況を解決するには、さっさと蓑島を見つけるしかない」

「それはそうだけど……」

「シオリさんが突破口になると思わないか?」

「んー……」


 周防さんの言っていることも一理ある。ただ、民間人を巻き込むことに納得ができないらしく、来栖さんは首を縦に振らなかった。


「蓑島は日に日に、新堂スミレに似た女性を選んで連れ去っている。この行動が確かなら、シオリさんは蓑島を誘き出すことができるはずだ」

「周防が言いたいことはよくわかるよ。でも――」

「私は、かまいませんよ」


 言い合っている二人の間に、シオリさんが割って入った。協力したいと意思を示したことに周防さんは思わず笑みを浮かべたけれど、それを阻止するように来栖さんがすぐさま止めに入った。


「いや、お気持ちは嬉しいのですが、さすがに頼るわけには……」

「私なら平気です。それよりも、どうして祖母の記憶が利用されているのか、その理由は何なのか。私も知りたいんです」

「んー……ミズキちゃん、どうする?」


 周防さんに言っても無駄だと判断したのか、来栖さんは私に意見を求めてきた。

 古書館の責任者は周防さんであり、私は入ったばかりで何の権力もないただの夢喰い人アルプトラウム。私がどうこう言える立場ではないのが現状だった。


「えっと、ですね……」

「ミズキ」


 言葉に困っている私に、悪魔のようなささやきが聞こえた。

 周防さんはいつものように私の名前を呼んだだけなのだけど、その声は甘く、それでいて少しだけ威圧的。その強引さと甘さの混じる眼差しに、私が勝てるわけがないのだ。


「じ、事件を早く解決させるためにも、協力してもらえたら、いいなぁって……」

「ミズキちゃん、周防さんの押しに負けたわね」


 と、アオイさんがぽつりと呟いて苦笑いをした。私なら周防さんを止められるとでも思っていたのか。その予想を見事に裏切られた来栖さんは、力なく溜息をついていた。


「で、でも、私だって心配してますよ! 危険じゃないかなって」

「そうねぇ。相手がどう出てくるかわからないし。周防さん、本当に大丈夫なの?」


 私とアオイさん、そして来栖さんの視線が周防さんへと集中する。それに怯む様子もなく、周防さんは堂々と腕を組んで胸を張った。


「何かあったとしても、俺達はそれを防げないほど軟ではないだろう。特に来栖。お前は何のためにその地位にいるんだ?」

「な、何のためにって!」

「ただその地位に座ってるだけなら、さっさと誰かに明け渡せ。それとも、お前は実力もなしに――」

「――あぁ、わかったよ! 何かあった時は、俺がしっかり責任とるよ」


 いつも冷静で穏やかな来栖さんの、初めて自棄になった姿を見た気がした。

 溜息のあと来栖さんは咳払いをし、シオリさんの前に立った。静かに見据えた後、いつもの柔らかく甘い笑顔を浮かべ、深く一礼した。


「我々がシオリさんを必ずお守りします。協力していただけますか?」

「は、はい。もちろんです」


 フッと微笑みかけ、周防さんの方へ向き直った時には不機嫌そうな表情に切り替わる。

 さっき言われたことが、よほど腹が立ったのかもしれない。笑顔の裏側に、うっすらと灯った闘志のようなものが見えた気がした。


「それで? 周防はどこへ行くつもりなんだい?」

「モクランだ」


 そう答え、周防さんは取り出した煙草に火を点けた。

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