第8話「真実ハドコニ」(2)

『帰ってきた時くらい、ゆっくり休んだらどうなの?』


 遠くで、優しい声がした。

 淹れたばかりの茶を持って部屋に入ってきたのは、白髪まじりの女性だった。目元や雰囲気が似ているから、おそらく蓑島リョウの母親だろう。

 蓑島は返事をしながらも必死に机に向かっている。淡いランプの光に照らされた机の上や足元には、花を中心とした絵が描かれた紙が散乱している。


 蓑島は見習いの染物職人として修業中の身。おそらく、独自の絵柄を考案していた最中だったのだろう。夜中まで作業を続ける息子を心配する母を余所に、蓑島は「母さんはどれがいいと思う?」と、描き上がった図柄を嬉しそうに見せていた。

 金魚と薔薇ばらの図柄が好きだという母親に「職人として認められたら、最初にこれを贈る」と、蓑島は指きりをして約束を交わしていた。

 その温かな光景を見終え、私はそっと手を離した。


「この人が、この事件を起こしたんだよね……」


 私がはっきりと「この男が事件を起こした」と断言できずにいるのは、この温かな記憶がこれだけではなかったからだった。

 捨てられた子猫や子犬を放っておけなくて、両親に反対されながらも何度も拾って連れ帰ってしまったり、面倒な仕事も嫌な顔ひとつせずに引き受けてしまったり。優しくて、少しお人好しの性格が伝わってくる記憶がたくさんあった。


 物に刻まれた記憶は嘘をつかない。夢喰い人アルプトラウムの力を持つからこそ、それは断言できる。押収品に刻まれた記憶の全てが、蓑島リョウという人間を語り、教えてくれる。だからこそ、蓑島リョウが女性を連れ去り、別人の記憶を植えつけて操るなんて――


「そんなことができるような人には、どうしても思えないんだよね……」


 私は迷っていた。写真と記憶でしか見たことがない蓑島リョウの、何を信じてそう思えるのか。そう問われたら、私は明確な答えが出せないだろう。

 記憶に触れ過ぎたせいで、判断が甘くなっているのかもしれない。けれど、言葉ではなく感覚……直感という不確かものでしかないけれど、そう思えてならない。


「もう少し、突破口を開くような記憶が見つかれば――」


 その時、ジュジュッと激しく蒸発する音が給湯室で響いた。反射的に振り返ると、鉄瓶の中の湯がグツグツといて、外で飛び出していた。

 すぐに火を止め、急須に番茶の茶葉を入れて湯を注ぐ。たちまち、給湯室内は芳ばしい香りで満たされた。


「周防さん、お待たせしました。冷めないうちにどうぞ……あれ?」


 番茶を注いだ湯呑と琥珀糖を作業机の上に置き、周防さんの分の湯呑を手にして振り返った。けれど、なぜか反応がない。いつまで待っても寝転んだまま。まさかと思って覗き込めば、周防さんは気持ちよさそうに眠っていた。


「寝ちゃってる……まぁ、仕方ないよね。今日はいつも以上に、たくさんの記憶を読んだからね」


 周防さんは普段から、徹夜で古書館にこもって仕事をすることが多い。事件が足踏みして、手詰まりになっているこんな時だからこそ、ゆっくり寝かせてあげたかった。

 風邪をひかないようにと、普段使っている毛布を探すけれど、今日に限って見つからない。仕方なく、周防さんが上着代わりに羽織っている着物をかけた。


 まるで見計らったように寝返りを打たれ、私は思わず息を止めて静止した。起こしてしまっただろうかと、緊張しながら顔を覗き込んだ。

 もごもごと寝言を言っていたけれど、起きたわけではないらしい。そのまままスーッと息を吐き、また深い眠りにつく。私はほっと胸を撫で下ろした。


「もったいないから、周防さんの分のお茶は私が飲んじゃいますね。もちろん、琥珀糖も食べちゃいますから」


 枕元にしゃがみ、小声で話しかけた。その寝顔を見て、ふと思った。

 思い返してみれば、周防さんが眠っている姿を見るのはこれが初めてだった。滅多に見られない無防備な姿を前に、私の中の小さな欲が顔を覗かせ始める。

 触れたい――いけないことだとわかっていても、誘惑というのは耳の奥で甘く囁いてくる。駄目だと思うから手を出したくなるのよ、と。


「……こうして近くで見ても、本当に綺麗」


 寝顔を見つめながら、つい呟いてしまった。

 周防さんの睫毛は近くで見ると、その長さに驚かされる。目元だけ見れば、女性よりも長くて色っぽいかもしれない。

 眉の切り傷は思っていたよりも深くて、はっきりと刻まれていた。この傷はいつついたのだろう。その答えが知りたくて思わず手を伸ばすけれど、途轍とてつもない禁忌きんきを犯してしまうような気がして、慌てて手を引っ込めった。


「起こしちゃったらかわいそうだし。でも……」


 眺めていればいるほど寝顔が愛おしくて、私はついに手を伸ばした。目元を隠している前髪をそっと書き分け、傷跡に触れてみる。

 その時、私はハッとした。特務局で保護された女性達の記憶を読み取っていたため、手袋をしていなかったのだ。気づいた時にはすでに遅く、指先は私の意思に逆らって力を使う。ドクンと心臓が脈打ち、息が詰まるほどの勢いで記憶が押し寄せてきた。


『うぅぅっ……ジロ吉ぃ……』


 聞こえてきたのは、紛れもなく私自身の声だった。

 白くぼやけた景色の中に、浮かび上がったのは作業机で仕事をしている私の姿。先日、思い出保存の冊子制作の際の様子だろう。猫のジロ吉が身に着けていたハンカチを握り締めて、グズグズ涙ぐみながらも記録している姿が、周防さんの記憶にしっかりと刻まれていた。


 周防さんはあの時、同じように隣で冊子制作の作業していたはず。私のことなんて気にも留めていないと思っていたのに。こんなにもしっかり残っていたということは、私が気づいていない間に、横顔を見つめていたということに他ならない。

 恥ずかしさや嬉しさに襲われて、にやけてしまったその時――突如、記憶が飛んだ。


 聞こえたのは、女性の甲高かんだい悲鳴だった。

 やがて声が一つ、また一つと増え、四方から上がる悲鳴が重なりあって騒音とへ変わる。

 そこは広いホールの中。天井には豪華なシャンデリアが吊るされ、煌びやかに輝いている。その豪華絢爛な光景とは逆に、周囲は逃げ惑うたくさんの人々の姿であふれている。その乱れる波に逆らい、周防さんは先へと進んでいく。辺りを何度も見回し、何かを探しているようだった。

 私は、この記憶を、そしてこの景色を見ている。そう、これはあの時の……〈ハンス・ペルシュメーア号事件〉の記憶だ。


 周防さんは人々をかきわけ、ホールの中心へと飛び出した。その先にいたのは、乗客を捕えて記憶を奪う1人の夢喰い人アルプトラウム――黒いフード付きのインバスネス・コートを羽織っているその姿は、まるで闇の化身のようだった。


『もうやめてくれ! もう、これ以上は――!』


 周防さんの叫びに気づき、夢喰い人アルプトラウムがゆっくりと顔を上げた。

 振り向いたその顔は――周防さん……!? 次の瞬間、夢喰い人は駆け寄った周防さんに向け、持っていたナイフを振り上げた。周防さんの叫びと共に、視界は真っ暗になった。

 驚いた私は周防さんから手を離し、その場に座り込んでしまった。その時、心臓は痛いくらいに跳ね上がっていた。


「今のって、一体……」


 そう口にしたのと、ほぼ同時だっただろうか。古書館の扉が勢いよく開いた。ハッとして顔を上げると、ちょうどアオイさんが鼻歌混じりに入ってきたところだった。


「ただいま~。ミズキちゃん、ちょっとお茶にしない? 龍月堂で美味しそうなお菓子みつけちゃって――」


 目を丸く見開いて座り込んでいる私を見つけ、アオイさんがきょとんとした。私は素早く駆け寄り、アアオイさんの腕を強く引いた。


「アオイさん、一緒に来てください! ちょっとご相談したいことがあるんです!」

「えっ? 今、帰ってきたばかりなのに。ここじゃ駄目なの?」

「できれば外で! 少しだけでかまいませんからっ。お願いします!」

「ちょ、ちょっとミズキちゃんっ」


 戸惑うアオイさんの背を押し、私は強引に外へと連れ出した。

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