第19話 「ヤハリ悪イ男」
「おっ、ミズキちゃん。もう体はいいのかい?」
寄宿舎の玄関脇にある守衛室の小窓から、ここを担当している守衛のオリベさんが顔を出した。
丸々とした体格で、丸眼鏡が良く似合うお爺ちゃん。私が部屋から下りてくると、いつも笑顔で迎えてくれた。
「もう大丈夫です。ご心配おかけしました」
「そうか~。わし、ミズキちゃんの顔を見ないと調子が出なくてな。これで張り切って仕事ができそうだよ」
「私も、オリベさんの顔が見られて元気が出ました」
「おぉ、嬉しいねぇ」
数日前、私は熱を出して倒れてしまった。
風邪でも流行病でも、なんでもない。お医者さんの話によると、疲労からくるものだろうと言っていた。環境も変わって、
熱が下がるまでは安静にしているようにと、4日ほど仕事を休んでいた。
「これから仕事だね」
「はい。無理しない程度に頑張ってきます」
「気をつけてな。あぁ、そうそう。仕事に行くなら、彼と一緒に行くといい」
オリベさんは小窓からさらに顔を出し、玄関の方を見て指差した。何気なく顔を向けた私は、自分の目を疑った。
視界に飛び込んできたのは、玄関先に立っている1人の男。鮮やかな蝶の着物を上着代わりに羽織った軍人さん。紛れもなく周防さんだった。
「2時間近く前から、ミズキちゃんが出てくるのを待ってたよ」
「い、2時間ですか!?」
「実は、昨日も一昨日も来ていたんだよ。呼んでこようかって聞いたんだけど、待ってるっていうからさ」
「電話くれればいいのに……」
「眉間にシワ寄せて、難しそうな顔しとったよ。ミズキちゃん、何かしたんじゃないのかい?」
そんな覚えはないのだけれど、ひょっとしたら何かしたのかもしれない。
体調不良とはいえ、4日も休んでいたことを怒っているのか。そのせいで仕事が溜まって、虫のいどころでも悪いのかもしれない。どちらにしても、周防さんが怒っている理由があるとすれば、紛れもなく私のことだ。
「お、おはようございます」
「おっ。やっと来たか」
私の心配をよそに、周防さんは「待ちくたびれた」と、
4日ぶりに見る周防さんは、相変わらずの存在感。甘い
「熱、下がったのか?」
「はい、おかげさまで。それより、どうしてこちらに?」
「ん? あぁ。ミズキ、飯食ったか?」
すると、唐突に訊ねられた。
「いえ、まだです。あまり食欲が無いので」
「そうか。まぁ、これで食欲が出るかどうか、わからないが。これ食え」
少しぎこちない仕草で、風呂敷に包まれた小さな箱を渡された。ほんのり温かく、微かに香ばしい香りがした。
「これ、何ですか?」
「弁当だ。来栖がお前にって作ったんだ」
「来栖さんが? わざわざ届けに来てくれたんですか?」
「お前の様子も見てこいって言われたからな。ついでだ、ついで」
何かおかしい。いつもはさらりと、流れるように話す周防さんが今日は妙に詰まっている。
私は手袋を取り、受け取ったお弁当に触れた。とたんに、周防さんが「あっ!」と、気まずそうな声を上げた。
来栖さんが作ったなんて、嘘もいいところ。お弁当から見えた記憶は、私に本当のことを教えてくれる。
確かに、このお弁当は来栖さんも作ってくれたけれど、その隣には周防さんもいた。軍服を来た男が二人、腕捲りをして、台所であたふた料理をしている姿が見えた。
「嘘つきですね」
「お前なぁ……こういう時に使うなよ、その力」
バツが悪そうにしている周防さんが、いつも以上に愛おしく見えた。
どんな理由であれ、このお弁当を作ってくれたのは紛れもなく私のため。それが無性に嬉しかった。
やはり、周防さんは私の想いに気づいているのかもしれない。こうすれば少しは元気を出すだろう――そう、思ってくれた気がした。
「それ食ったら、仕事来いよ」
「何言ってるんですか。せっかく作ってくれたんですから、周防さんの前で食べます」
「はぁ!?」
周防さんは
「仕事場で食うつもりか?」
「はい」
「いや、それはちょっと……」
どうやら相当恥ずかしいらしい。強気な周防さんがやけに弱気だった。言いくるめられそうになったら、この手が使えるかもしれない。
「急にお腹が空いてきました。食べたいので、早く行きましょう」
「作ってくるんじゃなかったよ」
苦笑いをしながら、周防さんは誤魔化すように煙草を銜えた。
初めて作ってもらったお弁当を抱え、初めて周防さんと一緒に仕事場へ向かう。いつもは1人なのに、今日は2人並んで、朝の本部へ足を踏み入れる。
女という生き物は、どんな些細な変化も見逃さない。財務局や総務局の女達が、どこか羨ましげに見つめて――ううん、睨みつけている。嫉妬の矛先が私に向けられるのは時間の問題かもしれない。背筋が冷える思いをしつつ、抱えたお弁当の温かさに幸せも噛みしめる。
慣れた足取りで地下への階段を下り、四日ぶりに古書館へやってきた。いつものようにそれぞれの席につき、周防さんは残っている押収品の書き起こし。私はお弁当を開いた。
「本当にここで食うのか」
「当然です。では、いただきます」
しっかり手を合わせ、心躍らせながら蓋を開けた。
詰められた料理は、ごく普通の品目だった。ちょっと卵焼きは焦げているけれど、思っていたよりも綺麗。
最初に手をつけたのは、ニンジンと挽肉を煮たおかず。片栗粉を使っているのか、少しとろみがついている。それを一口、食べてみた。醤油と生姜が効いていて、ほんのり胡麻油の香りがした。
「んー! 何ですか、これ。凄く美味しいっ」
「それ、俺が作ったんだ。まぁ、それ以外に作れるものがないんだけどな」
「周防さん、料理上手ですね。これ、ご飯が進みます」
二口目を
ふと、周防さんの机に積まれている資料が目に留まった。それはエレナさんの一件をまとめたもの。私が休んでいる間に完成したらしい。卵焼きを
「そうか、ミズキには話してなかったな」
「見ても、いいですか?」
周防さんが頷くのを確認して、手袋を取り、資料に触れた。
そこには、その後の経過が記録されている。
巽サキョウと東雲タクトの記憶は、本来のあるべき体に戻された。エレナさん同様に、完全に記憶を取り戻したわけではないけれど、タクトも少しずつ記憶を取り戻して、今は孤児院に戻っているらしい。
巽は軍の医療施設で静かな時を過ごしている。その傍にはエレナさんがついている。彼女の希望で、巽の世話をすることになったと記されていた。
「今朝、来栖から連絡があって。巽が息を引き取ったらしい」
「そうですか……もう、亡霊が現れることはないんですね。それにしても、巽はただ生きたかっただけなんでしょうか?」
彼が何を考え、何を思って行動を起こしていたのか。その口から直接聞くことができないのだと思うと、それが知りたいような想いに
静かに資料を閉じ、再び箸を取った。ほうれん草の胡麻和えを口へ運び、噛み砕いて飲み込んでから、再び手元にある資料をそっと見下ろした。
「生きたいって願うのは、そう思わせるものとか、執着しているものがあるからだと思うんです。例えば、このお弁当」
「弁当?」
「私が明日、命が尽きるとして。これを食べられなかったらきっと、食べたいからもう少し長く生きたいって。そう思ったら、巽みたいに考える気がするんです」
「大袈裟だな。でも、そういう欲とか執着が、記憶の入れ換えをしようって、巽を走らせたのかもしれないな。まぁ、俺には理解できないよ」
「私は、少しわかる気がします」
「体乗り換えてまで生きていたいのか?」
「そういうわけじゃないですけど」
もし執着するとしたら、それは後悔。
後悔しないように、限られた時間の中で精一杯悩むから必死になって、追いかけることができる。もしそれが手に届かなかったら、あるいは行動できなかったらとしたらどうだろう。
周防さんに想いが伝わらなかったら、私の後悔はどこへ行くのだろう。
自らに問い質す中、不意に向けられた視線に気づいて、私は顔を向けた。周防さんは「何を考えてるんだ?」と言いたそうに私を見ていた。
「美味いか?」
「はい。風邪で倒れたら、また食べたいです。作ってくれます?」
「さぁ、どうしようかな」
答えた周防さんは、悪そうな笑みを返した。この顔、やはり周防さんは私の想いに気づいている。きっと、面白がっているに違いない。
「周防さん、どうしてお弁当作ってくれたんですか?」
後悔しないように、確かめなければならない。その返答によっては私の行動も変わるだろう。
攻めるべきか、引くべきか。いや、引くという選択肢だけは選びたくない。密やかに、想いが届くまで待つか。あるいは、振り向いてくれるまで追いかけるか、二つに一つ。
「寝込んでるわけだし、ろくなもの食ってないだろうと思って」
「それだけですか?」
「あぁ」
「私が喜ぶこと、知っているからですよね?」
一瞬、周防さんが押し黙った。気まずそうに私を見て、視線を逸らし、仕舞いには頭を掻いた。その反応からして間違いない。
「あぁ、知ってた。お前が俺をどう思っていたのかも、な」
聞かなければよかったと、早くも後悔した。
やはり知っていた。それが恥ずかしくて仕方がない。覚悟していたつもりなのに、いざ聞いてしまうと、攻めの姿勢で挑む選択肢が消えていく。密やかに想っていた方がよかったのかもしれない。
「やっぱり、知っていたんですね!」
「最初は驚いたよ。結構、見てたんだな。本読んでるところとか、着物がどうとか」
「あぁー、やめてくださいっ。恥ずかしくて死にそう……」
「まぁ、その辺りはお互い様だな」
と、周防さんが1冊の本を出した。それは周防さんが図書館に来ていた時、いつもあの席で読んでいた本だった。
「これが、何か?」
「これに染み込んだ記憶、見てみないか? 案外面白ものが見えるかもしれない」
なぜ急にそんなことを勧めるのだろう。不思議に思いながらも、私はその本に染み込んだ記憶を読み取った。
桜が舞い散る窓際の席。そこはカムイ図書館の閲覧室。本に視線を落としていた周防さんが、ゆっくりと、貸出受付の方を見ている。そこに居るのは〝私〟。
返却された本を確認したり、新刊の図書の受け入れをしたり、話をしていたり。そこに映るのは、全てが〝私〟だった。
「えっ? あ、あの。これは、一体?」
「言っておくけどな。見ていたのは俺の方が先だ」
「えっ!?」
「〝俺の申し出は断らせない。必ず手に入れてみせる〟って、言っただろ?」
私は、
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