第18話 「己デアル証」

 ここは異国の貿易船や飛行船が往来する商業都市〈トウオウ〉。

 そこに吹く風すらも、遠い見知らぬ地から運ばれてきているのだろうか。どこか雑多で、異国情緒あふれる香りがする。

 

 満開の桜が咲くトウオウ運河沿いには、硝子細工や金細工などの、石造りの工房が建ち並ぶ。

 のきを連ねるその通りには、一軒の古本屋があった。名は〈キジトラ堂〉。

 ガラスの扉から中を覗くと、入口付近に置かれた棚に、キジトラ柄の猫がいる。商品として並んだ本を寝床にして、気持ちよさそうに寝ていた。店の名前はその猫から取ったのだと、すぐにわかった。


「その節はどうも」


 店の奥にある番台へ歩み寄った周防さんは、くわえ煙草で売り上げの勘定をしている男に声をかけた。周防さんの顔を見るなり、男は大袈裟おおげさなくらいに慌てて立ち上がった。


「お前らっ!」

「はいはい、それ以上動くなよ」


 周防さんは腰のホルスターから銃を素早く抜き、男の鼻先に突きつけた。

 抵抗できず、ゆっくりとその場に座り込んだその男こそ、エレナさんを連れ去ったあのオールバックの大男。

 どうやら男は諦めが悪いらしい。逃げる隙をうかがって、じっとこちらを睨みつけている。そろりとひざを立て、もう一度立ち上がろうとしたそこへ、来栖さんもすかさず銃を抜いた。


「見苦しいかな、そういうの。男は潔く生きないとね」

「ミズキ、先に行け」

「……はい」


 大男と銃を構える周防さんの緊迫した光景を横目に、私は店の奥へ向かった。

 そこには雑魚寝をする程度の狭く小さな座敷があるだけで、他の部屋は見当たらない。ただ、店の裏へ出る戸があるだけ。

 

 裏口から外へ出ると、そこは一面、勿忘草の花畑が広がっていた。片隅に根を張るアカシアの大木が、ユサユサと風に枝葉を揺らしていた。

 傍に置かれた白いベンチには、碧眼の少年が一人。真剣な表情で経済新聞を読んでいる。背にもたれて足を組む姿は、その幼い姿に不釣り合いながらも妙に様になっていた。


「経済に興味があるんだね」


 新聞に集中していたせいか、私の気配に気づかなかったらしい。不意に声をかけられた彼は、びくりと体を跳ね上げた。

 警戒心を滾らせた瞳が、新聞の向こう側からゆっくりと現れる。その彼こそ、エレナさんが自らの記憶を消してまで逃がそうとした〈東雲タクト〉――上目で見つめる目は、心なしか睨みつけているようにさえ感じた。


「お姉さん、だぁれ?」


 彼は幼い口調で訊ねながら、今まで読んでいた新聞を素早くたたんだ。それを見やりながら、私は彼の隣に静かに腰を下ろした。


「知らないはずないですよね?」

「そんなこと言われても……僕、本当にわからないよ」

「軍本部からエレナさんを連れ去るよう指示を出したのは、あなたではないのですか。巽サキョウさん」


 彼はニコッとして小首を傾げた。けれど、それはほんの一瞬だけ。

 無邪気な表情は、鋭さの混じる無表情へと切り換える。少年とは思えないほどの威圧感と覇気が、一瞬にして体を覆った。


「……まさか、ここに辿りつくとは思わなかったよ」


 彼は静かに、低く呟いた。声は少年でも中身が巽であるせいか、少年らしさは少しも感じられなかった。


「お前さんのような小娘が、一人で来るはずはあるまい。他の夢喰い人アルプトラウムも一緒か?」

「あなたはどう思いますか?」


 質問に質問を返した私を、巽は嘲笑ちょうしょうした。

 自分の居場所が軍に知れたこの状況下でも、彼は焦る素振りを一切見せない。逃げ切れると高をくくっているのか、それとも単に諦めただけなのか。

 その幼い横顔をいくら見据えても、何を考えているのか読み取ることができなかった。探れないのは、裏世界で生きてきた男の、経験の差なのかもしれない。


「わしを捕らえるつもりか?」

「その体は東雲タクトという少年のものだから。ちゃんと、元の体に戻ってもらうつもりです」

「……嫌だと言ったら?」

「その時は強制的に記憶を消去して、体だけ返してもらう」


 背後に立った周防さんは、ホルスターにおさめていた銃に手をかける。

 カチッと撃鉄を降ろす音を聞かせ、静かな威嚇いかくをした。その音を耳にしても、巽は表情一つ変えなかった。


「ちょっとでも変なマネしたら、すぐに消すからな」

「お前が周防か。噂は聞いている。どうだ? 軍など辞めて、わしの所へ来ないか? 給料なら軍の10倍は出してやる」


 不利な立場にもかかわらず、巽は呑気に周防さんを誘ってきた。もっとも、周防さんがこれを真に受けるわけがない。


「せっかくだが、遠慮させてもらうよ。上司が俺よりガキだなんて御免だ」

「ほぉ、そうか」


 残念だと言いたげに含み笑って、巽は再び新聞に手を伸ばした。


「エレナは今、どうしている?」

「なぜ、そんなことを聞くんです?」

「なぁに。気まぐれだ」


 血が繋がっていないとはいっても、十数年、娘として育てていたことは事実。記憶を入れ換えても、エレナさんと過ごした月日が消えることはない。

 単なる興味なのか、警戒して探りを入れているのか。どちらにしても、傍にいない彼女がどう過ごしているのか、やはり気になるようだった。


「少しずつ記憶が戻ってきています。あなたに対する憎しみとか、悲しさまで思い出してしまって、悩むことが多くなったそうです」

「そうか。あれは優しい子だから仕方あるまい。ただ、わしを裏切るとは思ってもいなかった」


 してやられたと、そう言いたそうにククッと喉を鳴らした。その瞳に怒りと苛立ち、焦りと寂しさのようなものが混ざり合って見えた。


「先に裏切ったのは、お前の方だろう?」


 周防さんが冷たく捨て吐く。巽はちらりと横目で見て窺った。


「エレナさんが言っていました。〝私を養女にしたのは、夢喰い人アルプトラウムの力があったから。それを利用するため〟だと」

「あの子をわしの手元に置いておく理由など、それ以外にあるか?」


 その言葉に温かさの欠片など一つもなかった。それが真実で、事実。巽の、偽りのない言葉だった。

 エレナさんが今ここで、この言葉を聞いていなかったことが幸いだった。どんなに自分勝手で酷い男だとしても、曲がりなりにも父親だった人。そんな一言で傷ついてほしくなかった。


「エレナさんの力は……記憶の入れ換えには必要不可欠ですからね」

「理由の一つではあるが、それは二の次だ。本来の目的は、わし自身のためだった」


 ゆっくりと振り向き、ジッと凝視する。その仕草は恐ろしささえ感じた。


「人間の寿命には限りがある。どんなに必死に足掻いたところで、その終わりは必ずやってくる。わしは、まだまだやりたいことも、見てみたいこともたくさんある。時間が足りないんだ」

「だから、記憶の入れ換えなんて妙なことをやっていたのか」


 くだらないとあきれる周防さんの態度に、初めて巽がムッと表情をゆがめた。


「記憶を……体を乗り換えるなんて不可能です」

「なぜそう言い切れる?」


 周防さんに向けられていた巽の視線が私へ移った。顔を動かさず、じろりと、目だけが動いて私をとらえた。その視線に射すくめられ、思わずごくりと息を呑んだ。


「他人の記憶を消して、そこに自分の記憶を刻めば、その体があなたのものになるとでも言うんですか?」

「いかにも」


 正面に向けていた体の向きを変えたかと思えば、スッと手を伸ばし、巽は私の頬に触れた。

 指先で撫で、頬から顎へと、なぞるように指を走らせる。その感覚に言いようのないほどの不気味さを覚えた。


「自分が〝自分〟であると特定するものは、外見や物ではない。記憶だ。記憶が〝自分〟を作り上げ〝自分〟だと認識する。この記憶さえ持っていれば、体が変わろうとも、わしはわしだ。そうやって、わしは長い時を生きてきた。何度・・も――」


 触れていた指先が、顎の先を掴んだ瞬間。背筋がゾッとして、とっさに手を払い退けた。

 巽は私のその反応を見て、面白そうに興味深げに眺めている。

 背後で銃を握っている周防さんの手が、ギュッと強く握り締められたのがわかった。


「お前……体の乗り換え、一度や二度じゃないのか」

「そうだとしたら、本当のあなたは、もうここにはいません。体と一緒に、当の昔に消え失せているはずです」


 何を言っても無駄なのかもしれない。どんな言葉も、巽にとっては戯言に過ぎない。

 ベンチの背にもたれ、踏ん反り返っている巽は、馬鹿にしたような退屈そうな顔で勿忘草の花畑を眺めていた。


「エレナさんは記憶を消しても、少しずつ思い出してきているんです。あなたが想像している以上に、色濃く、記憶が体に刻まれている証拠です」

「簡単に消せるものではない、そう言いたいのか?」

「今のあなたは、巽サキョウだと思い込んでいるタクトに過ぎないということです」

「そうか。だが、あり得ないこともない」


 ゆっくりと目を伏せ、小さな手で自らの胸を押さえた。その仕草は、まるで祈りを捧げているみたいだった。


「この体、もっといえば魂か。お前達が言うように不可能だと思っていることでも、この体や魂は人知を超えることもある。刻まれたわしの記憶が体に馴染んで、年月をかければ魂までもが〝わし〟になるかもしれない。それは否定できないだろう?」

「そ、それは……」

「今までもそうだ。乗り換えた体の持ち主の記憶が蘇ることは一度もなかった。だからこそ、わしはこうして何度も乗り換えてきた」


 あり得ない。そう断言できる証拠などどこにも存在しない。

 返す言葉を失って口籠った、その時だった。

 巽は隠し持っていた小刀を抜き、私に襲い掛かった。ベンチから転がり落ち、仰向けになった私の上に馬乗りになって、手にした小刀を振り上げた。


 夕陽を反射して光る刃に、背筋が凍りつき、呼吸が止まった。

 もう駄目かもしれない。脳裏に響くその言葉よりも素早く、周防さんは銃を抜き、引き金を引いた。

 金属と金属がぶつかり合う音が、辺りに木霊した。

 放たれた弾丸は小刀を弾き飛ばし、巽の手から離れ、宙を舞って地面に突き刺さった。それでも巽が食い下がろうとした、そこへ――


「本当、見苦しいね」


 かけつけた来栖さんが、彼の首根っこを掴んだ。まるで子猫を拾い上げるみたいに、ひょいっと体を持ち上げた。その隙に、周防さんは私を抱き起こし、巽から遠ざけた。


「あなたに逃げ場ありませんから、そろそろ諦めて下さい」

「諦めの悪さなら、誰にも負けはしないさ。だからこうして、わしはここにいる」

「昔話なら、後でたっぷり聞いてあげますから」


 少しなげやりな態度で聞き流し、来栖さんは巽を連れてその場を離れた。

 入れ替わるように、そこへエレナさんがやってくる。すれ違う巽を見据えるその目には、悲しみと憎しみが混じって、複雑な色を浮かべていた。


「これで……タクトは、自由になれるんですよね」


 念を押すように訊ねたエレナさんは、遠ざかって行く巽の背中に目をやった。


「タクト君だけじゃなくて、他の子達も自由ですよ」

「エレナさんの残してくれた〈命の記録〉のおかげで、記憶の入れ換えが行われた子供達の行方も掴めていますからね」


 小さく折り畳まれた〈命の記録〉を丁寧に広げ、それをエレナさんに手渡した。それでも不安は晴れないのか、まだ辛そうな表情で記録に視線を落としていた。


「この中には、体の老いに逆らえなくて、亡くなっている子もいるはずです。その子達はどうなるんですか?」

「遺体から記憶を復元したあと、元の体に戻すことになっています。子供達の体を乗っ取っている記憶の持ち主には、ちゃんと出て行ってもらって、然るべき対応をしますので、ご安心を」


 エレナさんは瞳を薄らと潤ませ、そして唇を噛みしめながらも微笑んだ。

 まだ完全に記憶が戻ったわけではないけれど、エレナさんは着実に思い出していた。


 血の繋がらない自分を娘だと言って可愛がってくれた巽の役に立ちたくて、彼が望むがまま、夢喰い人アルプトラウムの力を使った。巽が喜んでくれるなら、それだけで構わない、と。その想いに反して、月日を重ねるごとに罪悪感は大きくなっていく。


 ある日、エレナさんは偶然聞いてしまった。自分を養女に向えたのは夢喰い人アルプトラウムの力があったから、ただそれだけ。それ以上でも以下でもない。使えなくなれば、新たな者を見つけるだけだ――その言葉が、エレナさんの中にあった何かを崩していったそうだ。

 余命わずかだと宣告された巽が、自分のために、体を乗り換える子供を連れてきた日。それがエレナさんに決意をさせた。


 この男を止めなければ。


 エレナさんは密かに東雲タクトを逃がした。その時点で、巽と入れ替わっていたとも知らずに――

 この記憶を持って、軍へ行こう。あの男に罪を償わせよう。その途中、巽の息のかかった者達に連れ去られてしまった。

 巽が「エレナの記憶を消せ」と命じたことを知ったエレナさんは、咄嗟に、身に着けていたかんざしのガラス玉を割って、そこに書き起こした〈命の記録〉と、巽の記憶を書き込み、上着の襟の糸を引き千切って、そこにガラス玉を隠した。


 全て忘れてしまっても、消えてしまっても、そのガラス玉が導いてくれると信じて。

 ガラス玉の存在に気づかれないよう、自らの記憶を、身に纏った物全ての記憶を、消される前に自らの手で消し去ったそうだ。


「これで私の役目も終わりました。〈命の記録〉を皆さんの手に渡して、巽を止めることができましたから」


 エレナさんは手にしていた〈命の記録〉を小さく折り畳んで、私に返した。


「私、少し後悔しているんです。どうして自分の記憶じゃなくて、巽の記憶を消さなかったのかって」

「それは、難しいことですよね。エレナさんにとっては」


 そう言った私を一度だけ見つめ、逃げるように目を伏せた。

 ほんの短い年月だったとしても、父であったことに変わりはない。その記憶を消すということは、巽が自分を忘れてしまうこと。それが躊躇ためらいを生み、非情になることを許さなかった。

 きっと私だって同じだ。駄目だと口では言えても、いざそれを目の前にしてしまったら、心は揺らいでしまうはずだ。


「この甘さを捨てなければいけなかったんです」

「そうだとしたら、それは巽にも言えることだと思いますよ」


 周防さんは銃をホルスターに納めながら、ベンチに腰を下ろした。


「エレナさんの記憶ではなく、密かに、体ごとこの世から消し去ってしまえば、俺達に知られることはなかったはずです。それができなかった巽も、エレナさんと同じです」

「――先に軍本部へ戻っています」


 深々とお辞儀をし、エレナさんは来栖さんの後を追った。


「エレナさん、どうなっちゃうんでしょうね」


 私はぽつりと呟き、エレナさんの背中を不安げに追った。

 巽に協力していたことは事実で、強制されていたとはいえ、記憶の入れ換えを行っていたことを消すことはできない。何の処罰も受けずに済むはずがなかった。


「俺達の仕事はここで終わりだ。後のことは、来栖に任せるしかない」


 周防さんは自分の隣をポンッと叩いて、座れと促した。

 言われるがままそこへ座ると、いつものように飴玉を渡された。今日は青と白の、水玉模様の紙に包まれている。


「今日は何味ですか?」

青林檎あおりんご味」

「爽やかですね」


 包みを開き、そこにおさめられている淡い黄緑色の飴を口に放り込んだ。

 これでいつもの日常に戻れる。嬉しい反面、物悲しい気持ちが微かに残っている。その複雑な思いが胸の奥に、チクリと刺さっていた。

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