第17話 「本音ノ足跡」

 もしかしたら、巽の記憶の一部が残っているかもしれない。

 わずかな期待を胸に汽車に飛び乗り、一路〈ビャクグン〉へ――三時間の長旅を終え、到着したのは日暮れ間近だった。


 駅前で蒸気馬車を手配し、ようやく焔堂ほむらどうへとやってきた。店先で待機するよう馭者に伝えてから、馬車を降りた直後のこと。レンエンさん店から一人の男が出てきた。

 獅子のタテガミを連想させるオールバックの大男。間違いなく、それはエレナさんを連れ去ったあの大男だった。


「周防さん、あの男!」

「お前!」


 私と周防さんの声に気づき、男はハッと振り返った。

 何を思ったのか、男はこちらに向って突進してきた。ける間もなく男に体当たりされ、私と周防さんは地面に倒れた。


「痛ぁ……」

「ミズキ、大丈夫かっ」


 転んだ私を抱き起している隙に、男は待機させていた蒸気馬車を奪い取って、そのまま逃走。走り去る馬車を、苦々しく見つめるしかなかった。


「ミズキ、怪我は?」


 周防さんは私を立たせ、肩や腕についた土埃を払った。自分の着物も汚れているのに、私のことを気にかけてくれるのが嬉しくて、つい顔が緩みそうになる。それを覚られるのが嫌で、必死にこらえた。平静を装いながら、私も周防さんの着物の土埃を払った。


「私は平気です。それにしても驚きました。まさか、こんなところであの男と会うなんて」

「あいつ、どうしてこの店に来ていたんだ?」

かんざしを買いに来たようには、見えませんでしたよね」


 そこに答えが落ちているわけでもないのに、私は男の姿を探すように、じっと逃げ去った道を瞬きもせずに見つめた。


「待てよ。巽の指示でエレナさんを連れ去ったのだとしたら、今回も巽が何かを指示した――!」


 周防さんは何かに気づいたようだった。

 焦りと驚きの表情を瞬時に浮かべ、何も言わずに、私の手を引いて店に駆け込んだ。


「レンエンさん、どこです!」

「お留守でしょうか……っ! す、周防さん。あ、あれ……」


 レンエンさんの姿を探して店内を見渡した時、ふと、視界の端に人のような塊が入り込んだ。目を凝らしてみれば、部屋の隅にある作業台にレンエンさんが突っ伏していた。

 両腕がだらりと下がって、丁度、顔と胸だけで体を支えているような姿勢になっている。辺りに奇妙な緊張感が漂い始めた。


「レンエンさん?」


 ゆっくりと、忍び足で歩み寄る。息を呑み、私はおそるおそる彼の肩を揺さぶった。


「……んっ……」


 一呼吸置いて、小さく声が漏れた。

 閉じていたまぶたがゆっくりと開き、ぼんやりと、黒曜石こくようせきのような黒い瞳が私をとらえた。たったそれだけだったけれど心底安堵あんどした。


「よかったぁ」

「あなた達、来ていたのね。ごめんなさい……作業の途中で眠っちゃったみたい」


 気恥ずかしそうに笑って、レンエンさんは乱れた髪を手櫛てぐしで軽く整えた。


「レンエンさん、眠っていたんですか?」

「多分、そうみたいね。いつ眠っちゃったのか、憶えていないんだけど」

「それじゃ、さっきの男は?」


 訊ねる周防さんに、レンエンさんは首を傾げた。


「男?」

「オールバックの、大柄な男がここに来たはずなんですけど」

「……さぁ。私、お店を開けてすぐ、ここで作業していたんだけど。寝てしまう前まで、お客さんは来ていなかったわ」

「レンエンさん、失礼します」


 周防さんはレンエンさんの返事を待たずに、彼の手を握った。

 読み取った記憶は周防さんに何を見せたのか。唇をみしめ、苛立ち気味に目を伏せた周防さんは「やられた」と、舌打ちをして玄関へ視線を向けた。

 すでにここにはいない、あの大男の姿を探すように、玄関先から見える通りを睨みつけた。


「何が見えたんですか?」

「その逆だ。見えたはずのものが、見えなくなってる。レンエンさん。巽とエレナさんのこと、教えてもらえますか?」

「タツミ? ごめんなさい、誰のことかわからないわ。二人の知り合い?」


 戸惑いの目で私を見据えるレンエンさんは、嘘を言っているようには思えなかった。

 親しげに〝エレナちゃん〟と呼んでいたのに。あんなにも、自分が入れた青薔薇の刺青ことを嬉しそうに話していたのに。どうして急に、何も知らないようなことを言うのだろう。困惑する私を、レンエンさんが申し訳なさそうに見上げている。


「もしかして、記憶が?」

「巽とエレナさんの記憶だけ消されている。あの大男、夢喰い人アルプトラウムだったのか」

「それじゃ、ここへ来たのはレンエンさんの記憶を消すためですか?」

「おそらく、巽から指示を受けて来たんだろう」 


 巽は常に、身の回りにある物から記憶を消すようにと、エレナさんに指示をしていた。それが事実だとすれば、消されたのはレンエンさんの記憶だけではないはず。嫌な予感がした。


「周防さん、道具は大丈夫でしょうか?」

「あまり期待できそうにないな」


 レンエンさんに事情を説明し、刺青を彫る際に使っている道具を見せてもらうことにした。

 案内された店の奥には小さな座敷があった。彫師の仕事は、いつもそこでやっているそうだ。

 黒い棚があって、消毒液や墨の入った瓶がずらりと並んでいる。床には化粧箱のようなものがいくつか置かれ、その中に道具が入っていた。

 周防さんと手分けして、そこにある物全ての記憶を読み取った。そして、嫌な予感は的中した。何を触っても、手に取ってみても、そこから読み取れる記憶が一切存在しない。何も流れ込んでこなかった。


「見えたか?」

「……いいえ、何も」

「こういう時に限って、嫌な予感ほど現実になるものだな」


 何年も使い込んで、使い古された道具ばかりなのに、その古さと年月が吸い込んできたはずの記憶はどこにも見当たらない。悔しさが、うんざりするほど込み上げてくる。


「やっぱり、消されてしまったんですね」

「らしいな」


 溜息をつきながら、周防さんは手にしたノミを箱に戻した。


「わざわざ消しに来たってことは、巽にとって見られたくない記憶があったってことだよな。惜しいな」

「もう少し早く気づいていれば……レンエンさん、道具はこれで全部なんですか?」


 入口の戸に寄りかかっていたレンエンさんは、申し訳なさそうに一度だけ頷いた。


「今使っているのは、そこにあるだけなのよ」

「そうですか……」


 結局振り出しに戻ってしまった。

 あの男が消してしまった記憶は何だったのだろう。そんなモヤモヤした気持ちが、心の奥にじわりと湧き出した。


「――ちょっと待って」


 肩を落としかけたところで、レンエンさんが声をあげた。

 反射的に振り返った私と周防さんに「あれ、あれよ、あれ」と、手招きするみたいに何度も手を前後に振った。


「あるわ! 使っていたノミ、まだあるわよ」

「本当ですか!」

「ちょっと待ってなさいっ」


 ぴょんと飛び跳ねるように、座敷から店の方へけて行く。しばらくして戻ってきたレンエンさんの手には、さらし紙に包まれた折れたノミがにぎられていた。

「父の代から使っていたものだから、古くなって柄が折れちゃって。今朝、屑籠くずかごに捨てたの」


 受け取ると同時に、私と周防さんは共に触れた。

 見えたのは、火消の男達の屈強な背中や、遊女の白い細腰。

 鮮やかな赤、仄暗い黒、眩い橙。

  

 時と共に刻んできた者達の膨大な記憶、そして想いが手の平に溶け、体の中を駆け巡った。

 そのノミが折れてしまったせいなのか、私の力が未熟なせいなのか。流れるように見える光景が時折途切れ、荒く乱れた。


 ―― 『わしは、死が怖いのだよ』


 そして声がした。

 不安と焦り。苛立ちと恐れ。それが背筋を撫で、首に絡みつく。

 導かれて目を開くと、座敷に敷かれた布団に、うつ伏せになっている巽の姿が見えた。傍に寄り添うレンエンさんは、巽の背中に刻まれた青い薔薇をうっとりと眺め、その花弁はなびらを指先でなぞった。


『……もう、わ……くない……』


 巽がレンエンさんに何かを話している。けれどその声は途切れ、はっきりと聞きとることができない。そして、口を開く度にある景色が見えていた。

 石造りの建物が建ち並ぶ運河と、夜の闇を照らすアーク灯。行き交う異国の人々。その景色が、体の中にスーッと溶けていく。


「――ミズキ」


 名前を呼ばれ、閉じていた目をそっと開いた。見上げた先に、心配そうに見下ろす周防さんの顔があった。


「何だか、記憶が途切れ途切れで、よくわかりませんでした」

「俺も同じだ。声も聞こえない部分が多い。だが、気になる点はいくつかあった」

「それが答えだといいんですけどね」


 折れたノミが見せてくれた記憶が、どこかに繋がっていると、密かに願った。

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