第13話 「秘メタ想イ」
「来栖さん、ここにいたんですね」
「スズネ、丁度いいところに。今日はこれで帰るから、お代はつけておいてほしいと伝えておいてくれるかい?」
「わかりました。あっ、その前に、これ」
彼女が手にしていたのは、周防さんから貰った〈星の雫〉だった。
まさかと思って、上着のポケットを探してみた。入れていたはずの瓶が、どこにも見当たらなかった。
「座敷に落ちていたんです。ミズキさんのですよね?」
「すみません、部屋を出た時に落としちゃったんですね」
お礼を言って、それを受け取った、その時。偶然にも彼女の手に触れてしまった。
―― お兄ちゃん
指先が触れた瞬間、頭の中にスズネさんの声が広がり、訴えかけるように強い想いが体を駆け巡った。
夕暮れの道。自分の手を引く男の子の横顔を、その目はしっかりと見つめていた。その眼差しには、尊敬と愛情の2つが色濃く
『お兄ちゃん』
声をかけて振り向いたその少年は、まだあどけなさが残る子供の頃の来栖さんだった。
2人は両親の、互いの連れ子だった。兄と妹という関係であっても、そこに血の繋がりはない。それがスズネさんにとっては救いであり、永遠に続く切なさを生んでいた。
父親の抱えた借金を返すため、スズネさんは遊郭へと入った。それからずっと、来栖さんはこの店に通い続けている。
『スズネは誰の座敷にも出させない。僕が指名し続ければ、スズネを守ることができるから』
来栖さんがこの店で指名するのは、スズネさんただ1人。毎晩、毎晩。ここへやってきては、夜が開けるまでスズネさんの傍にいる。
夜の
「ミズキさん?」
ふと気づくと、スズネさんが小首を傾げて私の顔を覗き込んでいた。
記憶に触れている間、私は彼女のことをじっと見つめていたらしく、それを不思議に思ったらしい。スズネさんは戸惑った様子だった。
「あっ、ごめんなさい。仕事で疲れているのか、ぼうっとしちゃって。これ届けてくれて、ありがとうございました」
「いいえ。来栖さん、明日もいらっしゃいますか?」
「もちろん。毎日来るって、約束だろ?」
「はい。では、お待ちしております」
「うん、また明日」
照れくさそうに会釈をし、スズネさんは戻っていく。
来栖さんが毎日、ここへ足を運んでいるのは、妹であるスズネさんが他の客に指名されないよう、独占するためだった。もちろん、兄妹の関係を秘密にして……遊び人だと思ってしまったこと、少しだけ反省した。
きっと、そう見えるよう装っているだけで、本当は妹想いのお兄さん。
ただ、スズネさんの恋心に気づいているのか、いないのか。もし気づいていないのなら、少し残酷かもしれない。
スズネさんの想いが伝わりますように。
もし裏切るようなことがあれば、来栖さんにバチが当たればいい。そう密かに祈った。
「どうかした?」
「いえ、何でもありません。お店、閉店しちゃう前に行きましょう!」
私は来栖さんを連れ〈火龍楼〉をあとにした。
花街から職人街へ着いた頃には、ほとんどのお店が閉まっていた。なんとか、閉店間際の〈
玄関ホールから廊下を進んでいくと、古書館へ繋がる地下階段の入口前に黒山の人だかりができていた。見れば、白い煙が天井に向ってゆらゆらと
「すみませんっ、何があったんですか?」
人だかりの最後尾にいた若い軍人に声をかけた。
彼も事の成り行きを知りたいらしく、話しかけてもどこか上の空。私と階段の方を交互に見て様子を
「僕も今来たばかりで、詳しくはわからないんですけど。男が乗り込んできて、責任者の少佐が怪我をしたとか、どうとか」
「周防さんが、怪我……!」
「あっ、ミズキちゃん!」
いてもたってもいられなくて、私は野次馬を掻き分け、来栖さんの制止を振り切って階段を駆け下りた。
立ち込める煙を切り裂く勢いで古書館へ入ると、雲の中にでもいるみたいに、そこは真っ白。窓が無いせいで煙の逃げ場がなく、室内に充満していた。
ここへ乗り込んで来たという男と激しく争ったのか、床には資料や押収品が散乱している。参考調査業務で使っている机は、
「来栖大佐、お戻りだったのですね」
私の後を追ってきた来栖さんに駆け寄ってきたのは、特務局の若い軍人さん。
歳は私と同じくらいだろうか。少しタレ目で、
「ハルトか。何があったのか、説明してくれる?」
「10分ほど前、巽エレナさんの恋人だと名乗る男が、特務局にやってきたんです。彼が来る少し前に、周防少佐が〝資料作成で協力してほしい〟と、エレナさんを連れて行かれたので、説明をして、男を古書館へ案内したんです」
そう言いながら、彼は苦々しく辺りを見渡した。
「本当に恋人なのか、我々には確かめようがありませんでしたので。その点も含めて、周防少佐に記憶を見てもらうつもりだったのですが……」
「案内した結果が、これだったというわけだね」
頷きながら、彼は申し訳なさそうに頭を
「それで、エレナさんは?」
「男に連れ去られたそうです。現在、捜索中です」
「周防さんは? 周防さんは無事ですか!?」
どこを見ても、周防さんの姿が見当たらない。気が気ではなくて、私は夢中で彼の腕を掴んで、何度も揺さぶった。
「今、どこにいるんですか?」
「あ、あの、落ち着いて下さい!」
「ミズキ?」
低く、落とすような声が聞こえた。
煙の向こう側にある給湯室から、スッと人影が現れた。ゆっくりと近づき、煙を抜けてやってきたのは周防さんだった。
傍までやってきて、ようやく顔が確認できて安心したのも束の間。周防さんの口元が切れ、血で赤く染まっているのを見て、鼓動が痛いほど跳ね上がった。思わず、周防さんの着物の衿を掴んで引き寄せていた。
「っ! おい、何やって――」
「あぁー、血が! なんて痛々しい……」
「ちょっと殴られただけで、大したことは」
「殴られた!?」
自分でも驚くほどに声が裏返った。至近距離で声を上げたせいで、周防さんは目を丸くして体をびくりとさせた。
「う、動いちゃ駄目ですよっ。今、手当を!」
「いいって、こんなの」
「よくありません」
それ以上無駄口が叩けないよう、ハンカチで口元を押さえた。
それを目にした周防さんが、フッと鼻で笑った。それもそのはず。私が持っていたハンカチは、周防さんと来栖さんが転職祝いにと買ってくれた、あのハンカチだった。
「俺が贈ったハンカチ、自分で使うことになるとは思ってなかったよ」
「さっそく役に立ちました。あっ、なるほど。こうなることを予想して買ってくれたんですね」
「ミズキの涙用だったんだけどな。予想が外れたか」
「……怪我、これだけで済んでよかったです」
周防さんは小さく頷いて、真っ直ぐに私を見つめた。
いつもは恥ずかしくて直視することができないのに、今は平気だった。その無事を、この目でしっかりと確かめることができる。自ずと、恥ずかしさは消えていった。
「随分、男前になったじゃないか」
割り込んできた来栖さんが、周防さんの顔を覗き込んだかと思えば、かけた言葉がそれだった。毒混じりの冗談に、周防さんも悪そうにニヤリと返した。
「それはどうも。来栖もやられてみるか?」
「遠慮しておくよ。それより、エレナさんを連れ去った男の顔、ちゃんと見たんだろうね」
「当然」
答えるや否や、来栖さんと私の手を力強く握った。
瞼の裏側に映しだされたのは、1人の男だった。獅子のタテガミを思わせるような、毛質の硬そうな長髪をオールバックにした大男。紺色の着物に革靴、黒いフロックコートを羽織っている。古書館に入るなり、彼は何も言わずに、突然周防さんを殴り飛ばした。
積まれた資料が散乱し、押収品が音を立てて床に落ちる。周防さんが倒れている隙に、男は煙幕弾を室内に放り、エレナさんを連れて逃走。すぐに追いかけたものの一足遅く、男は蒸気自動車に乗って走り去っていた。
「俺が見たのはここまでだ。悪いが、どこへ向かったのかはわからない」
「顔がわかれば十分。ミズキちゃん、周防のことは任せたよ」
部下達を連れ、来栖さんは早々に古書館から引き上げていった。
足音が遠ざかり、室内に静けさが戻ってきた。そこには私と周防さんの2人だけ。どちらからともなく顔を見合わせる。さっきまで感じなかった気まずさに襲われて、何を話していいのかわからなくなった。
「どうして戻ってきたんだ?」
先に切り出したのは周防さんだった。この気まずさを誤魔化そうと、〈龍月堂〉で買ったカステラを突き出した。箱の向こう側で、周防さんはきょとんとしていた。
「すみませんでした」
「何のことだ?」
「自分が何を優先すべきなのか、ちゃんとわかりました。やるべきこと、しっかりやろうと思って戻って来たんです」
周防さんは何も言わずに、カステラの箱を受け取った。鼻を近づけ、くんくんと、相変わらず犬みたいに匂いを嗅いでいる。浮かべた表情は、良く言えば幸せそうな笑顔。悪く言えば緩んだニヤケ顔だった。
「これ、
「香りだけでわかっちゃうなんて、さすが周防さんですね」
「これ食って仕事の続きするか。ミズキも食うの付き合えよ。一人で食っても美味くないから」
「もちろんです。では、お茶
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