第12話 「アノ日、アノ時」
暑さにのぼせたような、微熱があるような。
とにかく、意識が
「不意打ちだったからなぁ……完全に、記憶に酔っちゃった」
砂利の敷かれた中庭の隅に、
そこに座って、何気なく顔を上げると、吹き抜けになったそこからは星が
「キクノさんの記憶、古書館に保存されている記憶とは違ったなぁ。頭の奥に響く感覚って、初めてかもしれない」
キクノさんは外見から察するに、歳は私と同じくらい。その割に落ち着いていて、やけに大人びた雰囲気があるとは思っていた。そう感じさせるのは、この花街へ辿り着くまでに経験してきた、一言では語れない記憶があるからなのかもしれない。
親を亡くして、生きていくために本当の名前を捨てて、生まれ変わるためにここへやってきたキクノさん。愛した人に何度も裏切られて、それでも愛して――。
そこに見えたのは、生きるための力だった。何が何でも生きてやろうという、叫びのような。そういう記憶は強い
「あっ、ここに居たんだね、ミズキちゃん」
名前を呼ばれて振り返ると、いつの間にか来栖さんが立っていた。
突然部屋を飛び出したから、様子を見に来てくれたのだろうか。「大丈夫?」と、声をかけながら、私の左隣りにゆっくりと腰を下ろした。
「彼女達の香りにでも酔った?」
「いえ、そういうわけじゃ……記憶に酔いました」
「記憶?」
大きく息を吸い込んで、丸めていた姿勢を一気に伸ばす。すると、目の前に
「はい。水でも飲めば少し落ち着くよ」
「ありがとうございます」
手にしたとたん、指先でその冷たさを感じた。同時に、来栖さんがこれを持ってやって来る、ほんの少し前の記憶が
――『部屋が暑かったみたいでね。氷があれば、少しだけ入れて欲しいんだ』
店主に手を合わせて頼み込んでいる来栖さんの姿が見えた。その気遣いが、思いのほか気分を落ち着かせてくれた。
一口含んで、ごくりと飲み下す。
染み渡る冷たさが、内側で熱を持って蠢いていた記憶の塊を鎮めていく。一息ついて間もなく。来栖さんは私の膝の上に、小さな和紙の包みを置いた。中に入っていたのは色とりどりの
「それ、僕のお気に入りでね。ここでしか食べられない、桜味が入っているんだ。美味しいよ」
「また甘い物ですか?」
「実は、周防と一緒にミズキちゃんを甘党に勧誘する計画が進行中なんだ」
「言っておきますが、そう簡単には仲間になりませんよ」
軽口を叩いて、お勧めの桃色の
噛み砕いて呼吸をする度に、仄かに香る桜の香りが鼻先に抜けていく。くどさのない甘さがとても上品で、どこか来栖さんを連想させるような、そんな甘さだった。
「それで? 記憶に酔ったっていうのはどういうこと?」
「私、時々なるんです。人の記憶を見ると、意識が朦朧として気分が悪くなって」
「そっか。いつもつけている手袋、さっきはつけてなかったんだね」
来栖さんは私の手に視線を落とした。
「遊女さん達は、他の人が経験できないような人生を歩んできた人が多いですから。想いが強い分、記憶が見える時の感覚も、強過ぎるくらいなんです」
「確かに、ここにいる子達は訳ありの子も多いし、生半可な人生は歩んでいないかもしれない」
頷きながら、来栖さんは上着の内ポケットから
立ち昇った煙がゆっくりと、夜空の黒に溶けて消えていくのを、隣でぼんやりと眺める。その時初めて、来栖さんも煙草を吸うことを知った。
その姿は周防さんよりも色気があった。
「
「断片的なものだけなら、まだいいんですけどね。生まれた時から今に至るまでの膨大な記憶が、ほんの一瞬で、全て見えちゃいますから」
「全て見えないからこそ、いいってこともあるよね」
子供の頃、同級生だった男の子に
この力はその人が経験してきた記憶はもちろん、その時感じていた感情も読み取ることができる。怒りや悲しみ、喜び、そして寂しさ。
相手がどう思っているのか、一度くらい見てみたいと思うことは誰にでもある。でも、見えるようで見えない、知りたいという好奇心が、適度な距離感を生む。それが〝人と人〟としての関係を保っているのだと思う。
もしそれが互いに全て見えていたら、こうやって誰かと関ることも、話すこともなくなるだろう。相手を知ろうとは思わなくなってしまう。
「仕事ですから、今は力を使っていますけど。できる限り、この力は使いたくないんです。人の記憶や心の中なんて、見ないに限ります」
「うん、全部見えてしまったら面白くないね。手に入れたいと思っている女性が、自分のことをどう思っているのか。知りたいと思いつつも、反応を見ながら探るのも
「簡単にわかったら、つまらないってわけですか?」
「当然。わかるようでわからない。この手探りの駆け引きがあってこそ、得られた時の達成感がたまらなくいいんだよ」
そういう解釈の仕方もあるだろうけど、よりにもよって女性で例えてくるとは。つくづく何を考えているのか読めない人だ。
確かに、読めない程度で丁度いい。おそらく、私を心配してくれているんだろうなって、何となく感じられるだけで十分だ。ただ、周防さんのこととなると話は変わってくる。
「今日、周防さんは私のこと、どう思ったんでしょうか」
吹き抜けの先の星空を仰ぎ見ながら、
「仕事、ちゃんとできなかったんです。やらなきゃいけないのは、わかっていたんですけど。どうしても手に着かなくて」
「その様子だと、周防に何か言われたんだね」
「〝自分が何をして、何を優先すべきなのか完全に見失っている。それが見えないうちは、何をやっても駄目だ〟って」
「多分、周防がそう言った理由は、自分とエレナさんを重ねて見ているからじゃないかな」
「エレナさんと?」
何か共通することがあるのだろうか。
ああ見えて、周防さんも異国人の血が混ざっているとか。それとも孤児院の出身なのか。
色々と考えてみたけれど、どれも違う気がして、しっくりこなかった。
「今から10年前になるかな。周防は一度、記憶を全て失っているんだ」
「全て……事故か何かで、記憶喪失に?」
「エレナさんと同じように、
その言葉を聞いた瞬間、鼓動が痛いほどに跳ね上がった。
ドクンッ、ドクンッと。低く脈を打ち、このまま張り裂けてしまうのではないか。そう錯覚するほどの痛みを覚えた。
「もしかして、周防さんの記憶はその時に?」
「あの事件が起こった時、周防も船に乗っていてね。今も所々、思い出せないことがあるみたいだけど、何年もかけて記憶を取り戻したんだ」
「……私と、同じだったんですね」
「同じって?」
「10年前、私も乗っていたんです。〈ハンス・ペルシュメーア号〉に……」
そう答えた私を、来栖さんは瞬き一つせずに見つめていた。
これ以上開かないんじゃないかと思うくらいに大きく、丸く見開かれている。私と来栖さんの視線と沈黙を埋めるように、2人の間を紫煙が漂っていた。
「父方の叔父が造船技師で、あの船の設計に関っていた1人だったんです。進水式の日、企業家や貴族以外にも、製造にかかわった叔父も招待されていて。〝1人で行ってもつまらないから〟って、私を連れて行ってくれたんです。それで……」
「そっか。記憶復元の話をした時、やけに詳しかったよね? それって、記憶を消された過去があったからだったんだね」
頷く代わりに、私は湯呑の水を静かに飲んだ。ゴクリと、互いに飲み下した水が喉を通る音が微かに聞こえた。それに合わせるように、来栖さんもそっと
「まさか、周防さんもあの事件の被害者だったなんて。驚きました」
「ミズキちゃんと周防は、同じ想いを経験しているんだ。周防が言っていたことの意味も、今ならわかるはずだよ」
小さく頷きながらそっと目を閉じ、息を吐いた。
きっと、記憶が無いことへの不安や焦りは痛いほど理解している。私も、もちろん周防さんも。ただ周防さんは私以上に、少しでも早くエレナさんの記憶を取り戻してあげようという思いが強かったのだろう。だからあんなにも一生懸命だったのかもしれない。
何を優先すべきなのか――ここに来て、ようやくわかった。
私はエレナさんの記憶に飲まれて、怖気づいていただけ。10年前のように、記憶を失った時の感覚を恐れるあまり、立ち直れなくなっている自分をどう
エレナさんのことを最優先に考えれば、落ち込んでいる暇なんてない。取るべき行動を見失ってしまっている。周防さんが言おうとしていたことに、私は気づけていなかった。
「私、周防さんに謝らないと……」
「うん。僕もそうした方がいいと思う」
ニッと笑って、小さな子供でもあやすみたいに、私の頭を軽く撫でた。
それは異性を慰めるというよりは、むしろ兄が妹を心配しているような。そんな包み込むような温かさと優しさをじわりと感じた。
ただ問題なのは、こういう行動をさらりとやってのけてしまうこと。来栖さんは、本当に罪作りな人だ。勘違いをして、密かに涙を流している女性達がこの国のどこかにいるのは間違いない。
「話さないとわからないことなんて、いっぱいあるからね。いくら
「素直な言葉……私、古書館に戻ります」
溜まっていた言葉を吐き出したおかげで、頭の奥がスッと軽くなった。今なら何でもできそうな気がする。そう感じ、私は勢いをつけて長椅子から立ち上がった。
「今から?」
「多分、まだいると思うんです。こういうことは、勢いがある時に行動しないと!」
身を乗り出すように言った私を見て、来栖さんはククッと吹き出した。おかしなことを言ったつもりはなかったのに、そんなふうに笑われてしまうと、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「それじゃあ、戻る前にお土産でも買って行こうか。周防って、ああ見えて結構短気だし。怒っていても顔に出さないところもあるからね」
「やっぱり、あれって怒っていたんですか?」
「少しね」
それを聞いたとたん、帰るのが急に怖くなった。
感情を表に出す人は、顔や態度にそれが表れることもあって、適度な距離を取って様子を窺うことができる。今なら話しかけても大丈夫だろうか、今は少し触れてないでおこうと、対策を練ることができる。
逆に、内側に隠してしまう人は、その駆け引きが通用しない。口では「怒ってないよ」と言っても、腹の底で怒りを煮え滾らせていることだって十分に考えられる。こういう時ばかりは、毛嫌いしている
「私、どのくらい叱られるのでしょうか……」
「大丈夫だよ。お土産持って行けば、機嫌なんて直っちゃうから。そういう単純なところもあるんだ」
と、来栖さんが話している途中のこと。
会話に重なるように、パタパタと廊下を走る足音が響いてきた。何事かと振り返れば、一人の遊女がこちらへ駆けてくる。来栖さんの隣でお酌をしていた、スズネという遊女だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます