第11話 「花酔イ」

「ミズキ、手が止まってる」


 静まり返った室内に、周防さんの声が響いた。

 その日、孤児院やレンエンさんのお店で集めたエレナさんの記憶を書き起こす、いつもの作業に取りかかっていた。けれど、何をしても集中することができずにいた。

 万年筆を握りしめたまま筆は進まず、2行ほど書いて止まったままだった。


「朝からずっと、そんな調子だな」

「すみません……」


 ガラス玉に残されていた記憶を見てからというもの、何をしても手につかずにいた。後味の悪い映画を見て、そのままズルズルと気持ちを引きずってしまったような状態だった。

 あの記憶も不自然な点が多く、故意的に上書きされた可能性があるそうだ。あえて記憶を限定して残したのは、意味があるのではないかと、周防さんはそう言っていた。

 

 私達の報告を聞いた来栖さんは、手始めに〈巽サキョウ〉について調べた。わかったことは巽が養子を迎えた記録がなく、本人に確かめようにも現在は病床にあって、数ヶ月前から意識が戻っていないらしい。

 長年、巽家に仕えている使用人達にも話を聞いたところ、巽が養子をとったことはないと、口を揃えて答えたそうだ。念のため、使用人達の記憶も読み取ってみたけれど、確かに養女の記憶も、エレナさんの記憶も見つけることはできなかった。


 レンエンさんの記憶にも、ガラス玉にも、確かに巽とエレナさんの姿が残っていた。その事実に反して、現実にはその証拠が存在していない。わからないことばかりだった。

 進展があるまではいつもの業務に戻っていたのだけれど、思い出して書こうとすると気になって、その度に筆が止まっていた。


「それはミズキの記憶ではないから、思い詰めたところで何の解決にもならない。立ち止まっている暇があるなら、できることをやって、先に進むしかないだろう?」

「そう、なんですよね。わかってはいるんですけど……」


 弱音を吐いた矢先、手元にあった紙を取り上げられた。

 歯切れの悪い返事に怒ってしまったのだろうか。恐る恐る顔を向けると、周防さんは仕方ないなと呆れたような笑みを、口元に薄らと浮かべていた。


「そんな状態なら、続けても結果は同じだ。今日は帰って、しっかり休め」

「いえ、でも――」

「今のミズキは、自分が何をして、何を優先すべきなのか完全に見失っている。それが見えないうちは、何をやっても駄目だ」


 立ち上がろうとした私を止めるように、金平糖の入った瓶を目の前に突きつけられた。訳も分からず手を出すと、半ば押しつけるみたいに手渡されてしまった。


「それ、美味いぞ」

「……知っています。六花楼の限定〈星の雫〉ですから」

「疲れている時は甘い物に限る。それ食って、元気つけてこい」


 それだけ告げて、周防さんは作業に戻った。

 自分が何をすべきなのか。周防さんの言葉が頭の中で何度も響く。受け取った金平糖の瓶を見つめて、自らに問い質した。


「失礼するよ」


 そこへ来栖さんがやってきた。

 いつものように声を弾ませて入ってきたものの、踏み入れた瞬間、そこに漂う気まずい空気を察知したらしい。覚ったようにうなづき、抱えていた押収品を静かにソファに置いた。


「今日の分、ここに置いておくよ」

「あぁ、すまないな」

「それにしても、今日はやけに居心地の悪い空気が漂っているね。何かあった?」


 来栖さんは私に目配せをした。答えづらくて口籠くちごもる私を見兼ねたのか、「少しな」と、周防さんが切り出した。


「たいしたことじゃない。ミズキがエレナさんの記憶に当てられて、仕事が手につかなくなっただけだ」

「それで周防がミズキちゃんをいじめたから、こんな空気になっているんだね」


 相変わらず人聞きの悪い言い方をする来栖さんに、周防さんはムッとして、咳払いを返した。


「来栖、悪いんだけど。ミズキを連れて帰ってくれないか?」

「送って行っていいの?」

「頼むよ」

「了解。それじゃミズキちゃん、僕と一緒に帰ろうか」

「で、でも――」

「いいから、いいから。それじゃ周防、お先」


 私の返事など待ってはもらえず、強引に引きずられて連れ出された。

 扉が閉まる直前、振り返った先に見えたのは、真剣な眼差しで机に向かう周防さんの横顔だった。


「酷い顔してるね」


 階段を上っている途中で来栖さんが言った。

 確かに、今は酷い顔をしているかもしれない。鏡を見なくても、なんとなく表情の硬さや瞼の重怠さから想像ができる。

 

 記憶に当てられて、周防さんには帰れと言われて暗い顔になっているだろうし、眉尻も心なしか下がっているような気がする。それでも、酷い顔は少し言い過ぎのような気がした。

 ムッとして顔を上げたとたん、数段上にいた来栖さんに両手でしっかりと、頬を挟むように掴まれてしまった。


「気分転換に出かけようか。ちょっと付き合ってくれる?」

「付き合うって、どこにですか?」

「着いてからのお楽しみ」


 少し甘く、危険な言葉に誘われて、私は本部をあとにした。

 そのまま蒸気馬車に乗り、向かった先は――なぜか〈花街〉。

 鮮やかな赤い壁がその一画を染め、空には淡黄色の灯りが灯った機械仕掛けの提灯がふわりふわりと飛びながら、夜の闇を照らしている。


 入口から遠巻きに見たことはあったけれど、門を潜り、中の通りを歩くのは初めて。

 まるでそこは別世界だった。時間の流れが甘く、ゆったりと流れているような、そう錯覚させる独特な空気が漂っていた。

 遊女でもない女の私が、来栖さんに手を引かれて歩く姿は、通りを行き交う男達に色々な憶測と想像をさせたはず。すれ違う度に、一人、また一人と振り返ってこちらを見ていた。


 刺さるような視線を浴びながら、ようやく一軒の店に入った。名は〈火龍楼かりゅうろう〉。

 応対している店主の丁寧ながらも親しげな会話から、来栖さんがここの常連であることは何となく窺えた。それを確かめる間もなく、あれよあれよと、部屋に案内され、食事や酒が運び込まれてくる。それに気を取られているうちに、四人の遊女が座敷に入ってきて、両脇を挟まれてしまった。


「箸が止まっているわね。口に合わなかった?」


 寄り添うように右隣に座っていた遊女が、優しく微笑んで顔を覗き込んできた。名前は確か、キクノさんと言っていたはず。

 左隣りに座っているアヤフジさんという遊女に、半分ほどあいた湯呑にお茶を注いで「どうぞ」と渡される。取りあえず口をつけたけれど、緊張しているせいか茶の味もわからず、ただ熱いという認識だけで口に含んだ。


「どうしたの、ミズキちゃん。初めてで緊張してる?」


 向かいに座っている来栖さんが、からかうように訊ねた。

 両脇に若い遊女2人を侍らせて優雅にお酒を飲む姿が、お世辞抜きによく似合っている。そこに居ることが当り前のように、景色の一部として溶け込んでいるような自然さがそこにはあった。


「来栖さんは、やけに馴染んでいますね」

「そう見える? きっと、毎日来ているからかもしれない。そうだよね、スズネ」


 と、隣に座っている一回りほど年下の、若い遊女の肩を抱き寄せた。来栖さんが額の辺りに唇を寄せれば、彼女はくすぐったそうに無邪気に笑っていた。

 ただ不思議なのは、2人のやり取りには一切の嫌味が感じられないことだった。来栖さんがこの場の景色に溶け込んでいるように、2人が寄り添って触れ合うこともまた、1つの景色のよう。何の意識もなく呼吸をするのと同じくらい、自然で違和感すら存在しない。


「ほら。せっかく来たんだから、もっと楽しまないと」


 2人の姿に見惚れていた私に、アヤフジさんがフフッと含み笑って肩を叩く。


「はい……でも、こういう場所に女性が来ることってないですよね? いいんですか?」

「あなたが初めてだけど、悪いことなんて何もないわ」

「男の人ばかり相手にしているから、たまには女の子がいる席もいいわね」


 キクノさんは用意された膳から小松菜の胡麻和えを箸で摘まみ取り、それを私の口元に持ってきた。「どうぞ」と言われたけれど、これにはさすがに身構えてしまった。


「えっ! いえ、自分で食べられますから」

「ここに居る時くらい、こういうことも楽しまなきゃね」

「は、はい」


 誰かに食べさせてもらうのは、子供の時以来。成人してそれを味わうことになるとは思いもしなかった。羞恥心と好奇心に煽られながら、私は思い切って一口。


「んっ、美味しい!」

「よかった。ここで出している料理、評判がいいの。もっと食べていってね」

「ねぇ、聞いたわよ。あなた、周防さんのことが好きなんですってね」

「っ!」


 それは本当に唐突に、アヤフジさんが何の前触れもなく言い放った。口に入れたばかりの料理を、噛まずに飲み込んでしまうほどに驚いた。


「だ、誰に聞いたんですか?」

「来栖さんよ。恋の相談に乗ってあげてほしいって、さっき頼まれたの」


 私はじろりと、手にした箸を握り締めながら来栖さんを睨みつけた。

 余計なことを勝手に話さないでください。そう目で訴えかけたつもりだった。一方、来栖さんはまるで他人事のように素知らぬ顔。わざとらしく気づいていないふりをして、ちびちびとお酒を楽しんでいる。


「それで? 好きなの?」

「アヤフジさん、聞かなくてもわかるわ。顔にそう書いてあるもの」


 答えずに押し黙れば、アヤフジさんとキクノさんの、興味津々の眼差しが私を捉えた。この目、知っている。アカネが私をからかう時に使う目と同じだった。

 この見透かすような真っ直ぐな眼差しが、私はどうも苦手らしい。逃げ場を失って、ただ黙って頷くことしかできない。たったそれだけで、2人は楽しそうにはしゃいでいた。


「周防さんのこと、お二人はご存じなんですね」

「前に、このお店に強盗が入ったことがあってね。その時、来栖さんと一緒に、ここを調べに来ていたの」

「あの人、存在感あるわよね。遊女が着るような着物を上着代わりに羽織っているし、眉のところに切り傷はあるし。容姿もそうだけど、雰囲気がね」

「雰囲気?」


 私は二人に聞き返した。


「どこか謎があるでしょう、周防さんって。そういう男って、惹かれるのよね」

「若い子は特に引っかかるわね。うちの子達の間では、しばらく噂になっていたから」


 どこにいても、周防さんは誰かの記憶に残る人なのだと、2人の話を聞いて感じた。一瞬で目に焼きついて、心や記憶に刻まれて、忘れられなくなる。

 今頃、周防さんはどうしているだろう。

 ちゃんと仕事を手伝えなかったことを、今になって後悔し始めていた。申し訳なくて、情けなくて。せっかくの席なのに、気持ちがゆっくりと落ちていくのが手に取るようにわかった。


「どうしたの? 具合でも悪い?」


 急に俯いた私を心配して、キクノさんが背中をさすってくれた。

 こんなところで、会ったばかりの人達に心配なんてかけられない。首を横に振って、無理に笑いながら、顔の辺りを手で煽いだ。


「いえ、ちょっと、暑いなぁと思って」

「気づかなくてごめんなさい。これ、使って」


 キクノさんは持っていた扇子を貸してくれた。

 白地に赤い金魚が描かれた可愛らしい扇子せんすだった。華やかで妖艶な雰囲気のあるキクノさんの持ち物としては、少し幼さな過ぎるような気がした。


「えっと、ありがとうございます。お借りします」


 受け取って、私は息を呑んだ。

 仕事の途中で慌ただしく連れ出されたこともあって、手袋をつけ忘れていた。気づいた時にはすでに遅く、握り締めた扇子から、そこに刻み込まれた記憶が体の中へと押し入ってきた。



――『ユウナが欲しがっていた扇子。約束していたからね』



 見上げた先に、すらりと背の高い、眼鏡がよく似合う男性がいた。

 微笑みかけるその人を見つめる度に、胸の奥がキリキリと痛む。嬉しいはずなのに、つらくて、それでも見ていたい。そんな彼の左手の薬指には、簡素な銀色の指輪が鈍く光っていた。

 

 彼が好きだった。抱いた淡い恋心を告げることができず、一緒になることも叶わなかった、アヤフジさんの記憶。その想いが塊となって、爪先から脳天まで駆け上がる。熱く、悲しく、切ない想いに、呼吸をすることさえ忘れそうになった。


「す、すみませんっ。私、ちょっと外に行ってきます!」


 その場に座っていることさえ耐えられなくなり、私はふらつきながら部屋の外へ飛び出した。

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