第8話 「消セナイ」
途切れていた意識が、ふわりと、体に戻ってくる。
辺りは真っ暗で、窓の外にあるアーク灯の明かりが微かに部屋を照らしているだけ。自分のことなのに状況が
仕事を終えて寄宿舎の自室に戻り、布団に横になったことは憶えている。その後の記憶がないのは、ものの数分で眠ってしまったせい。
「……今、何時?」
まだ頭がぼんやりしているせいか、体がやけに重い。
反動をつけて起き上がり、枕の下にいれていた懐中時計を引っ張り出した。
午後九時をほんの少しばかり過ぎていた。確か、自室に戻ってきたのは午後5時頃。4時間ばかり眠っていたみたい。
「まだ眠い……でも、お腹も減ったなぁ。食堂で何か――」
ベッドから降りようとして、すぐに諦めた。
寄宿舎の食堂が開いているのは午後八時半まで。すでに閉っている時間だった。その事実に気づいたとたん、体に力が入らなくなった。起きているのも馬鹿らしくなって、抵抗することなく再びベッドに倒れ込んだ。
「それにしても、今日は疲れたなぁ」
溜息が静寂の中に溶けていく。
孤児院でたくさんの人の記憶に触れたせいで、目を閉じると他人の記憶が
もっとも、この疲れが増した理由は他にもある。孤児院で記憶の収拾を終えた後、さらなる記憶を求めて、エレナさんが勤めていたというウスキヒ博物館へ足を運んだ。
事情を説明すると、館長はエレナさんを知らないと言いだした。
博物館内はもちろん、館長や他の職員の記憶も調べ、孤児院で見た以上の膨大な記憶を読み取ったにもかかわらず、エレナさんに関する記憶は何一つ見つからなかった。もちろん、
軍が把握している届出には、確かにエレナさんは博物館勤務とあったのに、実際はそこで働いた経歴が存在していなかった。
「持参したお菓子がなくなってから、周防さんは心ここにあらずで、機嫌直してもらうためにお菓子買いに行かされるし。今日は散々だったかもしれない……」
枕に顔を埋めて、深く、長めに息を吐く。
気だるさの中、再び襲ってきた
「……エレナさんは、記憶が消されちゃっているんだよね。たくさん記憶を見るのも大変だけど。何もわからない、憶えていないっていうのも、大変なことだから」
記憶はその人が生きてきた証。それを失うのは、悲しいとか怖いとか、そんな簡単な言葉で説明できるものではない。どちらの感情も存在しない、その感覚すら失ってしまうもの。だから、そこにあるのは〝無〟だけ。
「今、エレナさんには何もないのよね……何も」
―― 姉ちゃん。僕のこと、わからないの……?
10年以上前になるだろうか。まだ幼かったソウタに言われた言葉が、頭の中で響いた。
わからないはずなのに、なぜか悲しい。そんな胸の奥に何かが詰まって引っかかったような、やりきれない気持ちになった。
「私にしかできないこと、きっとあるはずだよね」
じっとしていても落ち着けそうになくて、私はすぐに部屋を飛び出した。
「――あれは」
寄宿舎を出て本部棟へ向かっていた途中のこと。来栖さんとエレナさんを見かけた。
エレナさんは本部で保護している状態で、今は女子の寄宿舎の一室を借りて生活をしている。部屋まで送っていく途中なのだろうと思ったけれど、2人が向かったのは東門。その先にあるのは職人街だった。
おそらく、エレナさんを気遣って食事にでも誘ったのかもしれない。けれど、ほんの少しだけ、私情を挟んでいるように見えてしまった。
「鼻の下伸ばしちゃって。なんだか嬉しそう」
来栖さんはおそらく女たらし。もちろん、それはあくまで私が見た第一印象。好みの女性が現れようものなら、仕事云々ぬかして声をかけそうだった。状況はどうであれ、エレナさんが楽しそうならそれでいい。
無表情で不安でいっぱいだったのに、来栖さんと話すエレナさんは楽しそうで、笑顔も明るく自然だった。仮とはいえ、子供の頃の記憶が戻った影響は大きかったみたいだ。
胸の奥がほんの少し暖かくなるのを感じながら2人の後ろ姿を見送り、私は古書館へ急いだ。
いつものように階段を下り、扉をそっと開けると、なぜか古書館内に灯りがついていた。最初はランプの消し忘れだろうと思った。けれど、しんと静まり返るその空間に、何となく気配を感じたような気がした。この部屋のどこかに周防さんがいる――そんな気がして、そっと忍び足で書架の奥へと進んだ。
(やっぱり、いた……
ずらりと並んだ書架の、半分あたりのところで周防さんを見つけた。脚立に腰かけ、真剣な顔で資料を読んでいる。集中しているらしく、私がいることに気づいていなかった。
「こんな時間まで仕事ですか?」
「っ!」
声を張ったつもりはなかったのに、周防さんは大袈裟なくらいビクリと肩を跳ね上げて驚いた。その拍子に、手にしていた資料がバサバサと音をたてて勢いよく足元に落ちた。
「お、おいっ! 急に声かけるなよ……」
「足音で気づくと思ったんですけど」
「作業中は集中して周りが見えなくなるから、背後に立たれても気づかないことの方が多いんだよ」
相当驚いたらしく、落ちた資料を拾い集めながら「心臓痛ぇ」と、小声で呟いていた。なんだか申し訳ないと思いつつも、その姿に悪戯心をくすぐられたのは確かだった。
「孤児院から戻って、ずっと仕事していたんですか?」
「見ての通りだ。エレナさんの刺青を彫った
「ここにある資料、独りで全部ですか?」
「他に誰ができるっていうんだ?」
冊子は記憶を文字に起こした上に、その記憶自体も書き込んである。
ざっと見ただけでも、すでに1000近い人間の記憶を見続けているようだった。体が壊れてしまわないか、心が痛んでしまわないか不安に駆られた。
「ミズキこそ、こんな夜にどうした? 忘れ物か?」
「エレナさんのことを考えていたら、いてもたってもいられなくなって……」
目の前に並ぶ資料に、そっと指先で触れながら、
「ここには、この街の人達の記憶も保存されていますから。もしかしたら、その中にエレナさんを知っている人の記憶があるかもしれないって思ったんです」
「それで来たのか」
「少しでも早く、記憶が戻ってほしいですから」
自分が思い出せないことも辛いけれど、それ以上に、大切だったはずの人の悲しそうな顔を見る方がよほど辛いはずだ。
「周防さんは……エレナさんの記憶は、消えたままだと思いますか?」
「戻るさ。簡単に消えてしまうわけがない」
周防さんは語気を強めた。そう言った時の表情は、今までに見たことがないくらい強く、どこか怒りすら感じられた。
書架にかけた手が、ほんの一瞬強く握られる。それからすぐ、我に返ったように気まずい顔をして、視線を逸らした。
「ミズキはどう思う? 俺達が持つ
「消えませんよ、絶対に」
何の根拠もなかったけれど、そう断言した。あまりにも自信たっぷりに答えたものだから、周防さんはおかしそうにフッと吹き出した。
「はっきり言うんだな。どうしてそう思う?」
「消す、消せないで
誰かが故意的に消したとしても、消えることなく、どこかに色濃く
「例えば、紙に書いた文字みたいに、綺麗に消せたとして。表面は消えるけれど痕は紙に残っていますよね? だから、エレナさんの記憶も、きっかけさえあれば戻ると思います」
もし、私の記憶が突然消えてしまって、周防さんのことを忘れてしまったら――そう考えると苦しくてたまらない。忘れてしまっても、また思い出せる。そうであって欲しい。
「よかった。俺も同じ意見だから安心した」
そう言って、周防さんは真っ直ぐに私を見た。
不意にやわらかく、無邪気に笑うものだから、思わずドキッとした。
「エレナさんの記憶は消されたのかもしれない。でも、それは思い出せないだけで、記憶の源は誰にも触れられない奥底に眠っているだけだ。だから、きっと思い出すはずなんだ」
「触れられない奥底……。私達の力でも読むことができないくらい、エレナさんの記憶は深い場所にあるってことですね」
「おそらくな」
周防さんは再び書架の資料に手を伸ばし、1冊、また1冊と、流れるように記憶を読み取っていく。
「一日も早く、エレナさんの記憶を取り戻してやりたい。きっと、大切な人がたくさんいたはずなんだ。その全てを消されて、思い出すことができないなんて悲し過ぎるだろ?」
「私も手伝います」
隣に立って、つけていた手袋を外した。
上着のポケットにそれを押し込んで、袖を
「いいのか? たくさんの記憶に触れるんだぞ? おまけに残業代も出ない」
「き、気合でどうにかします」
「じゃあ、手伝ってもらおうか。俺はここの書架を見るから、ミズキはそっちの書架を頼む」
思い出したように、持っていた菓子の1つを「お裾分けだ」と言って渡してきた。
何 とも鮮やかな渦巻き模様の棒つき飴。これを舐めながら仕事をするなんて、なんだか
「ううぅっ……クロスケぇ……」
仕事だと割り切り、気合を入れてみたものの、作業を始めて数分、すでに涙ぐんでしまった。
思い出保存の謳い文句で集められただけあって、そこにある記憶は笑いあり、涙あり、怒りあり。ハンカチなくしては見られない。
黒猫のクロスケが、どれだけ飼い主に愛され、可愛がられて生涯を終えたのか。愛らしく
資料を手に取る度に泣いてしまって、ハンカチはビショ濡れ。おまけに古書館は地下で静まり返っているため、私のすすり泣く声は見事に反響した。
「ミズキ。そんなに泣いたら、涙が枯れてシワシワになるぞ」
「ご、ごめんなさいっ。でも、泣けちゃって……うぅっ」
すでに涙が出過ぎて鼻は詰まるし、息苦しい。泣き止めば済む話なのだけれど、人の生きてきた証ともいうべき記憶というのは、想像以上に温かくて重たくて、ずしんと腹の底に響く。
エレナさんの記憶を取り戻すためには、泣きながらでも見続けなければならない。いや、なんとしてでも見つけてみせる。
休む間もなく、私は次の資料に手を伸ばした。触れた瞬間、今までにないほどに強烈で、異質な記憶が流れ込んできた。
鮮血の赤
咲き乱れる、花……?
嫌悪感すら湧き上がるような生々しい記憶に思わず飛び退いた。資料を手にしたまま固まっている私をよそに、周防さんは作業を続けている。
「今度は何を見たんだ? 猫か? それとも孫の成長記録?」
「いや、なんといいますか。異様なほど興奮状態の花?」
「なんだ、それ」
「いえ、私にもよくわからないです」
あの感覚は一体何だったのだろう。恐る恐る、資料の表紙を開いた。
そこに文字はなかった。花の写真が閉じられた作品集だろうか。よく見れば、それは人の肌に刻まれた刺青の写真だった。
―― エレナ
数ある写真の一つに触れた時、その声が聞こえた。
手鏡を持った男性に呼ばれ、振り返ったその女の子は赤毛に碧眼。カンナルサ教会で見た、幼い頃のエレナさんそのものだった。その透き通るように白い左肩の肌には、鮮やかな青い薔薇の刺青が、くっきりと刻まれていた――
「す、周防さんっ、ありました!」
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