第7話 「記憶ノ行方」
軍本部から蒸気馬車で1時間。
隣街〈ウスキヒ〉のカンナルサ教会へとやってきた。
年季の入った古い木製の扉を押し開け、礼拝堂へと足を踏み入れた。
ステンドグラスを通って色づいた暖かな
夕暮れの時刻になると、教会にあるそのパイプオルガンが美しい曲を奏でるのだと、蒸気馬車の燃料補充で町工場に立ち寄った際、整備士のお
「軍の方、ですね?」
そこへ声が
「先ほど連絡した、軍本部特務局の来栖です。こっちが古書館の周防と七瀬です」
「院長を務めております、ナタリアと申します。お待ちしておりました」
そう言って、シスターは同行していたエレナさんを真っ直ぐに見つめる。
その瞳は
「本当に、エレナは何も憶えていないのですね」
ぽつりと、シスターはかき消されそうな声で呟いた。
育った孤児院へ帰ってきたというのに、「ただいま」と声をかけてもおかしくないこの状況で、エレナさんは目の前にいるシスターをぼんやりと見ているだけ。その目はどこか
見ていられなくなったのか、シスターはギュッと唇を
「誰がエレナにこんな
「それを突き止めるためにも、少しでも多くエレナさんの記憶を集める必要があります。ご協力をお願いします」
「もちろんです。私にできることでしたら、お手伝いさせてください」
「ご協力、感謝します。俺は子供達が暮らしている母屋を調べる。ミズキはこの礼拝堂と、その周辺を……って、あぁ、そうか。ミズキには記憶復元の方法、教えてなかったな」
「それなら大丈夫です。記憶を書き起こす時と同じように、ここにある物に染み込んだ記憶を読み取って集めて、関係のある記憶だけをエレナさんに書き移せばいいんですよね?」
何か間違ったことを言ったのだろうか。最初はそう思った。それは間違っていたのではなくて〝知っていた〟からだった。
「お前、なぜその方法――」
「な、何となく、そんな方法じゃないかなって思ったんですけど。当ってましたか?」
それ以上何も聞かれないように、私はとっさに
「周防さん、早く始めましょう。エレナさんの記憶、たくさん集めてあげなきゃ。礼拝堂とこの辺りは私に任せてください」
「……あぁ、頼むよ。シスター、母屋へ案内していただけますか?」
「わかりました。どうぞ、こちらです」
シスターに連れられ、周防さんとエレナさんは行ってしまう。その際、周防さんは彼女を気遣って「大丈夫ですよ」「心配はいりません」と、優しく声をかけていた。困った表情を浮かべつつも、エレナさんは一生懸命に彼の話を聞いて、
何気ないやり取りを見て、ふと、何かが違うと思った。周防さんはいつものように笑っているけれど、やはり違う。私や来栖さんにでさえ見せないような、優しくて穏やかな表情だった。
それはきっと、エレナさんの不安を和らげようとしてのこと。そうだとしても、表情が優し過ぎるような気がした。仕事として接しているようには思えないほど、その時の周防さんは優しかった。
「気になる?」
気配を消して横に立った来栖さんが唐突に訊ねてきた。その問いに一瞬戸惑ったけれど、気取られないよう平静を装った。
「気になるって、何がですか?」
「周防とエレナさんだよ」
「何か気になること、ありましたか?」
返した答えに、来栖さんはフフッとおかしそうに吹き出した。明らかにからかわれているのがわかった。
「穴が開きそうなくらい2人を見つめていたのに、何もないっていうのかい? 好きなんだろ、周防のこと」
その言葉に
何事もなかったみたいに、「それが何か?」って、自信と余裕を見せつけられたらどんなによかっただろう。ただ、私はそこまで大人じゃない。隠していたはずの想いを見透かされただけで、言い返す言葉すら見つけられなくなっているのだから。
「……来栖さんって、本当は
「うん、そうかもしれないね」
本気なのか、冗談なのか。どちらとも取れない返事をされた。
「エレナさん、綺麗な人だからね」
「……そう、ですね」
「周防って、ああ見えて意外と
そこでわざとらしく言葉を区切り、ちらりと私を見た。目が合えば、意味深にニコッと
「私を不安にさせて、どうしようっていうんですか?」
「周防から手を引いてもらって、僕に乗り換えてもらう。なんて
それこそ本気なのか、冗談なのか。心が読み取れない言葉を残して、来栖さんは礼拝堂から出ていった。周防さん以上に、食えない人かもしれない。
「……さぁ、仕事しなきゃ。エレナさんの記憶、しっかり拾い集めないとね」
気合いを入れ直して、私はつけていた手袋をそっと外した。
礼拝堂に並ぶ椅子や柱、壁。そこにある物に触れていく。その度に、息をするのも辛いほどの、たくさんの記憶が体の中に流れ込んだ。
ここは孤児院である前に、教会の礼拝堂。たくさんの人達が訪れ、祈りを
子供達が
「はぁ……子供達の記憶だけ見えるならいいけど、関係ない人達の記憶まで見えちゃうのが辛いのよね」
私の力は少しばかり未熟らしく、そこに刻まれた記憶は全て見えてしまう。選び取ることができないせいか、人の感情が体に蓄積して、
泣きごとを言いたい気持ちをグッと
暖かな陽が射し込む礼拝堂で、シスターがオルガンを弾いている光景が見えた。
おそらく若い頃のシスター・ナタリア。その隣で弾き方を教わっている子がいる。赤毛で、碧眼の女の子。幼い頃のエレナさんに間違いない。
その姿を頼りに、私は記憶を集めていった。
花壇からは、同じ孤児院の子供と宝物を埋めた記憶。教会の
たくさんの記憶に触れ、全力疾走したような疲労感に襲われて、一通り作業が終わった頃には、礼拝堂の椅子でぐったり座り込んでしまった。
立つことさえ億劫になって、椅子の背に凭れ、半ば放心状態で天井を見上げていると――
「
周防さんが顔を覗き込んで、お決まりの棒つき
こんなにも近くで顔を見られるとは思っていなかった。飛び上がるほど嬉しくて、びっくりしたけれど、起き上がる力すら残っていなかった。だからせめて目だけを見開いて、精一杯の反応だけはしておいた。
「食うか?」
「いえ、大丈夫です。ところで、エレナさんは?」
「今、来栖が相手をしてる」
周防さんが見ている視線の先を追うと、祭壇前で来栖さんとエレナさんが話をしているのが見えた。
「ちゃんと集められたか?」
「私が拾える範囲内ですが、何とか。質は保障できませんけど」
「それで十分、問題ないさ」
周防さんは隣に座り、手袋を外した左手を差し出した。
私の手なんて簡単に包み込んでしまうくらい大きいのに、なぜか指はすらりと長くて綺麗だった。触れてみたいと思う一方で、じわりと、嫌な予感が背中に
「俺の手に触れるだけでいい。ミズキが読み取った記憶を、俺が回収する」
手を
周防さんは首傾げるけれど、すぐに、私が
「もしかして、エレナさんの記憶以外に、自分の記憶も読まれるんじゃないかって思ってる?」
「それは、もちろん。この間は手袋だけでしたけど、今回は直接なので。色々とお見苦しい点を見られてしまう可能性が……」
私の過去なんて大して興味はないだろうし、見られても問題はないのだけれど、周防さんに対する想いまで知られてしまうのは厄介だった。
図書館でいつも見ていたことも、必死になって声をかけようとしていたことも。あの日々の全てが見られ、知られてしまう。
距離すら縮まっていない状況で想いを知られて、「お前に興味はない」なんて言われてしまったら、それこそこの先、一緒に仕事をしていくのが辛くなる。これだけは何としてでも避けなければならない。
「そう
心配する私を
「俺は見たいと思うものを見て、見たくないと思うものを見ないように力を制御できる。ミズキに触れても、エレナさんの記憶だけ読み取ることができるから、安心していい」
「本当ですか?」
「信じられないか?」
「正直、信じられません。でも、渋っていたら仕事になりませんから」
半ば
ゾクリと、悪寒のようなものが背筋を駆け上がる感覚と、体の力が手の平に吸い寄せられ、抜けていく奇妙な感覚を覚えた。脱力感に襲われ、耐え切れなくなって、
時間にして、ほんの数秒。それなのに、ずっと長い間
「なかなか集めたな。あぁ、確かに余計な記憶も多い」
「周防さんと違って、力が不安定ですので。お役に立てたか、心配ですけど」
「これだけあれば十分だ。あとは、この記憶をエレナさんに渡すだけだな」
立ち上がり、祭壇前にいる来栖さんを呼んで手招きをする。「今行くよ」と返事をして、エレナさんを連れ、私と周防さんのもとへ戻ってきた。
「もう準備できたのかい?」
「一応な。エレナさん、俺の手を
差し出された手に、エレナさんは戸惑いながら周防さんを見上げる。大丈夫だと頷くのを見て、恐る恐るその手を取った。
その表情は一瞬にして変わった。
不安で満たされ、怯えていた表情が解けるように和らいでいく。目が覚めたかのように、虚ろだった瞳はしっかりと強さを宿す。光が戻った瞬間を見たような気がした。
「取りあえず、ここでかき集めた記憶です。エレナさん、どうですか?」
訊ねられ、エレナさんは驚いたような表情で私達を見た。頷くことも、その問いに答えることもなく、くるりと
向かったのは祭壇脇のオルガンだった。
軍本部に保護されてから初めて、エレナさんが笑った。記憶は、一人の人間を作り上げるのに必要不可欠なもの。そう感じさせた瞬間だった。
「なんだか、いい雰囲気ですね」
「うん、嬉しそうだね」
「笑ってくれて、本当によかった」
周防さんは、自らのことのように喜んでいた。
古書館での
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