第6話 「青キ記憶ノ花弁」
その日の早朝。
近況を
辺りに漂うのは、香ばしい
15歳前後の可愛らしい女の子が、着物に黒革のコルセット、ヒールの高いロングブーツ、
「お一つ、いかがですか?」
店の前で立ち止まっている私に気づくと、彼女は紙を敷いた小さな
中には、大小様々に砕けた揚げ
まだ揚げたてらしく、表面がパチパチ、チチチッと油が弾けていた。
「いいんですか?」
「試食用ですので。これも揚げたてなんですよ」
「じゃあ、一つだけ――んっ、美味しい!」
口に入れてすぐ、その美味しさに驚いた。
生地の甘さや香ばしさもそうだけど、塩味が絶妙。番茶か、それとも煎茶でも煎れて、のんびり縁側で食べてみたい。そんな味だった。
周防さんは甘い物が好きみたいだけど、こういうお菓子も好きなのだろうか――
自分のことながら、なかなか惚れ込んでしまったみたいだと少し呆れた。自分が食べたいと思うよりも先に、周防さんが好きかどうか、そっちを考えてしまっているのだから。
「冷めても美味しいですけど、私は揚げたてが一番美味しいと思うんです」
「この温かいところがいいですよね」
「もし、お気に召しましたら是非。独りでお召し上がりになるのもいいですが、どなたか、ご一緒に召し上がる方いらっしゃれば、もっと美味しくなりますよ」
その一言が、私の財布の紐を緩ませたのは間違いなかった。
脳裏には周防さんの喜ぶ顔がしっかりと浮かんでしまい、それが見たくなってしまった。買わずに帰るなんてできるわけがなかった。
「それじゃ、一袋!」
「ありがとうございます。お隣の川野園さんには、ここの煎餅によく合うお茶が揃っていますので、よろしければ」
女の子は袋に
目をやると、茶屋の店先で掃き掃除をしている両義足の少年が、満面の笑みを浮かべて私に
なかなかの商売上手。店が隣り合わせなのは偶然だろうけれど、結託していたのではないか、そう思わせるには十分な流れだった。
結局、揚げ煎餅と煎茶を買って、軍本部へ戻ることになった。
地下への階段を下り古書館の扉を開けると、部屋にはすでに灯りがついていた。私よりも先に来ていた周防さんが、机に向かって押収品の書き起こしをしていた。
机に両腕を乗せ、少し猫背気味に背中を丸めて、手元にある用紙にペンを走らせている。その姿が、図書館で本を読んでいた時の姿と重なって、つい見入ってしまった。
「ん? あぁ、ミズキか。おはよう」
「お、おはようございます」
私が隣に立ったのとほぼ同時に、周防さんは作業の手を止めた。グッと背伸びをして椅子にもたれ、火を点けたまま灰皿に置いてあった煙草を
「もう朝か」
「朝かって……まさか帰ってないんですか!?」
「昨日は徹夜。久々に泊り込みだ」
周防さんの机に並ぶように、赤いベロア生地のソファが
背もたれには雑に
「周防さん、体に悪いですよ」
「まぁ、慣れてるから平気だ」
「慣れが一番怖いんですからね」
「今日はちゃんと帰って寝るから大丈夫だ。それより、なんかいい匂いしないか?」
顔の前に
「おっ。これは〈
「ここへ来る前に買ってきたんです。まだ揚げたてなんですよ。美味しいお茶も買ってきたので、もし朝食がまだでしたら、その……一緒に食べませんか?」
「そんな美味しい誘い、俺が断るわけがないだろう」
私の手から袋を取り上げ、椅子の背にもたれていた姿勢を素早く正す。袋に鼻を近づけて、また匂いを嗅ぐ。その幸せそうな表情といったらない。買ってきて正解だった。
「あぁ、美味そう」
「今、お茶煎れますね」
「そうだ。忘れる前に、俺も渡しておくよ」
そう言って、私の机の上に10枚一組になったハンカチを置いた。
「何ですか、これ」
「俺と来栖からの転職祝いだ」
「まさか、軽い嫌がらせですか?」
「すぐ泣くから、あれば便利だろうと思って。そのハンカチ、職人街の織物職人の店で買ったものだから、品はいいんだけどな」
疑いながらも手に取った。確かに綺麗だった。紺色を基調としながらも、赤や金の糸で金魚や蝶などの模様が、さり気なく描かれている。その
理由は少し気に入らないけれど、周防さんが自ら職人街へ行って選んでくれたことに代わりはない。その姿を想像するだけで鼓動が上がった。
「嬉しくないか?」
私を見る周防さんの表情がどことなく切なそう。
そんな顔をさせるつもりはなくて、すぐさま首を横に振った。
「い、いえ! 嬉しいですっ。ありがとうございます」
「どういたしまして。明日、
と、周防さんがニッコリと笑った。
「記憶閲覧ですか?」
「ここには事件の資料以外に、この街に住む人達の記憶も資料として保存されている。ミズキは、駅の待合室や街の中に広告が貼ってあるのを見たことないか?〝あなたの思い出を永遠に保存してみませんか?〟って
「広告……あっ、見たことあります」
小さな女の子が大事そうに分厚い本を抱えて、訴えかけるような笑顔を浮かべている広告。軍本部が窓口になっているから、何の事業なのだろうと疑問に思ったことがあった。
「確か、
「そう、それだ。表向きはそういうことになっているんだが、本当の目的は情報収集だ」
周防さんは机の上に積んである書き起こしたばかりの冊子を手に取り、パラパラと
「人が生きている限り、その目で見る膨大な景色や人物の情報は、常に記憶として蓄積されていく。それを回収できれば、意外なところから情報が得られる可能性があるんだ」
「その誘い文句が〈思い出の保存〉ってことなんですね」
「〝あなたの記憶を情報として利用したいので回収させて下さい〟なんて理由じゃ、怪しまれて協力なんてしてくれないだろう? 思い出保存っていうお手軽さが人を動かすんだ」
「なんだかあくどいですね」
周防さんは「確かに」と、低く笑った。
机の上にある冊子を
「一応、思い出保存した人は、いつでも閲覧できる特権があるからな。毎日ってわけじゃないが、時々閲覧の予約が入るんだ」
「予約って、そういうことだったんですね」
「図書館で言うところの参考調査業務だな」
もし何かを忘れしてしまっても、ここには自分の記憶が資料として保存されている。いつでもどんなことでも、
「俺は押収品の方を片づける。記憶閲覧の業務はミズキに任せるよ」
「えっ、私ですか?」
「事件の押収品見るより楽だと思うぞ。何が知りたいのか聞いて、保存した記憶を冊子から読み取るだけだから」
「いえ、でも私、初めてで――」
言いかけて、その言葉は
脳裏にソウタの顔がふと浮かんで、「姉さん」と呼ぶ声が耳の奥で響いた気がした。
私には守らなければならない人がいる。そう思ったら、こんなところで駄々をこねている場合ではないと、自然と気持ちが引き
「わかりました。私、やってみます」
「おっ。急にやる気出してきたな」
「私にも一応、守らなければならないものがあるんです。嫌だなんて言っていられません」
腹を
「おはよう。二人とも
会話に重なるように扉がガチャリと開いて、来栖さんがやってきた。
薄暗いこの環境に慣れてしまったせいなのか、彼の金茶色の髪の毛も、弾むような明るい声も、何もかもが鮮やかに感じた。
「来須。お前は本当に、朝から無駄に元気だな」
「あぁ、そんなこと言っていいのかな? 昨日保護された例の彼女。色々とわかったことがあったから、資料持ってきたのにさ」
来栖さんは持参していた資料を机の上に置いた。
そこに書かれていたのは、あの〈名無しの彼女〉についてだった。
「早いな。もう特定できたのか?」
周防さんはすかさず手に取り、私にも見えるように資料を開いた。
名前は〈
両親は不明。生まれて間もなく、移民街から隣町〈ウスキヒ〉のカンナルサ教会の孤児院に引き取られた。成人して教会を出た後は、ウスキヒ博物館に勤務していると記されていた。
「とりあえず、この二ヶ所から記憶の収集ができそうだな」
「もう一ヶ所あるよ。でも、特定するには情報が足りないけどね」
来栖さんは懐から1枚の写真を出した。
女性の肩を背後から撮ったものだった。二の腕のあたりまで服が下げされていて、その肌には焼いたような、目を背けたくなるような爛れた傷跡があった。
「来須さん、これは?」
「エレナさんの写真だよ。彼女、左肩に傷があってね。もともとは、ここに
私は写真を受け取り、ぐっと顔を近づけた。
一見すると傷跡だけのようだけれど、目を凝らして見ると、その傷跡の端にほんの
「これを入れた彫師が見つかれば、そこでも記憶の収集ができるかもしれない。まぁ、こっちの方は部下に探させているから、連絡待ちだね」
そう言って資料を取り上げたかと思えば、来栖さんは椅子にかけてあった上着を取り、机の上から適当に菓子を掴んで周防さんに突き出した。
「よし、それじゃ行こうか」
「行くって、どこへですか?」
「まさかお前、一緒に来るつもりじゃないだろうな?」
「人手不足だろ? 仕方ないから、僕もついて行くよ。ほら、さっさと準備して」
どからどう見ても「仕方ない」という顔ではなかった。むしろ張り切っているくらい。
追い帰す隙など与えるものかと言わんばかりに、来栖さんは「馬車を用意してくる」と言って、足早に部屋を出て行った。
「いいんですか? 来栖さんって、特務局の大佐なんですよね?」
「来栖は駄目って言ってもついてくるからな。これであついに
冗談なのか、それとも本気なのか。
周防さんはどちらとも取れる不敵な笑みを浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます