第5話 「束ノ間」
あの〝名無しの彼女〟は一体どこで記憶を消されてしまったのか。
身元がわかるまでは仕事が進まないため、その日は定時に帰ることになった。
周防さんはまだ作業があるからと、古書館に残っている。一応、私も新人だし、初日からさっさと帰るのも悪い気がして手伝うと声をかけたものの、あっさり断られた。「メソメソ泣かれると気が散るから帰れ」と、冗談交じりに
作業に集中している間は気づかなかったけれど、何気ない瞬間、ふと意識すると疲れていることに気づかされる。
「今日の夕飯は何を食べようかな……」
さすがに自炊する気力もない。寄宿舎には食堂があるというから、そこで済ませようか。そんなことを考えながら歩いていると――
「ミズキ!」
聞き覚えのある声に、私は素早く振り返った。
玄関ホールの受付に見覚えのある人物が2人、こっちに手を振っているのが見えた。アカネと弟のソウタだった。
受付のおばさんに何やら話して頭を下げ、すぐさま私のもとへ
「アカネ! それにソウタまで! 元気だった? ちゃんとご飯食べてる?」
「もちろん、ちゃんと食べてるから大丈夫だよ」
照れくさそうにしているソウタの笑顔を見て、なんだかホッとした。
最後にソウタと会ったのは半年前。士官学校の寄宿舎にいることもあって、なかなか会いに行くことができずにいた。相変わらず色白で、女の子と間違うような顔立ちだけれど、表情が少しだけ男らしくなったように見えた。
「2人とも、どうしてここに?」
「ご飯、一緒に食べようと思って誘いに来たのよ」
「本当に? 嬉しい。ソウタは、こんな時間に出てきて大丈夫なの?」
「うん、平気。ちゃんと外出届出してきたから。姉さん、もうご飯食べちゃった?」
私は思いっきり、首を横に振った。
「今、仕事終わったばかりだから。何食べようかなって、考えていたところだったの」
「よかった。先に食べちゃってたら、
「職人街のマツ屋なんてどう? あそこの定食、美味しいし」
そう話す私の顔を、ソウタは心配そうな表情でまじまじと見ていた。
何かついているのか。気になって、さり気なく頬や前髪に触れた。
「姉さん、目が真っ赤だよ。もしかして泣いた?」
「……んー、少しだけ」
「えっ!?
聞かれてまずいことはないのだけれど、ソウタなりに気を使ってくれたらしい。口元に手を添えて、行き交う軍人や職員に聞こえないよう、声を
「今すぐにでも、辞めたいくらいだよ」
「まぁ、ミズキは昔から
アカネはからかうような口調で、さらりと、早口気味に言った。
「泣き虫は余計だよ」
「本当のことでしょ?」
アカネはくつくつと笑った。
図星だから言い返せなくて、睨みつけるのが精一杯。それでもアカネは
「お腹も
相変わらず強引なアカネに手を引かれて、私は本部を後にした。
軍本部から歩いて10分ほどのところに〈職人街〉と呼ばれる一画がある。
その名の通り、そこは職人達の店や工房が軒を連ねている。金細工職人や人形師の工房、絡繰り時計屋に菓子屋など、様々な店が並んでいる。その中の一つ、マツ屋という大衆食堂へとやってきた。
席は通りが見える窓際。ソウタと一緒に帝都へ移り住んでから、ここにはよく通っていた。とろろ
姉弟そろってあっさりしたものを注文したものだから「もっと濃い味のもの食べなさいよ」と、アカネに笑われた。何と言われようと、美味しい物は美味しいからそれでいい。
アカネは小柄で小動物みたいに可愛い見た目に反して、味が濃くて油っぽいものが大好物。今日も、大きな海老が乗った天ぷらうどんを注文していた。
「それで? 古書館ってどんな感じなの?」
サクッと音を立てて、アカネは天ぷらを
私はなめこを落とさないよう、そっと一つ口に運んで、格子窓の向こう側に見える通りをぼんやりと
「古書館って地下にあるの。窓もないから、朝からランプが灯っていてね。ずっといると、時間の感覚がなくなるように思えるの」
「なんだか不健康そうだね。姉さん、1日に一度は陽に当らないと。一緒に仕事している人達はどう?
「他の人って言っても、私以外に1人しかいないから」
口に運ぼうとしていた
「〝一人〟ってまさか、あの着物の軍人さんと2人きりで仕事してるの?」
「……うん」
「アカネさん、何のことです?」
「ミズキね、好きな人から古書館に引き抜かれたのよ」
「えっ!?」
驚いたソウタの声は、思いのほか店内によく
「姉さん、それ本当なの?」
「一応、そういうことになるのかな……」
「また、悪い人じゃないよね?」
誰に吹き込まれたのか、アカネと同じことを言われてしまった。
ひょっとしなくても、間違いなくアカネがそう吹き込んだに違いない。きっと、周防さんのことも「着物の変人」とか「
「今回は違うと思いたいんだけど。もしかしたら、そうかもしれない……」
「その人は、どんな人なの?」
「甘い物が好きみたいで、机の上にお菓子が山のように積んであるの。思っていたより淡々としていて、少し掴みどころがないというか」
「でも、憧れの人でしょ?」
向いに座ったアカネが、期待とからかいの混じる
これだけは否定できない。仕事と恋は別物。どんなに仕事が大変だろうと、周防さんを想っている事実は、今のところ変えられそうにない。
「嬉しいでしょ」
「仕事のことで頭いっぱいだったから、考えている余裕なかったよ」
根掘り葉掘り聞かれるのが面倒で、仕事が大変なことを理由に
本音を言うと、周防さんと過ごせるのは嬉しかった。もちろん仕事のことを除けばの話だ。思い出してニヤけそうになるのを密かに
「その人とは上手くやって行けそう?」
「まだわからない。それよりも、問題は
自然と、視線は箸を持つ手に向いていた。
今日見た押収品の記憶が鮮明に焼きついている。自分の記憶ではないのに、自分のことのように思えて、息が詰まりそうになって、それこそ思い出しただけで涙ぐんでしまう。
「だ、駄目。今は飯食べているんだからっ。ご飯、楽しまなきゃ」
鼻の奥がツンとする感覚を堪えようと、
「姉さんは相手の立場になって考えて、相手以上に自分が困ったり悩んだりしちゃうところがあるから。でも、僕はそういう優しい姉さんが好きなんだけどね」
「ソウタ……」
「あまり頑張り過ぎないようにね。もし何かあったら、僕、いつでも相談にのるから」
要は考え方で変わるということ。
嫌だと言っている内は本当に嫌だけれど、私の考え方一つで楽しくもなる。
多くは語らないけれど、ソウタは子供の頃から、そういうことをさり気なく気づかせてくれるところがある。きっと、私なんかよりもずっと大人だ。
「それ、食べていいよ。姉さん、好きだよね」
「うん、好きだけど……えっ? もしかして、私のために注文してくれたの?」
ソウタは照れくさそうに笑って、何も言わずにうどんをすすった。記憶を見たわけではないのに、また鼻の奥がツンとしてきた。
(ありがとう、ソウタ……)
照れくさくて、口に出した瞬間に泣き出してしまいそうな気がした。心の中でおまじないみたいに一度だけ言って、茶わん蒸しを一口食べた。
「それじゃお返しに、このなめこを――」
「いらないっ。僕がヌルッとしたものが苦手だって、姉さん知ってるだろっ」
あからさまに嫌な顔をされてしまった。相当嫌だったらしく、入れさせないように器を両手で
「美味しいのに。ソウタは食わず嫌いなのよ。ほら、一個でいいから食べてみようよ」
「い、いらないって! せっかく美味しいうどん食べたんだから、その
「うん、まだ入りそうかな」
「ソウタ、まだ食べるの?」
ニッと
「カニ雑炊の大盛り、それから抹茶と白玉ぜんざいをお願いします」
「相変わらず痩せの大食いだね、ソウタ君」
「昔からそうなのよね。あれだけ食べるのに、それがどこに消えてるのか、今も謎なのよ」
ソウタの食欲はそれにとどまらず、それから3軒ほどはしごをしたのは言うまでもない。
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