第4話 「大佐ハ高貴ナ狐」
そこはまるで地下の図書館。
数百の人間が一度に入れるほどの広い部屋に、古い資料らしき冊子が詰め込まれた無数の書架が、等間隔にびっしりと並んでいる。おそらく、数十万冊は保管されているだろうか。あまりの広さに、最奥にある壁がどこにあるのか、はっきりと見えないほどだった。
「今日から、ここが仕事場だ。ミズキ、よろしくな」
「よろしくお願いします。あの……他の
「いるわけないだろ」
「い、いない?」
「ここは俺一人で管理してるんだ。だから言っただろう。万年
これだけの資料をたった一人で――思わず、館内を見渡してしまった。
何度も私の元に通い詰めて、両親まで丸め込んで必死になっていたのも、少しは納得できた。数十万冊の資料を管理するだけではなく、おそらくは日常業務もあるはず。人手が欲しくなるも無理もない。
「早速だが、仕事してもらおうか。とりあえず、そっちの席に座ってくれ」
入口から入ってすぐ左に、壁に向かって並ぶ2つの机が置いてある。
周防さんが使っている机は、おそらく向かって左側。その右隣に、何も置かれていない綺麗な机がある。言われるがまま、私は席に着いた。
片づいているところを見ると、私のために用意されたばかりなのだろう。それに比べて周防さんの机は、お世辞にも綺麗とは言えない状態だった。
ナイフや拳銃、ぬいぐるみ、血のついた
この古書館の仕事は、事件を取り扱う特務局が押収した品を
それよりも気になるのは、その
「す、凄いですね。その、お菓子」
「あぁ、これか。俺の非常食なんだ。
そう話しながら菓子の山をかき分け、押収品の入った箱と、何も書かれていない真っ白な紙の束を私の前にドンッと置いた。
「
「はい、それなら」
読み取ることに特別な呪文や言葉は必要ない。ただ触れるだけで頭の中に流れ込んでくる。だから、私 自身が望んでいなくても見えてしまうことがあるから、それで何度悩んだことかわからない。
これも不思議なことだけど、一方の手は記憶を読み取る力、もう一方の手は、読み取った記憶を別の物に移す力。両手で触れることで、記憶を消すことができる力が備わっている。ただ、この消滅させる力を使う時のみ、代々受け継いできた
人によって力の使い方は異なっていて、私は右手で記憶を読み、左手で移す。周防さんは左手に手袋をしていたから、おそらく左手で記憶を読み取っているようだ。
「読み取ったら、渡した紙に見えたことを一つ残らず文章に書き起こす。持ち主が誰で、これを
「書き終わったら冊子になって、ここの書架に資料として並ぶんですね」
「そう。
「わかりました」
返事をしつつ、手元と
ここに並ぶ全ての資料が誰かの記憶なのだと思うと、少し不思議で、背筋が寒くなる。
記憶は人の生きた証であって記録。複製されたその記憶を命なき物質に移すと同時に、魂を吹き込まれたようなもの。耳を澄ませば、どこか遠くの方からドクンッドクンッと、
「1日に何度か、【特務局】から押収品が送られてくる。ここの仕事は、それらから記憶を読み取って、ひたすら資料に起こす」
「ひたすら?」
「そう、ひたすら」
と、周防さんは置かれた箱をトトンッと指で叩いた。
単調な作業であることは間違いない。もちろん、それ自体に文句があるわけではない。あるとすれば、人の記憶に触れるという行為の方。正直言って、あまり気の進むことではなかった。
「とりあえず、やらないと覚えないからな。わからないことがあったら聞いてくれ」
周防さんも隣の席に座り、机の
「よ、よし!」
渋っていても状況は変わらない。転職してしまった以上、目の前にあるこの作業が今の私の仕事。そう割り切って、つけていた革手袋を外した。
箱に手を入れ、最初に触れた物を手に取った。麻布に包まれた、細長い何か。表面には薄らと血が
どうして血が――そう思うと同時に、指先にピリッと痛みが走って、頭の中に記憶の塊が一気に流れ込んでくる。ゴウゴウと
私に見せてくれた記憶が、そこに包まれた物の姿を教えてくれた。これは殺人に使われたナイフらしい。
どこかの館、だろうか……紅色のベロア生地の
〝お前は私のものだ!〟
叫びと共に老紳士は遊女を抱き寄せ、その体に刃を突き立てた。老紳士の怒りや焦り、それとは相反する狂気にも似た愛情が伝わってくる――
感情の波に
「ううぅぅぅぅぅ……」
「ん? ミズキ、どうした?」
「力が入りません……」
「まだ一つしか見てないだろう。何を見た?」
「……殺人紳士のナイフ」
絞り出すように答えた私に、周防さんは「当たりが悪かったな」と、ククッと喉を鳴らして笑った。
他の
ナイフに刻まれた記憶は、私の想像よりも強烈なものだった。刺されたわけでもないし、切られたわけでもないのに、読み取った記憶のせいか、お腹の辺りがズキズキ痛むような気がして、確かめるように何度も
「おい、泣くことないだろ」
「これは私の涙じゃありません……多分。泣くことのできない遊女の涙です」
「ミズキ、ものは考えようだ。これは他人の記憶であって、物に染み込んだ思念。自分のことじゃないんだから、サラッと流せ」
「そんなことは……わかっています」
他者の記憶が体に入り込んで、焼きついて、自分のことのように
目が覚めているのに、現実なのか夢なのか、一瞬判断できなくなる。
日常的に
「まさか、ずっとそんな調子なのか?」
「記憶の内容によりますけど、楽しいものでない限りは、こんな感じです」
「弱ったな。記憶を読み取る押収品は1つや2つじゃない。この調子で作業されたら、陽が暮れそうだな……」
少し呆れ気味に、周防さんはこちらをチラリと見た。まさかここまで使いものにならないとは、想定外だったらしい。周防さんが不安になっている以上に、私の方が不安でたまらない。
「もし許されるのであれば、今すぐにでもカムイ図書館に戻ります」
「それは俺が困る。どれだけ苦労して引き抜いたと思ってるんだ?」
「――失礼するよ」
扉が開くと同時に声がして、私と周防さんは目をやった。
入ってきたのは1人の軍人さん。すらりと背が高く、柔らかそうな金茶色の髪と、琥珀色に近い瞳がとても印象的な人だった。整った目鼻立ちに、綺麗な切れ長の目、色気のある唇。まるで高貴な狐みたいだ。
「あれ? 初めて見るね。どこの局の人かな?」
最初こそ周防さんを見ていたものの、隣にいた私を見つけるなり表情が変わる。まるで物珍しい動物でも見つけたみたいに興味津々。顔を覗き込んで、柔らかくほほ笑んだ。
「しかも怯えているなんて、また妙な状況だね。周防、
「人聞きの悪い事言うな。押収品の記憶を読み取って、持ち主の記憶にあてられただけだ」
「記憶を読み取れるってことは、
周防さんから、再び私の方に視線が戻ってきた。
真っ直ぐに、射抜くような見つめ方は周防さんとよく似ていて、気恥ずかしさと若干の居心地の悪さを覚えた。逃れるように視線を落とし、手袋をつけた。
「初めまして、特務局の
「こちらから名乗らずに、失礼しました。七瀬ミズキと申します」
「ミズキちゃんか、よろしくね」
差し出されたその右手は、無機質な金属の義手だった。
握手をし、握り返すその手に温もりはなく、固く冷たいまま。それなのに、ホッとするような優しさや温かさはしっかりと伝わってくる。とても不思議な感覚だった。
この手にはどんな過去があったのだろう。握手を交わしながら、そんなことをぼんやりと想像していた。
「それから、これ使って」
一体どこから出したのか。来栖さんは持っていたハンカチで素早く私の涙を拭いて、それを
「すみませんっ。明日、洗ってお返しします」
「特務局まで届けてくれるの? 嬉しいな。朝からミズキちゃんの顔、見られるってことだよね? もしよければ、そのまま特務局に異動してくるかい?」
そこへ、
「おい、何を勝手に口説いてるんだ。やらねぇぞ」
「いいだろう、別に。特務局は男ばかりだから息が詰まるんだよ。それとも、俺にむさ苦しい男共に囲まれて仕事しろっていうのかい?」
「あぁ、囲まれておけ。ついでに汗臭くなっちまえ」
席から立ったかと思えば、私の手からハンカチをひょいっと取り上げた。それを来栖さんのズボンのポケットに強引に押し込んだ。
「つーか、何しに来たんだ? 特務局の大佐が仕事サボッていいのか?」
「もちろん、仕事で来たんだよ。急で申し訳なんだけど、見てもらいたい人がいるんだ」
そう言って半身だけ振り返り、入口の方を見やった。
そこに1人の女性が立っていた。赤毛に碧眼、肌は透き通るように白く、思わず
「さっき、保護されてきたんだけどね。どうやら記憶がないみたいなんだ」
「まさか、記憶喪失ですか?」
来栖さんはこくりと頷いた。
「おそらくね。周防、やっぱり記憶が消えてしまっている以上、読み取ることはできないんだろうか?」
「あぁ、それなら――」
「できますよ」
そう答えた私を、2人はきょとんとした顔で見ていた。
「記憶喪失の場合、本人が一時的に思い出せないだけで、記憶自体が消えたわけじゃないんです。ちゃんと残っているから、読み取ることは可能ですよ」
「ミズキちゃん、詳しいんだね」
私はその言葉にハッとした。
「た、たまたまそういう話を聞いたことがあったんです。あっ、遮ってしまってすみません。周防さん、早く見てあげて下さい」
「あぁ、そうだな」
重たそうに腰を上げて席を立った。自らが座っていたその椅子をポンポンと手の平で叩き、「どうぞ」と、彼女に座るよう促した。
戸惑いながらも、彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろした。それを見計らい、周防さんは跪くように彼女の正面にしゃがんだ。
失礼します、と
「周防さん、どうかしたんですか?」
「……ミズキ、お前も見てみろ」
「わ、私もですか?」
「これも仕事」
渋々、彼女の白くて
記憶が流れ込んでくる時の息が詰まるような、
空っぽで、真っ白。この感覚は、あの時の私と――
「見えたか?」
周防さんの声に驚いて、私はビクリと体を跳ね上げた。不思議そうに見つめる2人に、私は首を横に振った。
「いいえ……何も」
「やはり同じか。来栖、彼女の記憶は故意的に消された可能性がある」
「そんなこと、できるわけが――」
言いかけた来栖さんが言葉を詰まらせた。それを横目に、周防さんは煙草に火を点けた。
「〈ハンス・ペルシュメーア号事件〉か」
「あれ以降、
帝都から北へ100キロほど行った先に、このヒノモト帝国で最も大きく、流通拠点となっている港町がある。
今から10年前――全長400メートルにもなる大型旅客蒸気船ハンス・ペルシュメーア号の完成記念式典に招待された貴族や企業家、200名ほどの宿泊客がたった1人の
これを境に学者達の魔女否定の勢いは増し、
「彼女の記憶喪失は、あの事件と同じ、魔女の
「身に着けている服や上着に残っているはずの記憶も、一切読み取れない。ここまで記憶を消せるのは、
ふうっと、溜息をつくように紫煙を吐き出す。それが嫌だったのか、来栖さんは煙たそうに顔を
「状況はわかった。とりあえず、記憶関連は僕の専門外だから、周防に任せるよ」
「彼女の〈記憶の復元〉が最優先だろうが、名前や出身がわからない状態だから、動こうにも動けないな」
「うん、そうなんだよね……」
彼女が何者なのか。記憶が消えてしまっている以上、その手がかりを拾うことはできない。手詰りの状況を前に、来栖さんは腕を組んで
あれでもない、これでもないと2人が話し合っている間、彼女は不安気にその様子を見つめていた。膝の上で握られた手は微かに震え、見上げる瞳は完全に
今、彼女は空っぽ。
自分が誰で、何者なのか。どこで生まれ、どこで生きていたのか。
その全てを失って、何もなくなった心に残っているのは不安だけ。
「大丈夫、記憶は必ず戻ります。私、必ず戻してみせますから。今はその言葉だけを信じてください」
彼女の前にしゃがみ、震える手をそっと握った。最初こそ驚いていたけれど、それで少しは安心してくれたのだろうか。小さく
「そうだね。今は、戻るってことを信じて動くしかないね。ただ、名前くらいわかれば少しは進展するんだけどね」
「彼女の髪と瞳は、赤毛に碧眼です。移民の人達の特徴とほとんど同じですよね」
「〈
帝都の外れには〈移民街〉と呼ばれる地区がある。
100年以上前、このヒノモト帝国に移り住んだ異国の民が、身を寄せ合って暮らしていた場所をそう呼んでいる。彼らの血を受け継ぐ二世や三世は、今も変わらずその区域で生活をしていた。
彼らの外見的特徴は赤毛に碧眼。そして小麦色の肌。彼女の肌は白色だけれど、髪と瞳の色は彼らと同じ。移民の血を引いているのは間違いない。
「どちらにしても、彼女のことがわからないままじゃ、俺達は何もできないからな。来栖、頼んだぞ」
「わかってる。なるべく早くつきとめるよ」
周防さんの
勤務初日から、何やら雲行きが怪しい。それを何となく肌で感じていた。
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