第2話 「古書館ノ夢喰イ人」
「どうしよう。今日、眠れないかもしれない」
困惑の言葉とは逆に、眠れなくなってもいい、なんて思えてしまう矛盾を口にしながら受付へと戻った。
配架を終えて先に戻っていたアカネは、植物辞典を胸元で抱えたまま、ぼんやりと作業机の椅子に座り込んだ私を見て目を丸くした。
「ミズキ!? 何、その
「……話かけられちゃった」
「誰に?」
「あの、着物の軍人さん」
「えっ!」
“図書館ではお静かに”――そう書かれた貼り紙など完全に無視をして、アカネは声を裏返して驚いた。
小走りに駆け寄ったかと思えば、私の前にしゃがみ込む。下から見上げながら、ギュッと手をにぎった。
「それで、それで? どうしてそういうことになったの?」
「書架が高くて、図書を戻すのに
「あら、案外いい人?」
「素敵だったなぁ。さり気なく、自然にサッとね。声も程よく低くて、落ち着いた感じで。それからね、甘い香りがかすかにしたの」
思い出しただけでも
「……ミズキ、知ってる? 男が香りをつけるのは、女がいる
「ねぇ。どうしてアカネは、気持ちが落ち込むようなこと言うかな……」
「ミズキが男で失敗しないように、忠告してるんじゃないの」
「アカネの場合、私が一喜一憂しているの、楽しんでいるだけでしょ?」
「まぁ、半々ってところね。ちなみに香りの話は
根拠はないけれど説得力があるような気がした。
身に
「私、頭冷やしてくる。この図書、配架してこなきゃ」
大きな
「すみません。教えて欲しい事があるんだけど」
耳に届いた声に、息が止まった。
図書を手にしたまま直立不動になっている私に気づいて、アカネは背中をドンッと押した。振り返れば「今話さなくてどうする! 行きなさい!」と、身振り手振り。私は小刻みに何度か頷き、彼の元へ向かった。
「は、はい。あの、何か、ご用でしょうか……?」
「知人に料理関係の本を借りてきてほしいと頼まれたんだが、どこにあるのかわからなくてね」
「料理本は家政学の書架ですので、書庫3階にあります。場所は、わかりますか?」
その問いに、彼は気恥ずかしそうに頭をかいた。
「いや、そっち方面の本は読まないからな」
「わかりました。ご案内しますね」
アカネは「頑張って」と、さらに身振り手振りで伝える。何を頑張ればいいというのか。戻ってきたら、きっと質問攻めに
彼を連れ、受付の正面に設けられた休憩室脇の階段から書庫三階へ向かった。植物学、動物学、医学の書架を通り過ぎて、ようやく工学の書架に入る。家政学はそのさらに奥。それを説明しながら足を進めていると――
「もういいよ」
急に腕をつかまれ、引き止められた。
指先や手の平の感触、温かさ。その全てが、服の上からでもしっかりと感じられる。不意につかまれた分、
「あの……もういいって?」
「料理本が借りたいっていうのは嘘。君を連れ出すための口実だったんだ。実は、聞きたいことは他にある」
「他、ですか?」
おずおずと、戸惑いながら彼を見上げた。
吸い込まれそうな黒い瞳に真っ直ぐに見つめられた。夜空よりも深い黒。その色に全てを
「その手袋」
と、彼は再び、私が手にしている革手袋を指差した。
「これが、何か?」
「それを取って、素手で俺の手を
これだけは、どうしても取ることができない。私には取りたくない理由がある。これを外してしまったら、見たくないものを、知らなくてもいいことを知ってしまう。
求められたことに応えられず、不安と焦りがスッと背筋を
「えっと……どうしてそんなこと、急に」
「俺も君と同じ部類の人間なんでね」
ニッと
同じ部類の人間、そして片手だけにつけられた手袋。ある特定の力を持った者は、
「もしかして……〈
彼は一度だけ頷いた。
かつて、この世界には〈魔女〉がいた。生まれながらに魔の力を宿した魔女達は、人知を超えた不可思議な力を操っていた。
傷を
未来を予見し、道を示す力を操る【
言葉と紋様を用いて呪術を操る【
他にも様々な力を内に宿した魔女達がいた。
古の時代、魔女達は裏で政治すら操っていたとも聞く。ただ、魔女達が存在していたのは、気の遠くなるような遥か昔のこと。今となってはその血も薄れ、力が覚醒することもなく、魔女の
人や物に触れ、そこに染み込んだ記憶を読み取る力を操る〈
触れるだけで、その人が歩んできた人生や想い、経験してきた過去の出来事が、
「いつ、私が
「本を戻すのを手伝った時だ。俺と同じように、片手にだけ手袋をしているから、ひょっとしたらと思ってね。少しだけ見させてもらった。その力のせいで、子供頃に嫌な思いをして、それから革手袋をするようになったんだな」
彼の言葉や声が、耳の奥で何度も
「お願いします……アカネは幼馴染だから知っているんですけど。図書館の人達は、私が
機械技術が発達した今、機械は生活になくてはならないもの。魔女達が活躍していた時代とはわけが違う。魔女の存在を否定できないとは言っても、疎ましく思っている学者や研究者は少なからずいる。それこそ、ホロン博士は完全なる魔女否定派の一人。私が魔女の
「このこと、黙っていてもらえますか?」
「最初から言うつもりなんてないさ。ただ、一つだけ条件がある」
人差し指を私の前に立て、ニヤリとした彼の表情が途轍もなく悪そうに見えて、思わず後ずさった。
「事は相談なんだが、ここを辞めて軍本部の〈古書館〉に司書として来る気はないか?」
「古書館!? 遠慮します!」
「おい、即答しなくてもいいだろ」
「嫌なものは嫌なんですっ。お断りします!」
軍人な上に
それを管理しているのは魔女の
日々、押収品に染み込んだ人の記憶を読み取って、それを文字に起こし、記録・保管していると聞く。つまり、彼は私に
小さい頃からずっと革手袋をして、力のことを隠してきたというのに。何が嬉しくて、この力を存分に発揮しなければならない古書館に、自ら望んで行かなければならないのか。まったくわからない。
「私、
「それは俺も断る」
彼もまた食い下がる。横を通り抜けて逃げようとすれば、彼が前に立ちはだかって行く手を
「古書館は万年
「何と言われようと、私は行きません! それ以外に用が無いのでしたら、ここで失礼します。私には司書としての仕事がたくさんありますので」
深々と頭を下げ、彼の横を足早に通り過ぎた。けれど、彼は逃がさんと言わんばかりに私の腕を掴んで引き止めた。
「俺の申し出は断らせない。必ず手に入れるから覚悟しておけ、七瀬ミズキ」
こんな時でも、私の体は本当に正直で困ったものだ。
この人に関らない方がいい。頭ではわかっていても、一時でも恋していた体は、たかが名前を呼ばれただけで、いちいちドキドキしてしまう。多分、顔が熱くなっているから、頬か耳の辺りが赤くなっているかもしれない。
「な、なんで、私の名前!? あっ、手袋から?」
「
手を出されたけれど、私はそのままそっぽを向いた。
「私の力は不安定なんです。見たくないものも、見てしまうから。遠慮します」
「じゃあ、こっちから名乗っておく。
そう告げて、彼は踵を返した。
背中が遠ざかり、通路を曲がって、
あんなにも知りたかった彼の名前を、こんな形で知ることになるとは思わなかった。神様は案外、
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