夢喰いの魔女~帝国軍古書館に魔女は棲む~
野口祐加
第1章 帝国軍古書館に魔女は棲む
第1話 「悪イ男」
眩い
歳は30を少しばかり過ぎたくらいだろうか。
私より一回りほど上の、大人の男性だ。
窓の外には、この〈帝都カムイ図書館〉自慢の、樹齢200年を越える老桜が満開の花を咲かせていた。雪のようにヒラヒラと、濃い桃色の花弁が舞い散る景色を背景に、どこか気だるそうに本を読んでいる。その姿は猛々しくも美しい。まるで額に納められた絵画を見ているみたいだった。
「ミズキ、半分手伝って!」
貸出受付脇の作業机で、新刊の受け入れ作業をしていた私のもとへ、同期の司書で幼馴染みのアカネがやってきた。切羽詰ったような言い方に何事かと顔を上げれば、私の前にドンッと返却処理を終えた図書の山を置いた。
「配架なら〈
「今、全部出払っちゃってるの」
「今日の返却図書、そんなにたくさんあった?」
「ホロン博士が来ているからよ」
と、アカネはうんざりした顔をして書庫を見上げた。
受付から見える中二階の書庫に、ボサボサの白髪に薄汚れた白衣、真鍮製で武骨な眼帯をつけた初老の男性が、気難しい顔をして本を読んでいる。この帝都〈カムイ〉では名の知れた機械人形技術士で、ちょっと変わり者の名物博士だ。定期的に図書館へやってきては、研究に使う資料を大量に借りていくのだけれど、これが少々厄介。
ここに勤務する司書達は、返却された大量の図書をもとの書架に戻す際、〈
蒸気機関で稼働するこの箱に本を入れて運ぶことで、重い本を持つこともなく館内を移動できる優れもの。その便利さに目を付けた博士は「わしにも使わせろ」と、いつの頃からか使うようになった。
最初こそ一台ほどで済んでいたものの、今では四台も独占してしまうから、仕事の効率は落ちるし作業も進まない。司書達も手を焼いていた。
「あれは時間かかりそうだね」
「残りの〈
「残念だけど、私も手が離せないの。新刊の受け入れ作業中だから」
「ふーん。その割には集中してないじゃない。蔵書印、見てみなさいよ」
「……あっ」
手元を見て、思わず唖然とした。
見返しに押した蔵書印を、上下逆さまに押してしまっていた。すでに作業を終えた図書も慌てて確認すると、最初の3冊ほどは問題なく押していたのに、それ以降の本全てが逆さになっていた。
「あぁ、やっちゃったぁ……」
「どうせ彼のこと見て、ぼーっとしてたんでしょ」
アカネはニヤリとして、窓際の閲覧席にいる彼に目をやった。
他人のことなんて興味がないくせに、こういう話題になると活き活きとした顔をする。おまけに
「お願いっ! 主任には内緒にして」
顔の前で手を合わせ、これで何度目になるかわからない“一生のお願い”を使った。とたんにアカネは両手を腰に当てて、ここぞとばかりに偉そうに胸を張った。
「もちろん。だから配架作業、半分手伝ってね」
「わ、わかったよ。手伝えばいいんでしょ」
配架作業で黙っていてくれるのなら、これほど安い口止め料はない。
置かれた図書の山を上から半分。ほんの気持ちばかりおまけして、数冊分を多めに取って膝の上に乗せた。それにもかかわらず、アカネは「こっちもお願いね」と、私が断れないのをいいことに、さらに二冊を追加した。本当にちゃっかりしている。
「それにしても、あの人の何がいいの?」
アカネは眉間にシワを寄せて、ジッと、睨みつけるみたいに彼を見て首を捻った。
「だいたい、何? 軍服にあんな派手な着物、上着代わりに羽織っちゃって。おかしいわよ」
「とても綺麗だよ? それに案外、軍服にも合ってるし。あのちょっとだけ危険で、甘い香りがしそうな雰囲気がいいじゃない」
「あぁ……これは間違いなく“悪い男”だね」
彼のことを何も知らないのに、どうしてそう言い切れるのだろう――そういう私も、彼のことは名前すら知らないから、人のことは言えないのだけれど。それでも、自分が好きになった人を悪く言われるのは、あまりいい気はしなかった。
「悪い男だなんて、勝手に決めつけないでくれる?」
「だって、ミズキが好きになる男は、大抵悪い男ばかりだったじゃないの」
「そ、それは……」
「違うって言い切れる?」
正直、思い当たることがいくつかあって、違うと言い切れないところはあった。認めたくないのだけれど、アカネ曰く、私から好きになった男は“悪い男”らしい。
以前、菓子屋の跡取り息子に恋をしたことがあった。いつも甘い香りを
顔を憶えてもらうまで何度もお店に通って、世間話ができるまでになって、ようやく相手に「付き合って欲しい」と言わせたというのに――。
「きっと、あの人にも何か秘密があるに違いないわ」
「それでも、好きになっちゃったんだから仕方ないでしょ」
「だったら、今すぐ声かけたらいいじゃない。遠くから見てるだけじゃなくてね」
難しいことなんて何もないとアカネは言うけれど、それを実行に移すには途轍もない勇気が必要になる。引っ込み思案な私にはなおさらだった。
嫌な顔をされたらどうしよう、無視されたらどうしよう。考えればきりがないくらい、望まない結末ばかりが頭に浮かんでしまった。
「挨拶くらいなら、できるでしょ?」
「……それができたら苦労しないよ」
投げやりに答え、返却図書を抱えて席を離れた。
彼とどうやって接触を試みるのか、考えるのはまたの機会にしよう。そのきっかけは、これからいくらでもあるはずだから。今は目の前の仕事を片付けるのが最優先。
小さく溜息をついて、ずっしりと重い図書の山に視線を落とした。一番上に乗っているのは分厚い植物辞典。表紙には箔押しされた
「えっと、これは参考資料の書架ね」
自ら呟いてハッとした。
参考資料が並ぶ書架は、彼がいる閲覧席のすぐ後ろにある。近くまで行けば、気づいて目を合わせてくれるかもしれない。それこそ、挨拶くらいならできるかもしれない。微かな期待と緊張を胸に、図書を抱えておそるおそる書架へ向かった。一歩、また一歩と、足を進める度に距離が近づいていく。
参考資料が並ぶ書架の前にやってくると、足音に気づいた彼は反射的に私を見た。
今、この瞬間だ。「こんにちは」と、その一言でよかったのに。目が合ったとたん、胸の中にあった期待が弾け、緊張だけが瞬く間に膨れ上がった。気がつけば、その書架に戻すはずの植物辞典を持ったまま、何事もなかったように別の書架へ移動していた。
度胸が無いにも程がある。挨拶することなんて、どうってことはないのに。図書館の利用者に挨拶をするのは、司書なら誰でもしていること。目が合っただけで怖気づいているようでは、彼と話をするなんていつになることか。
「この調子だと、話をするだけで何年もかかりそうだね……」
植物辞典は後回しにして、他の図書を配架しに行くことにした。
天文学や物理学、それから文学に獣医学。あっちへ、こっちへ、手際良く書架に戻していく。植物辞典を除いて、残りは昆虫図鑑が1冊になった。
動物学の図書が並ぶ書架の前にやってくると、その図書がどこに配架されていたのか、著者名順にずらりと並んだ本の列を、上から順に目で追いかけた。
「昆虫図鑑は、えっと……あっ! あそこだわ」
八段ある棚の一番上の棚に、昆虫図鑑と同じ幅の空間が、本と本の間に1つ開いている。
手を伸ばして図書を戻そうとしたけれど、私の背丈ではどうしても届かない。近くに脚立も見当たらないし、なんとかこのまま収めようと、グッと思いっきり背伸びをした。
「あと、少し!」
爪先立ちでフラフラしていた、そこへ――
「あそこでいいのか?」
不意に声が降ってきた。横から伸びてきた手が、私から図書をさらっていく。その人は背伸びもせず、軽々と図書を書架に戻してしまった。
「ありがとうございます、助かり――」
そう言いかけた言葉は、驚きと一緒に喉の奥で止まった。
手伝ってくれたその人は、あの着物を羽織った軍人さんだった。見上げた先、おまけに目と鼻の先に彼がいる。言葉すら交わしたことがなく、ただ遠巻きに見ているだけだった彼が、こんなにも近くに立っていた。
彼が動く度に、
「そっちの本は?」
「えっ? あっ、こっちは大丈夫です! 配架場所が違う棚なので」
「そう。ところで、それ」
彼は何を思ったのか、私の手を指差した。
「この季節に革手袋なんて、珍しいな」
「あぁ、これですか。えっと……私、冷え性なんです。それに、図書館の仕事をしていると、手も荒れちゃうことが多くて。それで、これを」
「なるほど。変なこと聞いて悪かったな。それじゃ、仕事頑張って」
「は、はい!」
ヒラヒラと手を振って、彼は去っていった。その姿が見えなくなったとたん、私は力なく書架に寄りかかった。
彼が私を手伝ってくれたことや、目を合わせて言葉を交わしたこと。これは本日最大の事件だ。私は本当に単純かもしれない。たったそれだけで、天にも昇るような想いを味わえるのだから。
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