第2話
目を覚ますと、長い睫毛の目と目が合った。
「おはようございます」
「おはよう、よく寝たみたいだね」
今日も今日とて美しい人と暮らせる幸せな日々だ。昼前の微妙な時刻。平日は愛川さんに起こしてもらわない。必要がないなら早起きしたくないタイプなのだ。今日の愛川さんは袖口の広い七分袖の黒いTシャツに、黒いスラックスを合わせていた。銀色のネックレスもいつも通り。
ひとまず昼食までのつなぎとしてインスタントのスープを作ろう。そしてトーストも。あまりに簡単なメニューなので愛川さんに申し訳なさがあるが、前に「ううん、全然気にしないよ」と言われたので甘えさせてもらう。電気ケトルで湯を沸かし、ポップアップトースターに食パンを2枚セットする。このトースターは愛川さんとの生活が始まってから買ったものだ。いかにもな縦に食パンを入れるデザイン、焼き上がりの時の小気味良い音が気に入っている。
朝、愛川さんが僕の家に入ってくる時、僕はそのことに絶対気付かない。眠りが深いとかじゃなくて、きっと夜帰っていく時と同じように全く音も気配も感じさせずに来ているのだろうなと思う。
そして、僕が起きる前であっても勝手に僕のスマホを使ったりテレビを見ていてもらっていいのに、何故か愛川さんは僕が目覚めるまで僕のことを眺めている。僕の寝顔に何かそんなに魅力があるのだろうか。
「どうしていつも僕の寝顔見てるんですか?」
机に置かれた2枚のトースト。2つのスープカップ。中の赤い液体が湯気を立てている。
「あ……嫌、だった?」
「いえ、愛川さんが楽しいならそれでいいんですけど。スマホもテレビも使っていいのに、僕の寝顔でそれ以上に楽しめてるのかなって」
愛川さんは薄い唇を開き、トーストの角っこをがじ……と控えめにかじった。
「楽しいよ。本当にちゃんと楽しい」
そう言った愛川さんは、初めて会った時と変わらず、近寄り難さすらある『雰囲気の美しさ』を醸し出していた。所作や態度からかわいらしさに煙に巻かれることも多いが、ときたま見せる基本に立ち返ったような神秘性がたまらない。
啜ったスープの酸味が、舌根と脳を引き絞るように刺激した。
今日も絵を進めていく。期日までの進行度に余裕はあるが、一度気を抜くと厄介なことになるのを経験上知っている。なのでとにかく進めていく。
気分が乗ったのか愛川さんが、今日は僕の隣に来て作業風景を見始めた。僕は口出しさえされなければ、むしろ作業を見られるのは好きな方だ。ほどよい緊張感で筆が進む。
ふと初めて会った時のことを思い出して、手は止めずに、愛川さんに僕の名刺のことを訊いてみた。
「初めて会った時に僕の名刺渡したじゃないですか、あれ見てどう思いました?」
視界の端で、愛川さんが僕の顔の方を向く。
「驚きはしたよ、あんまり見ない画風のデザインだったから。それよりも急に話しかけられたことにびっくりしたけど……。」
愛川さんが黒い眉をちょっと顰めて、苦笑いをした。僕は一度愛川さんの方を向いてつられて苦笑いする。
「ですよねー……」
「ああ、でも、あの名刺はちゃんと取っておいてあるよ。ほら」
愛川さんはスラックスの後ろのポケットからシンプルなレザーの財布を取り出した。愛川さんの財布を見るのはそれが初めてだった。診察券もポイントカードも無い荒涼としたカード入れに、僕のおどろおどろしい名刺の上部が見えた。それはまるで収まるべき場所で落ち着いているようだった。
「あっ……! 嬉しいです」
財布を元にしまいながら、愛川さんは何気なく言った。
「私は君の珍しい画風……好きだよ」
彼の芯の強い瞳孔が僕を見た。
それは明らかに本心だった。確かに僕は嬉しかった。だけど反射的に、やっちゃいけないことだと分かっていたはずなのに、軽く話題を作るつもりで、僕はこう返してしまった。
「ありがとうございます。でも同じような界隈だとそう珍しいものでもないですし、僕より上手い人なんて沢山いますよ。SNSのフォロー欄なんて本当に才能のある方ばっかりで……」
ダメだ、謙虚のつもりで謙遜するのが癖になってる。こういう時は素直に感謝するだけでいいのに。
「私が気に入ったのは君の『感性』だよ。巧拙じゃない。そして他の人間と同じ作品は無い」
愛川さんが珍しく語調を少し強めて言った。だけどあくまでテンションは低く、温度は平熱で。目を全く逸らさないその姿は人外的で、恐ろしくさえあった。多分本人にそんな気はないが叱られているようで、こんな綺麗な人に言われるのは効いた。
「はい、……ありがとうございます」
萎縮した僕はそう返すのが精一杯だった。そんな僕を見て、愛川さんは動揺して、
「うん、そう、好き、好きなんだよ君が描くもの。だから今後も見せてね。」
と言葉を取り繕った。ゆるく困っていることはよくあるが、愛川さんがわたわたしているのは初めて見た気がする。
「……はい!」
気付けばもう夜だ。食卓に並んだサラダとトマトソースのパスタを前にして、僕はぼんやりした。
こんな状況を楽しんでくれてるんだし、毎日来てくれるから愛川さんが僕のことを悪く思ってないことはわかってはいたけど、ここまで好いていてくれてるとは思い至らなかった。特に『感性』って言葉が良かった。技術と切り離されてる上、感性は完全に一致することはないから。
新鮮極まりない精神状態だからか、なんだか僕の視点が僕から離れて、いつもと別のフィルターを通して世界がより高解像度で見えた。愛川さんがフォークを横回転させながらパスタを食べている。愛川さんの真ん中から少しずらした位置で分けられた薄い色の金髪は、一本一本が繊細で、まるでガラス細工のようだ。それが空気を伴って頭頂部から肩の上まで滑り落ちている。控えめに張り出した額に黒い眉があり、強気な曲線を描いて、金糸とのコントラストに映えている。睫毛は濃くはないが、一本一本が最早作り物じみて真っ直ぐで長くて、特に下を向いたり横を向いたりするとそれがよく分かった。目は明るい場所だと黒目との差異が分かるぐらいの焦げ茶色。霧が出るような厳かな森の木の表皮に似ている。鼻筋が比較的通っているからか、顔全体が欧風に仕上がっている。髪型と相まって女性的な雰囲気も感じるが、しっかりと見てほしい。顎が印象より幅広く男性的であることが分かるだろう。血色の良いピンクの唇が、巻かれたパスタを気持ち良く喰らい込んだ。
「?」
もぐもぐ口を動かしながら、愛川さんが不可解そうな顔をした。ピンクの平均的な厚さの唇が、歯が上下するのにひっぱられて小刻みに動く。中の物を飲み込み閉じたまま動かなくなった唇を見ると、上唇の方がわずかに薄いことが分かった。
「…………そんなに『私』は、美しい見目に見えているの?」
唇が再び動いた。愛川さんの表情と声は、不可解よりも心配という風に変わっていた。僕は愛川さんがどうしてそう案じているかは分からないが、声をかけられたことで幻想から一部戻ってこれた。
「はい。それはもう。前にも話しましたけど、僕は愛川さんで人に対する美しさの概念を得ました」
「それは『私』の見目が整っているということ?」
「世間一般的にはそういう言葉で表されると思います」
「そう…………」
愛川さんは何か考え込んだ。だけどすぐに顔を上げて、僕に言葉をかけた。
「ほら、食べないと冷めちゃうよ。」
僕はサラダの生きの良いレタスを突き刺した。
今日も愛川さんは僕が床に就くまでそばにいた。明かりを消す直前、いつも悲しげな長い睫毛が、今日はより悲しそうに見えた。
「おやすみ」
視界が闇に包まれる。
「おやすみなさい」
愛川さん 濁面イギョウ @nigoritsura
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