愛川さん
濁面イギョウ
第1話
誰かに揺すられる感覚。起きて、と頻りに言う柔らかな声。目が覚めると、そこには絶世の美青年がいた。
「君の好きなテレビ始まっちゃうよ?」
美青年は心配そうに言う。僕の顔を覗き込むこのアングルは、彼のツンとした鼻の穴がよく見えた。
「おはようございます。今日もありがとうございます、愛川さん」
僕がそう言うと彼──愛川さんは、ほんのり微笑んだ。彼は、今日は黒のオーバーサイズシャツを着ていた。胸元にはいつものネックレス。
僕はベッドから立ち上がると、テレビの電源を点けた。幸いにも、目当ての番組の前のニュースが終わるところだった。
ベランダの窓からは、5月の朝の健全な日差しが降り注いでいる。
僕が愛川さんと出会ったのは1ヶ月ほど前、今日と同じく日曜日で快晴だった。僕はどうしても外に出ないといけない用事があり、昼前から動き始め、用事を済ませると14時だった。昼としては遅めだが、おやつにするには少々早い。たまには……と思い、僕はカフェに行くことにした。しかし入店する直前で僕は、1人の人に目が留まった。
そこはカフェのテラス席だった。白いガーデンパラソルの下に、白いテーブルとチェアが備え付けてある。ワンレンのプラチナブロンドの髪。細い真っ黒の眉。はっきりとした目元。お高くとまった鼻筋。紅い唇。黒いシャツに固い黒ジーンズ、胸元にはシルバーのネックレスが光る。足元のあれはブーツだろう。他に客はおらず、テーブルの上には何も置かれていない。その人はテーブルに対して斜めに座って、手足を投げ出し、彼から見て左方向へと無気力そうに視線を遣っていた。視線の先には植え込みの白いツツジがあった。
その人を見た時、僕は人生で初めて人に対する『美』という感覚を得た。それまで無機物や自然や芸術を美しいと思うことはあっても、人間にそういった感情を抱くことはなかった。彼はパラソルの日陰に居ながら、さんさんと輝く春陽の下の白ツツジよりも、よっぽど煌めいていた。
その人生初の衝撃は凄まじく。
「僕の家に来ませんか?」
気付いたらそう言っていた。
「都合の良い時に来て、都合の良い時に帰っていただいて結構です。ただで飯を食える場所として使ってください。僕は貴方の姿を見られればそれでいい」
跪いた姿勢のまま僕は言葉を紡いだ。相手の都合を考慮して出た提案なのだろうが、却って非常識が増している……。
「えっ、みえっ……!?」
そんな非常識な僕に対して出た美しき彼の言葉はこうだ。未だにこれの意味は分かっていない。だが、まるで悪事がバレた子供のような「ゲッ」と言わんばかりの表情が記憶に強く残っている。彼の声は想像より高く柔らかかった。
「えっ、あっ、えっと……」
「申し遅れました、こういう者です。貴方の名前も伺ってよろしいですか?」
僕は身分を明かすため、反射的に名刺を渡した。僕の絵の作風も分かる、自信作だ。
「あっ、あっ、あっ……」
彼は白い頬に朱を差し、眉を八の字にして惑う。もしかしたら見た目より可愛らしい人なのかもしれない。
「愛川、です……」
それが僕と愛川さんの出会いだった。それ以来僕と愛川さんは、ありがたいことにほぼ一日中一緒にいる、同棲のような関係が続いている。
「今週もすごかったね」
「ああいう展開に持ってくるとは思いませんでした」
愛川さんは僕が流したものをなんでも見る。世間的にニッチな番組であるため、見た直後にこうして感想を共有できるのは少し嬉しかった。僕はテレビを切り、台所に向かう。ブランチを作るのだ。昨夜は時間があったので、今日のメニューは仕込んでおいたフレンチトーストだ。
「いただきます」
「いただきます」
皿の上で焼きたてのパンがほかほかとしている。フォークで刺しナイフで一口サイズに切り取る。レシピを見て作ったので不味いはずはなかった。
「どうですか?」
でも好みもあると思うので、愛川さんの感想を聞きたい。
「美味しい……! これはなんて言うの?」
お気に召していただけたようだ。愛川さんはこうやってよく料理の名前を訊く。特殊な事情で育ったとかで、ほとんどの食事を知らないそうだ。
「これはフレンチトーストって言います」
僕の言葉を聞いて頷きながら、愛川さんは既に二口目に取り掛かっていた。お菓子の類も興味津々そうに食べるし、もしかしたら甘いものが好きなのかもしれない。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
ご飯を食べ終わったら僕は、仕事に手をつけ始める。依頼された絵を描くのだ。タブレットでソフトを立ち上げ、ブルーライトカットの眼鏡をかける。画面上の未完成の絵に、付属のペンで色を置いていく。
僕が仕事をしている間、愛川さんは大抵僕のスマホを使っている。彼はスマホも持ってないとのことなので、僕が触ってない時は好きに使っていいことにした。愛川さんはたまに本を読んでいる時もある。僕の家は資料や画集が圧倒的な割合を占めているので、彼の希望に沿えているかは分からない。そして気まぐれに、愛川さんは隣にやってきて、真摯な目で僕が描く様子を見つめることもある。今日はその気分ではないらしい。恐らく、今朝の番組やフレンチトーストについて調べているのだろう。
15時だ。小腹が空いたのでポテトチップスを開ける。うすしお味。
浮世離れした美人の愛川さんがジャンクな食べ物をつまむ姿は、どこか背徳感があった。美味しそうに食べてくれるので嬉しい。
夜。そろそろいい時間なので、夕食を作り始める。手軽にサラダとオムライス。2人分を盛り付け終わって、なんとなく茶目っ気を出したくなって、オムライスにケチャップでハートを書いてみた。流石にこれはないか……?
やってしまったものはどうしようもないので、とりあえず愛川さんに何も言わず出してみる。彼は黄色い卵の上の赤い線で書かれた模様をじっと見つめている……。
「い、嫌でしたか?」
「ハートマーク……?」
「そ、そうです」
愛川さんが徐に顔を上げて僕を見た。
「これって普通のことなの?」
「メイドカフェでよくやるのかも、愛情たっぷり〜みたいな」
メイドカフェに行ったことがないので、完全に偏見で喋ってしまった。
「そうなんだ……」
愛川さんは納得した顔をして、スプーンで一口オムライスをすくった。
「うん、美味しい」
オムライスは前にも一緒に食べたことがある。その時にも今と同じように、『なんか愛川さんにオムライス似合うなぁ』と思ったのだ。
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
夕食を食べ終わったら、録画していた番組を見る。アニメもあればドキュメンタリーや、ひたすら自然を映すだけのものもある。そして時たま愛川さんと会話する。
「日本にはない植生って惹かれます」
「そうなんだ。近くに普通に生えてる草はどう?」
「好きですよ、日常の象徴って感じがして。愛川さんはどうです?」
「うーん、まだ分かんない。あんまりそういうことって考えたことがなくて」
「これから好きなものを見つけられるって素敵ですね」
「……そう?」
「うん」
「そっか」
それで会話は終わる。テレビの映像は流れ続ける。それが良い。互いに欲しいと思った分だけ話すこの間柄が、とても心地良かった。
録画を消化するといい時間になるのでお風呂に入る。愛川さんは僕の家でお風呂に入らない。この関係が始まった時にせっかくだからどうですかと言ったのだが、「いいよ、大丈夫、大丈夫」と断られてしまった。昔から浴槽に浸かっている時にアイデア出しや考え事をするので、つい長風呂してしまいがちだ。
お風呂から上がると、愛川さんが動画を見ていた。
「何見てるんですか?」
「メイドカフェで検索したら出てきたの」
オムライスにはハートどころか猫が描かれていた。
「本家の方がよっぽど凝ってますね……」
次に茶目っ気を出す時はもっと本格派にしよう。
照明の光度を一番暗めにして、僕は布団に入る。愛川さんはベッドの隣で膝をついて、僕を覗き込んでいる。その日の終わりが近づいてきた時の愛川さんは、暗い照明も相まってか、いつもどこか悲しげだ。
「おやすみ」
そう言うのと同時に、愛川さんは部屋の電気を消す。
「おやすみなさい」
僕がそう言うと、愛川さんは音も無く気配も無く、持ってきた合鍵だけを持って、知らぬ間に家を出て行く。
ここまでが、直近1ヶ月間の僕の生活のルーティンだ。
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