ひこうき雲
ケイ
ひこうき雲
桜が咲くにしては、羽織った外套がまだ厚すぎる頃。それでも、確かに冬は霞んでいって、立ち止まっていることはできないと感じさせる頃。高校三年の僕は、東京の大学に合格した。
学校のすぐそばの、込み入った路地の奥にある公園は、僕と健ちゃんの駄弁り場だった。周囲が植木と建物で囲まれていて、木漏れ日を除けば、公園は日中でも薄暗かった。遊んでいる子供は滅多に見たことがない。けれど、見上げた空だけは綺麗だった。薄暗い井戸の底から見上げたような、わざとらしいくらいに青い空だった。
僕と健ちゃんが駄弁るときは、いつの間にか、ブランコに座ることが決まりごとになっていた。
「実感湧かないよな、四月からお前と高校で会わないなんてさ」
と、健ちゃんは言った。健ちゃんがブランコを漕ぐたびに、ただブランコに腰掛けているだけの僕の視界を、だらしなく靴の踵を踏み潰した健ちゃんの足が横切った。ブランコのたてるキイキイとした音が聞こえた。健ちゃんは関西の大学に進学するので、四月からはもう滅多なことで僕とは会わないだろう。
「僕たちも、大学行ったら彼女とか作るのかな」
「合コンとかやって?」
「いや、どうせできないかな」
「俺は30代半ばくらいで、夜のバーで美女と恋に落ちてぇな」
いつものように健ちゃんは、冗談とも本気とも分からないようなことを言った。一年生のときに一回きり同じクラスになっただけなのに、結局、三年間で一番一緒に過ごしたのは健ちゃんだった。
「あれだけ進路を決めるのを渋ったくせに、しっかり大学へ行くんだよな、健ちゃんも」
健ちゃんが昨年、進路指導の先生にこってり絞られたことを、僕はからかってやった。健ちゃんは全く動じることもなく「俺も若かった」と、年寄りじみたことを言って目を細めた。
「あのときの進路希望調査票、どこにあるの」
「たぶんファイルに挟んだままだわ」
ずぼらな健ちゃんは、ファイルに挟んだプリントを一生取り出さなかった。だから、健ちゃんのファイルは辞書くらい分厚かった。そのプリントの地層の中に、白紙のままの進路希望調査票は今も眠っているのだ。
「どうせ進学するなら、そう書けば怒られることもなかったじゃん」
「学校に将来を教えてやる義理は、ないね」
健ちゃんは、漕いでいるブランコからひょいっと、飛び降りた。そして、ブランコから数メートル離れたところに着地した。健ちゃんの外套が、風を受けて、はためた。
健ちゃんは空を見上げた。
「すっげぇ長え」
健ちゃんの視線の先には、一筋の飛行機雲が青空を駆けていた。公園から見える青空を、飛行機雲は、端から端までまっすぐに横断していた。
「地球一周くらいしてんじゃねぇか、あれ」
「気象条件にもよるけど、どこかに終わりはあるよ」
「夢がねぇなぁお前は」
と、ニヤニヤしながら健ちゃんは言った。
「少なくとも、お前が考えているよりはずっと長ぇよ」
◇◆◇
僕が東京に旅立つ数日前、珍しく健ちゃんからメールが来た。たった一文しかそのメールには書かれていなかった。
これから、飛行機雲の終わりを確かめに行こうぜ
僕は荷造りの手を止めて、家の窓から空を見上げた。もちろん、この間の飛行機雲の影も形も、今日の空にはない。今日は雲ひとつない快晴だ。
メールが届いてからものの数分で、携帯電話が震え始めた。健ちゃんからの着信だった。せっかちな健ちゃんらしかった。
「メール、読んだか?」
「うん、でも意味がわからない」
健ちゃんは電話越しに、くつくつと笑った。
「細かいことは気にすんな、とりあえずいつものとこに来いよ」
「構わないけど......それからどうするの?」
「見晴らしのいいとこに行く」
「どこだよ」
「そりゃあ、高校の屋上だろ」
僕が問い返す間もなく、プツリと、一方的に電話を切られた。
最近の高校事情にもれず、僕の高校でも屋上は終日立ち入り禁止だった。在学中はそれにまつわる様々な憶測が飛び交ったものだった。立ち入り禁止なのは、男女が屋上で不健全性的行為に耽っていたからだとか、受験戦争に疲れた秀才が飛び降りたからだとかだ。こういう噂に共通するのは、具体的な事件があってそれに言及するのではなく、どの高校でも同じような内容が流行っているというところだった。
ましてや、すでに卒業式は済んでいて、僕も健ちゃんもどちらかといえば、もう高校の部外者だった。だから、今更、高校の屋上に侵入するのは良い選択とは思えなかった。
僕が公園に到着すると、健ちゃんはブランコに座らずに、立って待っていた。制服のズボンのポケットに、携帯電話と財布だけをねじ込んで、あとは何も持たないのが健ちゃん流のスタイルだった。
「屋上なんて、なに考えてんだよ」
「特に、なんにも」
僕は呆れてため息をついた。下級生たちはまだ授業期間だから、人目だってたくさんある。リスクを犯したわりに、結果として得られるのは、高校の屋上に忍び込んだ、ただそれだけだった。
「進学取り消しになるかもよ」
僕は冗談を言った。健ちゃんならこれくらいのことで動じたりしないと僕は考えていた。動じない健ちゃんに対して、僕がなぜ屋上に上らない方がいいかの理由を滔々と述べ、「相変わらず、頭が固いな」と、健ちゃんが笑い出すのがお決まりのはずだった。
しかし、僕の冗談に対して、健ちゃんはぴくりとも笑わなかった。
健ちゃんは、そっぽを向いて、横顔だけこちらへ向けた。
「それもそれで、いいじゃん」
それから、「もう一年だけ、一緒に馬鹿やれるってことだろ?」と、健ちゃんは独り言のように言った。
僕はしばらく、応える言葉を紡ぐことができなかった。僕たちは、二人して黙りこくって、立ち尽くすことしかできなかった。
健ちゃんはそういう奴だって、僕は知っていた。健ちゃんと馬鹿をやれるのはこれで最後かもしれないって、僕は知っていた。取り戻したいと願うことは、取り戻せないところまで来てしまった証なのだ。
黙り込んだ僕を見て、いつもなら健ちゃんはすぐに意地悪な顔をするところだった。しかし、その健ちゃんすら、眉を寄せて、困ったような、悲しいような顔を浮かべていた。
昼下がりの穏やかな木漏れ日が、風に揺れて、健ちゃんの上を泳いでいた。冬の間は枝しかなかった樹木には今年も葉が芽吹いていて、サワサワと仄かな音を奏でた。すぐそこまで、もう春がやってきてしまっているのだ。
僕は健ちゃんから目を背けて、「わかった」と、だけ呟いた。
「でも、屋上は鍵がかかってるだろ」
さっきまでの気持ちを表に出さないようにしながら、僕は言った。
少しの沈黙の後、「その点は、抜かりなし」と、健ちゃんはポケットから、真新しい鍵を取り出した。さっきまで何もなかったかのように、得意げに健ちゃんは胸を張った。
「昔、勝手に合鍵作ってやったんだ」
本当に、健ちゃんはそういう奴だった。
◇◆◇
半月ほど前に卒業したばかりなのに、久々に来た高校の校舎はずいぶんとよそよそしい印象を与えた。
僕は健ちゃんに、人目につきにくい裏門の方から入ることを提案した。けれど、健ちゃんは正門から入ると言って聞かなかった。そして、押しの強い健ちゃんに、僕が折れる形で落ち着き、僕らは正門から堂々と構内へ入った。
正門はグラウンド脇の道に続いていた。金網越しのグランドからは、体育をする下級生たちの賑やかな声が聞こえてくる。高校という時間が、人生から切り取られた一瞬に過ぎないことを、彼らはまだ知らなかった。そして、僕もまた、その本当の意味をまだ知らなかった。
昇降口までの道のりは順調だった。少しだけ感傷に浸るくらいの余裕さえあった。しかし、あともう少しで校舎内に入れるかというところで、案の定、一番見つかりたくない人物に見つかってしまった。
「おい、お前ら、授業中だろ!」
その大きな声に、僕と健ちゃんは一瞬だけ首を竦めた。
校内一厳しいことに定評のある進路指導の先生だ。必要以上に声が大きく、人を睨めつけるように見るので、僕はこの先生がすこぶる苦手だった。
先生は大股でこちらへ歩いてきた。内心ヒヤヒヤしている僕とは対照的に、健ちゃんは何食わぬ顔で立っていた。あまつさえ、その先生の方へ自ら歩いて行った。少し遅れて僕がその後ろをついて行った。
健ちゃんは先生の前に堂々と立った。
「なんだ、健一たちか」
「教室に残してた荷物を取りに来たんすよ」
「荷物? もうとっくに卒業式は終わってるだろうが」
「だから、担任の先生にせっつかれてるんですよ」
先生は健ちゃんの顔をまじまじと見つめた。僕だったら先生の眼力に負けて目を背けてしまうだろうが、健ちゃんは違った。
「また何か企んでるんじゃないだろうな」
「長年の教師の勘ってやつですか」
憎たらしい健ちゃんの顔に、先生は破顔した。これは予想外だった。先生がそういう風に笑う人だなんて、僕は知らなかった。
「大学に受かったからって、ハメを外しすぎるなよ」
「分かってますって」
「もっとシャッキリしろ。そんなんじゃ社会に出てから苦労するぞ」
それから、先生は健ちゃんではなく僕の方を見た。先生は「友達は選べよ」と、冗談を言って僕の肩を軽く叩いた。
少しだけ僕と健ちゃんは先生と立ち話をした。その後、授業の終わりが近いからと、先生はグラウンドの方へ去っていった。僕と健ちゃんは、その先生の後ろ姿を見送った。
すると、遠くにいる先生に聞こえない程度の声で、「逆に堂々としてた方が怒られないだろ」と、健ちゃんが言った。僕なんかより、ずっと大人びた表情を健ちゃんはしていた。
健ちゃんは社会に出ても苦労しない気がした。
◇◆◇
僕と健ちゃんは、昇降口を通り抜けて、校舎内に入った。それから、階段を使って屋上へと上がっていった。校舎は五階建てで、四階に三年生の教室が割り振られていた。健ちゃんはその四階で、階段をのぼる足を止めた。
「ちょっと教室に寄っていいか?」
「本当に荷物が残ってるのかよ」
「そういうこと」
四階の廊下には、午後の日差しが南向きの窓から差し込んでいた。廊下の脇に備え付けられたロッカーたちは、次の持ち主が来るまでの僅かな静寂を感じていた。四階だけが、他の階とは切り離されて、虚空の上に浮かんでいた。僕と健ちゃんが歩くと、リノリウムの上を靴のゴム底が擦れる音が反響した。
「なにが残ってるの?」
「ファイル」
「じゃあ、教室の外で待ってるよ」
健ちゃんのクラスの前まで来ると、僕はそばのロッカーに寄りかかった。健ちゃんは「分かった」と、言って、教室の中に入っていった。僕は煤けた廊下の壁を眺めて待っていた。もう教室に入ってはいけない気がしたのだ。
なぜなら、自分の教室ではないにしても、一年の間に多くの思い出が染み付いた場所は、僕を振り返らせるのには十分すぎるからだ。
数分後、健ちゃんは何も持たずに教室を出てきた。
「ファイルは?」
「ゴミ箱に捨てた」
「もう要らねぇし」と、健ちゃんは言った。
そして、僕と健ちゃんは教室を後にした。僕たちは、また横並びになって歩き始めた。
屋上は、すぐそこだった。
◇◆◇
屋上に出た僕と健ちゃんを出迎えたのは、曇りひとつない快晴の空だった。幼い子どもが無邪気にクレヨンで塗りたくったように、青い空だった。空には白い鳥たちが群れをなして飛んでいた。鳥たちの影が、剥き出しのコンクリートの屋上に立つ、ちっぽけな二人の頭上を過ぎ去っていった。
「やっぱりないな、飛行機雲」
「当たり前だろ......」
「俺たちが屋上に上がったら、パッと現れるかもしれないじゃん」
健ちゃんは手で日差しを遮りながら、空を見上げた。僕もそれに倣って、空を見上げた。
「高校最後の思い出で、何が悲しくて、男友達と二人きりで屋上デートしてんだろうな」
と、僕は言った。
「俺じゃなくて、可愛い女の子がよかったか」
「欲を言えば、ね」
「可愛い女の子は、屋上に一緒に忍び込んでくれないぞ」
「まぁ......それもそうか」
僕と健ちゃんは二人して、笑った。なにがおかしいというわけではない。僕が笑って、健ちゃんも笑った。それで、十分だった。屋上には楽しそうに揺れる二人分の影が映っていた。
屋上は最後の話をするのにうってつけだった。健ちゃんが近所の女子校を、河川敷を、カラオケボックスを、丘を、線路を、神社を、球場を、駅を、指差した。景色の至る所に、僕と健ちゃんの三年間の思い出が詰まっていた。それら全てをこの街に置いて、僕も健ちゃんもそれぞれの道へ去っていくのだ。
しばらくして、健ちゃんは尻ポケットから紙飛行機を取り出した。その紙飛行機はA4サイズのプリントを折って作られていた。気がつかなかったが、教室でそれを折っていたようだった。
そのプリントに僕は見覚えがあった。
「なにそれ」
「紙飛行機」
「じゃなくて、そのプリント......」
「そ、進路希望調査票」
と、言って、健ちゃんは紙飛行機を空へ放った。健ちゃんの手を離れて空へ飛び立つ瞬間の紙飛行機の姿は、まるで、コマ送りの映画のようだった。
僕たちを屋上に残して、紙飛行機は青空に頼りない軌跡を描いていった。上昇気流に乗りつつ、次第に豆粒のように小さくなっていく。
やがて、紙飛行機は、風に吹かれて見えなくなった。
ひこうき雲 ケイ @undophi
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