第2話 逆さ雪 後編
逆さ雪 後編
あの日も、こんな雪の降る夜だった。
いつまでも来ない潤子を、僕はこの店が閉店になるまで待ち続けていたんだ。
あの日、潤子がこの場所に来なかった理由を「会社の同僚の麻里の家に居た」と言った。
でもそれは嘘だ…根拠なんて何も無い。
それでも潤子が吐いた嘘が嘘と分かるだけの時間を、僕と潤子は一緒に過ごして来た。
潤子と付き合って10年、一度だって別れようなんて思った事はないし、当たり前に僕たちは結婚をして幸せな夫婦になると信じていた。
あの頃…同期入社の連中が責任の有る役職に配置されて行く中、出遅れを感じている僕は結婚を優先する気持ちにはなれなかった。
がむしゃらに仕事をした。
三流の大学しか出ていない僕が、出世コースに乗った同期に食らいつくには、ただ夢中で仕事に没頭するしかなかった。
どんな小さな役職でも良い。
せめて会社の中での自分の立場を確立させてから…結婚はそれからだって遅くはないと思っていた。
10年も付き合って来たんだ。
そんな事はいちいち言葉に出して説明しなくたって、潤子にはちゃんと伝わっていると思っていた。
それなのに…。
僕がこの「トレイン」で潤子を待ち続けた日、何が有ったのか…僕は本当の事を知りたかった。
そして僕はその事にこだわり過ぎていた。
「だからさ、鶴なんか折ってないでちゃんと俺の話を聞けよ」
潤子はいつもこの「トレイン」に来ると、テーブルの上にある紙ナプキンで必ず鶴を折る。
張りのない柔らかい紙ナプキンで作る軟体動物の様なクタクタの鶴。
「ほら出来た。タコちゃん鶴」
いつもなら僕がそれを受け取り、紙風船の様にお腹を膨らませて笑い合えると言うのに、今日の潤子はどこか僕との会話をはぐらかす様にいつも以上にはしゃいでる様にさえ見える。
「待ち合わせしてるのに連絡もない、電話にも出ないなんて普通じゃないだろ」
「またその話し?何回も説明したじゃない。会社で具合が悪くなって麻里が家に泊めてくれたの」
「いくら具合が悪くたって連絡くらい出来たはずだよ」
「本当にいい加減にして、携帯電話は会社に忘れて来たって説明したじゃない。嘘だと思うなら今から麻里に電話して聞いてみなよ。自分の携帯がないと和也に電話しようと思っても番号が分からないじゃない」
「俺の番号くらい覚えてないのかよ」
「じゃあ和也は私の携帯の番号暗記してる?」
そう潤子に切り返され、僕は言葉に詰まる。
ボタン一つでつながる電話…しかもディスプレイに表示されるのは相手の名前だ。
確かに僕も、潤子の携帯電話の番号を暗記してはいない。
「だったら、俺がこの店に居るのは分かっているんだから、店に電話して呼び出してもらうとか、なんだって方法は有るだろう」
僕の声は嫌でも潤子を責めてしまう。
「だからさ、具合が悪かったって言ってるじゃない。私の事を嘘つきみたいに責め立てる前に、身体は大丈夫か?とか何か私の事を心配する様な事言えないの?」
開き直る潤子…。
その様子が尚の事、僕には潤子らしく見えなかった。
「潤子さ、嘘とか隠し事とかそう言うのやめようよ。俺だってこの10年、潤子だけを見て来たんだぜ。潤子の事なんか全部分っちゃうんだよ」
そう言い放った僕の言葉に、遂に潤子は我慢の限界が来たようだ。
「へー、和也って私の事は何でも分かるんだ」
急に交戦的な話し方になる潤子。
「なんだよ急に」
勢いを無くす僕…。
「私の事はなんでも分かるのって聞いたの」
「分かるさ…」
そう、少なくとも潤子があの日、会社の同僚と一緒に居たわけでは無い事だけは直感として分かる。
「じゃあ言ってみてよ。私が何を考えているのか、何を求めているのか、分かってるんならちゃんと言葉にしてみなさいよ」
潤子のボルテージが上がっていく。
目にはうっすらと涙も浮かんでいた。
「なんだよ…話の論点をずらすなよ。今話してるのはこの前の待ち合わせの日のことで、潤子が、何を考えているかって事とは違うだろ」
潤子の反撃に僕は及び腰だ。
「何も違わない。ねえ和也…私、女なんだよ。女が女で居られるのっていくつまでか分かる?自信を持って私は女ですって言えるのはいくつまでか、和也はちゃんと理解してる?」
「女が女で居られるって、女は死ぬまで女じゃないか」
売り言葉に買い言葉…潤子が言わんとしている事はニュアンスとして理解しているのに、それを理解していると言うのは負けを認める様で、そして自分を追い込む様で言葉にする事は出来なかった。
「笑わせないで…。そんな答えしか返せないくせに、私の事を全部分かってるなんて言って欲しくない!」
断固とした潤子の言い方に、僕は完全なる敗者となり下がった。
潤子に嘘を認めさせ、これからの二人の長い人生で二度と嘘をつかない様に、僕が有利な立場で話したかっただけなのに…潤子はどうしても僕に謝るのが嫌な様だ。
僕は男としての立場も面目も失った様な無様な気持ちになった。
こうなった以上は、捨て台詞の一つでも吐いて自分の気を晴らすしか方法は無かった。
「お前なんかおかしいよ。浮気でもしてんじゃないのかよ」
僕は潤子の顔を見ず、まるで独り言を言うように呟いた。
僕はコヒーバのシガリロを一本取り出し、深いため息と共に細い煙を吐き出し、椅子の背もたれにだらし無く背中を預けた。
人生には聞かなければ良かった…と思う事がいくつか有る。
その答えに自分の大切な物を失う答えが含まれているなら、尚の事聞くべきではない。
有りえないと思うからこその憎まれ口だったと言うのに、潤子の答えは僕を打ちのめし、奈落の底へと突き落とした。
「したよ…」
うっかりすると聞き逃してしまう様な囁き。
弾かれた様に潤子を見つめる僕…。
何も言葉は浮かばない。
いや、今潤子が呟いた言葉を聞き間違えではないかと、自分の耳さえ疑う僕がそこにいた。
「したよ…浮気…」
潤子の口の動きと、僕の耳に届いた言葉がシンクロしている。
疑いようのない現実が僕を打ちのめす。
「なんでだよ…」
やっと絞り出した言葉は、そんなどうでも良い問い返し…。
「なんでだろうね…私にも分からない…」
「分からないってどう言う事だよ。相手は誰なんだよ」
それが男のプライドだとでも言うのか、僕は早口で捲し立てる。
「そんな事を知って和也はどうしたいの?重要なのは私が和也じゃない他の誰かに抱かれたって事でしょ?他の事はもうどうでも良いじゃない。和也が大切に思ってくれていた私は…もうどこにも居ないのよ…それだけが現実なの…ごめんね」
黙り込む二人…。
何か話さなきゃ…何か話さなきゃ…必死に頭の中を回転させていると言うのに、この問題の終着点の全く見えない僕には、接ぎ穂となる言葉を見つけ出す事は出来なかった。
「さよなら」
潤子はそう言った後、静かに席を立ちこの店を出て行った。
僕は唖然として、潤子の背中を見送るしか無かった。
一人取り残された店の中…僕は悔しさでいっぱいだった。
先週は待ちぼうけ…今週は潤子に振られて一人店に取り残された。
通い慣れた店だけに、従業員の目が僕を笑っている様に感じていた。
潤子は泣かなかった。
瞳に浮かんだ涙を、潤子はついに一粒も零さなかった。
そして、毅然としてこの店を出て行った。
せめて泣き崩れ、この店を逃げる様に出て行ってくれたら…僕は自分の体裁ばかりを気にしている。
すっかり冷めてしまった苦いコーヒーを一口飲み、僕は帰り支度を始めた。
灰皿の上に置いたまま放置していた、シガリロの火はとうに消えていた。
あれから5年…それは、僕がこの店に再び訪れるのと同じだけの年月が過ぎている。
その5年の間に店の雰囲気も驚くほど変わってしまった。
逆さ雪の降る夕暮れには、スノードームの中にいる様な錯覚をさせてくれた大きな窓も、今はその真ん中ほどで禁煙席と喫煙席に分かれている。
この店の人気の理由が、街を見下ろすこの大きな窓である以上、それは仕方ない事かもしれないが、僕と潤子が好んで座った辺りのボックス席が、磨りガラスのパテーションで区切られているのが淋しく思えた。
僕は少しでもあの頃を感じたくて、禁煙席に背を向け窓の真ん中付近の席に座った。
あの頃と同じ景色の見える席…目の前に、紙ナプキンで鶴を折る潤子がいる様にさえ思える僕がそこにいた。
潤子の行動は早かった。
潤子が僕の前から消えた翌日、潤子は携帯電話を解約した。
僕はどうしてももう一度話し合いがしたくて、潤子の会社に電話を掛けた。
有休を使って休んでいると言われた。
翌日電話を掛けると、今度は退社を告げられた。
アパートも引き払い、それっきり連絡は途絶えたままだ。
今思えば…あの頃僕は潤子と一体何を話したかったのだろう。
何故浮気をしたのか…誰と浮気をしたのか…ちゃんとした理由が有るなら聞いてみたかった。
そして、その理由に僕が納得する事が出来たなら、僕は潤子を許し、もう一度やり直す事が出来ると信じていた。
しかし5年の歳月が過ぎ、僕があの頃より少しだけ大人になって分かる事も有る。
女の浮気…男はそれを許す事は出来ない。
許した振りをして上辺を繕ったとしても、事ある毎に僕は潤子を責め続け、やがて潤子をより深く傷つけてしまったはずだ。
あの時…潤子がとった行動の全てが正しかったと今なら分かる。
あれから5年…僕は誰とも恋をする事が出来なかった。
潤子に対する未練は、日を追う毎につのるばかりだ。
あの時…たとえ潤子とやり直したとしても、僕たち二人に明るい未来は無かっただろう。
5年経った今、再び潤子と巡り合い新たな恋を始めるなら…今の僕なら…潤子の望みを叶えてやれる気がする。
いや、必ず叶えてあげられる筈だ。
コヒーバのシガリロに火をつけ、窓の外の逆さ雪を見つめながら、あの頃潤子と二人で眺めた逆さ雪を思っていた。
潤子を真似て紙ナプキンで鶴を折ってみた。
無骨な僕の指先では紙ナプキンの折り鶴を上手に折る事は出来なかった。
和也に会いたい…。
逆さ雪の降るこんな夜は、特にその思いが強くなる。
コヒーバの香りが…暖かい和也の腕の温もりが、私は恋しくて仕方ない。
あの頃…周りの友達が次々と結婚をし、母親になって行く様子を羨ましく見ていた。
私が望めば、いつだって簡単に手に入る幸せだと信じていた。
それなのに…答えを出さない和也が許せなかった。
あの時、何故私は北村先輩に抱かれたのだろう…。
何度自分に問い掛けても、その答えは今も出ないままだ。
あの時の私は、あまりの罪の意識の重さに、周りのすべての人から自分の存在を消す事しか考えられなかった。
この5年…和也の事を思わない日は無い。
時と共に失った恋は消滅すると言うが、それがただの希望的観測である事を、今の私は身を以て体験している。
たとえ今和也と再び巡り合ったとしても、和也が一人でいるとは限らない。
いや、たとえ一人で居たとしても、一度裏切った私を許してくれるとも思えない。
それでも私は、今の私の思いを和也に伝えたい。
窓の外の逆さ雪を眺めながら、あの頃の様に私は紙ナプキンで折り鶴を折る。
和也と別れたあの日、一粒の涙も落さなかったと言うのに、柔らかな軟体動物の様な折り鶴のうえに、涙が一粒落ちた。
この折り鶴はこのテーブルに置いて行こう。
いつかこの折り鶴が和也への気持ちを運んでくれるのを祈って…。
気持ちの落ち着くのを待って、私は静かに席を立った。
エレベーターに乗り込むと、いかにも軽薄そうなカップルが一緒に乗り込んで来た。
トレインの喫煙席に居たようだ。
「ねえ、ちょっと見たぁ」
金髪のやけに短いスカートを履いた女が言った。
狭いエレベーターの中、聞き耳を立てなくてもその声は私の耳に飛び込んでくる。
「何をだよ」
ブカブカの服を着た男が答える。
「あの窓際の男、くっさいタバコ吸ってるくせにさ、ただ吹かしてるだけなんだよ。私の服に匂いがついちゃうじゃん」
「あれはコヒーバのシガリロだよ」
「何よシガリロって」
「葉巻を細く巻いたやつだよ。葉巻は匂いを楽しむものだから吹かすだけなんだよ」
コヒーバのシガリロと言うフレーズに、私は二人の会話に引き込まれてしまう。
「あんなダサイビジネススーツ着てイタリアーノ気取っちゃてんの?馬鹿みたい」
「そんなの人の好き好きだろ」
「しかもあいつさ、紙ナプキンで鶴折ってるんだよ」
和也だ…コヒーバのシガリロを吸って、紙ナプキンで折り鶴を折るなんて事を、他の男がするはずが無い。
あの店で…あのパテーションの向こう側で、和也は私を思って折り鶴を折っていたのだろうか…。
エレベーターが1階に着き、扉が開くのももどかしく、私はエスカレーターに向かって駆け出した。
シガリロを一本灰にし、僕はトレインの喫煙席を出た。
従業員は忙しいのか、中々レジには現れなかった。
手持ち無沙汰で店の中を見渡した。
禁煙席と喫煙席を分けるパテーションの前の席に、紙ナプキンで折られた折り鶴が有った。
テーブルの上はまだ片付けられてはいない。
たった今まで、潤子がそこに座っていたのだろうか…。
いや、そうに違いない…絶対にそうだ。
「すみません、お金ここに置きます」
僕は千円札をレジに置き、全速力で駆け出した。
「お客さんお釣り」
店の従業員の声が追いかけて来たが、僕は構わず駆け出し、エスカレーターを一目散に駆け下りて行った。
僕は何をするつもりなのだろう…潤子に会って、今更何を言おうと言うのだろう。
分からない…何も分からないのに、潤子に会わなければ…ただその思いが僕に行動を起こさせていた。
エスカレーターを私は駆け上がった。
間に合うだろうか…和也はまだあの店にいるのだろうか…和也に会って私はどうするのだろう…何を言いたいのだろう…理由なんて私にも分からない。
ただ分かっているのは、自分が今どうしようもないくらいに和也に会いたいと言うことだけ…。
僕はエスカレーターを全速力で駆け下りる。
前から女の人が駆け上がってくる。
一瞬、潤子が戻って来たのかと思った。
しかし、その女の人は潤子と似ても似つかない容姿だった。
すれ違いざま…その女の人が僕の名前を読んだ。
「和也!」
見知らぬ女性の声…でもその声は紛れもないな潤子のものだ…僕が間違えるはずはない。
振り返った瞬間、僕はバランスを崩し目の前の全てのものが反転した。
僕の身体が宙に浮かんだ。
周りの景色がゆっくりとスローモーションで動いている。
それでも僕はその声の主から目を離さなかった。
見知らぬ女性の顔の中に、潤子の面影がはっきりと読み取れた。
潤子だ…あの頃とは髪の色も服のセンスもすっかり変わっているが、それは紛れも無く僕が愛したただ一人の潤子だった。
「潤子!」
勢い良くエスカレーターから転げ落ちながら、僕は潤子の名前を読んだ。
転げ落ちた勢いでアタッシュケースの中の書類が散乱した。
どこかにぶつけたのだろうか…右足の膝に激痛が走る。
それでも、僕はお構いなしに下りのエスカレーターを駆け上がる。
エスカレーターの回転で、走っても走っても潤子との距離は容易には近付かなかった。
和也だ。
前から勢い良く走ってくるのは紛れもなく和也だった。
和也の名前を読んだ。
和也が勢い良くエスカレーターを転げ落ちる。
私は上りのエスカレーターを駆け下りる。
どんなに急いでもエスカレーターは私を押し戻し、和也のそばに駆け寄る事が出来ない。
パンプスのヒールが折れた。
私はバランスを崩し、エスカレーターのベルトにしがみつく。
無情にも上りのエスカレーターは私を一番上まで押し戻す。
私はパンプスを脱ぎ捨て、再び上りのエスカレーターを駆け下りた。
和也との距離が近付いて来た。
潤子との距離が縮まる。
そして僕たちは…
そして私たちは…
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