逆さ雪
sing
第1話 逆さ雪 前編
逆さ雪 前編
あの日も…こんな雪の降る日だった…。
札幌の目抜き通り…南2条の西4丁目。
昔は路面電車の始発駅だった場所に渋谷のスクランブル交差点を小さくした様な横断歩道がある。
四つ角には三越、PARCO、4丁目プラザ、日の出ビルを従え、そこから背の高いオフィスビルやデパートが広がっている。
その交差点を上から見下ろせる唯一の場所…。
PARCOの5階に有るcafe「トレイン」だ。
春、夏、秋は人の往来を見ているだけでも楽しいが、冬…特にこんな粉雪の舞う夕暮れ時には景色が一変する。
碁盤の目のように区画された札幌の目抜き通りを吹き抜けた北風が、小さなスクランブル交差点に集まり、空から舞い降りたその粉雪を、
まるで地上から雪が空へ降るように…まるでスノードームの中にいる様に、見る人を錯覚の中に導いて行く。
誰が最初に呼んだのかは知らないが、街の誰もがこの現象を逆さ雪と呼ぶ。
夕暮れの逆さ雪は、街のネオンサインの穏やかな明かりを集め、同時に街の喧騒を遮り、静かに街を眠りの中に鎮めてしまう。
空から…そして地上から勢いよく降り注ぎ、まわりの景色を遮断する逆さ雪…。
それは…時に見るものに悲しみを与え、またある者に慕情を抱かせる。
私は…和也と二人で見る逆さ雪が好きだった。
たった一杯のコーヒーと、和也がくゆらす紫煙の香りが和也への愛情を深めてくれた…。
和也の好きなコヒーバのシガリロの香りが、私の記憶に今も深く刻まれている。
そう…それはもう思い出に変わるほど、遠い昔のことだと言うのに…。
和也と別れて5年の歳月が通り過ぎて行った。
なのに…私は今も和也の事を忘れる事が出来ず、粉雪の舞う日はなぜかこのカフェに足が向いてしまう。
こんな粉雪の舞う日、「トレイン」から見る窓の景色は今も変わることはない。
逆さ雪が私の未練をも覆い隠そうと、冷たい北風に乗って私の心の中を通り過ぎ、雪を降り積もらせて行く様だ。
5年の時の流れ…あの頃と違うのはたった一つ…この店に禁煙スペースが設けられ、街を見下ろす窓が二分されたこと。
あの頃、二人が決まって腰掛けた辺りの、ボックスの真ん中にパテーションが置かれている。
分煙化された店の中、煙草の匂いは禁煙席には届かないと言うのに、私は喫煙席のパテーションに背中を預け、コヒーバの香りを探している。
長すぎた春…。
和也との関係を簡単に説明するなら、その一言に尽きる。
大学のサークルで出会ってから10年…中々結婚を切り出さない和也に、私の苛立ちは増していった。
だからと言って…私がした事は許されることではない。
例えそれが私の意思ではなかったとしても…。
「19時にトレインで待ってるよ」
和也からの電話。
社会人になってからの和也は、どこが事務的な話し方だ。
そこに私は寂しさを感じる。
たった一杯のコーヒーで、何時間も語り合えたはずの二人。
それなのに…あの時の二人は、もう出会った頃の二人ではなかった。
和也の誘いに精一杯のお洒落をして出掛けても、和也は何も言ってくれない。
「綺麗だね」
嘘だっていい…女にはそんな一言が欲しい時だってある。
時間通りの待ち合わせ。
すっかり減ってしまった会話…。
例え逆さ雪を二人で見ていたとしても、冷める暇もなく飲み干すコーヒー。
いつものレストラン。
ホテルで重ね合う体と体。
今となっては、何時もの週末がそこに有るだけ。
たまには思い切り遅刻をし、和也を苛立たせてやろう…。
そんな
今思えば、あれは偶然だったのだろうか…。
約束の19時…私はモスコミュール一杯分の抗議を和也に与えるつもりで、待ち合わせ場所にほど近いショットバーの扉を開けた。
バーテンダーが私の目の前にモスコミュールを置いた時、背中で私を呼ぶ声が聞こえた。
「あれ、潤子ちゃん」
振り返った先にいたのは同じ会社の北村先輩…。
私に気がある事は会社の誰もが知っている。
「今の彼氏と別れたらさ、俺と付き合ってよ」
お酒の席では有ったけれど、本人から直接言われたこともあった。
悪い気はしなかった。
いつも冗談ばかり言って、底抜けに明るい北村先輩。
もし私に和也がいなければ…一度も思わなかったと言えばそれは嘘になる。
その北村先輩が私の後ろに立っていた。
「お疲れ様です」
私はにこやかに答えた。
「彼氏と待ち合わせ?」
「違いますよぉ」
そう、この店は和也との待ち合わせ場所では無い。
だから私は嘘なんか吐いてはいない。
「一人?」
「はい」
「じゃあ隣に座っても大丈夫?」
「全然大丈夫ですよ」
私はそう言って、隣の席を北村先輩に勧めた。
「ホーセズネック」
北村先輩が注文したカクテルの名前を私は初めて聞いた。
螺旋状に切られたレモンの皮がグラスの口に掛けられている。
ブランデーをジンジャーエールで割った甘いお酒…。
「すっごくお洒落なもの飲むんですね」
「カクテルが好きでさ」
ビールしか飲まない和也の事が頭に浮かんだ。
「いつもこのお店に来るんですか?」
「いや、初めてだよ。色んなショットバーによく一人で行くんだ」
「なんかめちゃくちゃかっこよく無いですか?トレンディドラマの主人公みたい」
おそらく和也は、こんなお店に一人で入った事さえないだろう。
北村先輩と恋人の和也…無意識に比べている私がいた。
電車に乗る時、マナーモードにしたままの携帯電話がハンドバッグの中で震えている。
和也からの電話…見なくても分かる。
まだ出るものか…私はそう思っていた。
「お洒落っていうなら、会社の女の子で潤子ちゃんに敵う人はいないでしょ?」
北村先輩の言葉に、心の奥の弱い部分をくすぐられた様な気がした。
「もう先輩ったらぁ、誰にでもそんなこと言うんだからぁ」
私は嬉しさを隠し、そんな言葉でごまかした。
「いや、本当だよ。今日もZARAの新作だろ?最近髪の色も少し明るくしたからすごく似合ってるよ」
私の胸の奥に有る感情のスイッチが「パチン」と言う小さな音をたててONになった。
私の髪の色が少しだけ明るくなったことや、和也に褒められたくて選んだ服を和也は一度だって褒めてくれた事はない。
ううん…褒めてくれなくてもせめて気がついて欲しい。
私のそんな思いを、北村先輩はわずかの時間で言葉にしてくれる。
モスコミュールの甘さが私の心の中に浸透していった。
ハンドバッグの中の携帯電話がまた震えだした。
「ねえ、さっきから電話鳴ってない?」
北村先輩が気付く。
「あっ、大丈夫です。たぶん実家だから」
小さな嘘…。
「それより先輩、なんかおすすめのカクテルって有ります?」
モスコミュール一杯分の抵抗を試みたはずなのに、私は二杯目のお酒を注文する気になっていた。
「そうだなぁ…甘くて美味しいお酒ならいくらでも有るけど、美人でスレンダーで指先の綺麗な潤子ちゃんには絶対的にマティーニを飲んで欲しいな」
「マティーニですか?聞いた事はあるけど…それがどうして私なんですか?」
「なんて言うか、ヘップバーンを連想するって言うか…オリーブを齧りながら華奢な指先でカクテルグラスを口に運ぶってのは、誰にでも似合う訳じゃないからね」
「先輩、上手すぎぃ。もしかして私の事口説いてます?」
一杯のモスコミュールと北村先輩の甘い言葉が、私を酔わせていた。
もしこのまま、今日の約束をすっぽかしたら…和也はやきもちをやくだろうか…。
「そう思ってくれても良いよ」
わずかな間をおいて、北村先輩が呟く様に言った。
「えっ?」
私は思わず聞き返した。
「やっぱさ、女の人は30までに結婚して子供を産んだ方が良いよ」
私の心の奥がチクリと傷んだ。
黙り込む私…。
どんなに私が求めても、決して答えの出ない和也との関係。
それにしても…どうしてこの人は私の求めている答えばかりを口にするのだろう。
「ごめん、気を悪くしちゃった?」
私は北村先輩の目を見つめ、ただ首だけを横に振った。
バーテンダーが二杯目のお酒を私の前に置いた。
僅か3オンス足らずのグラスに注がれたお酒…。
串刺しにされたオリーブを一口かじり、マティーニを少しだけ口に含んだ。
粉雪の舞う凍てついた夜に暖かさが寄り添った。
ハンドバッグの中で携帯電話がまた震えている。
北村先輩に気づかれない様に、私はカウンターの上に置いていたハンドバッグを足元に置き直した。
マティーニを私は何杯飲んだだろうか…。
和也との約束の時間はとうに過ぎ、札幌の目抜き通りの街明かりは消えていた。
降り積もった粉雪が街を眠りに包んだ夜…私は北村先輩に抱かれた…。
北村先輩の事を好きになったからではない…この先、私が北村先輩を好きになる事もないだろう…。
和也への当て付けでもない…理由なんか何一つないのに…私は北村先輩に抱かれた…。
こんなに和也の事を愛しているのに…。
ハンドバッグの中で、マナーモードにしたままの携帯電話が時折り震えていた。
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