第33話

 

 席に着いて注文を終えたフィリップは正面に座るオリバーの方へと翠の視線を向けた。

 口角はいつも通りに柔らかくつり上がっている。


「そういえばオリバー」

「はい?」


 フィリップの声にオリバーは佇まいを正して視線を上げた。


「何であそこに居たんだい?」

「何となく……ですね」

「なんとなく?」

「はい。本当に大した理由はないんですよ」


 本当に。

 オリバーも自覚しているが、誰かに言うほどの価値があることでもない。


「逆にフィリップさんはどうして?」

「ちょっとね……」


 誤魔化す様に笑みを深めたフィリップの瞳はそれ以上の追求をするなと言いたげな目をしている。好奇心は猫をも殺す。態々、分かりきっている逆鱗に触れる必要はないとオリバーは自身に言い聞かせる。


「じゃあお互い秘密ですね」

「そうだね……」


 これで話は終わりだと二人は同時に一度目を伏せて、瞬きをしてからまた視線を上に向ける。


「ねえ、オリバーはこの国の現状についてどう思うかな」

「どう……ですか?」


 質問をされても分からない。オリバーにしてみれば今まで生きることだけに一生懸命で、自らを拾ってくれた親代わりの様なマルコの期待を裏切らない為に必死になっていて、国のことなど気にしたことは殆どと言っていいほど無かったのだ。


「……例えばだけど黒人差別とか」

「もう少し、平等になれれば良いと思ってますよ」


 言えるのはありきたりな事。


「ボクは許せないな。悪人が蔓延るこの世の中が。奪うだけの人間が」

「……ちょっとだけ質問いいですか?」


 恐る恐ると言葉を吐き出した。テーブルの下でオリバーの膝は小さく震えている。


「何だい?」


 しかし、オリバーの恐怖など関係ない。フィリップは穏やかな表情をしている。


「フィリップさんの中で物を盗む人は悪ですか?」

「悪だよ」


 彼は揺れないし、迷わない。


「では、生きるために物を盗むしかないという場合は?」

「どんな場合でも物を盗む事は悪だよ」

「そう、ですか」


 フィリップの基準に従うならばオリバーは悪に分類される人間だろう。


「それと同じで人を殺すことも」

「…………」


 言ってはならないであろう言葉がオリバーの脳内を過った。だから、何も言えなかった。押し黙ることしか出来なかった。

 オリバーが自らの過去を口にしなければ、二人の関係はこのまま良好な状態を保てるのだろう。

 なら、このままの方が良い。

 これは必要な嘘なのだ。


「ごめんね、変な話して」


 空気が重苦しくなっている事を自覚したのかフィリップは謝罪を述べる。ならばオリバーも気にするだけおかしな話で「いえいえ」と遠慮がちに返すのが正しいはずだ。


「──お待たせしました」


 しばらく待つと二人分のコーヒーがテーブルに置かれた。


「今日はボクが奢るよ」

「え、いいんですか?」

「さっきのお詫びさ」

「じゃあ、ご馳走になります」


 オリバーはコーヒーにフレッシュミルクを二つ入れてスプーンでかき混ぜてからズズッ、と小さな音を立てて口内に流す。


「オリバーはもしかしてブラックは飲めないのかい?」


 フィリップは余裕そうな、どこか揶揄う様な笑みを浮かべている。


「ええ、まあ……」


 恥ずかしそうに後頭部をかいてオリバーは苦笑する。


「どうだい、チャレンジしてみる気は?」

「いや、遠慮しときます」


 態々、飲めない物を飲む気にはならない。僅かにオリバーの方へと近づけられたカップを持つフィリップの手を見てから、彼は柔らかな否定を吐き出した。

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