氷のような微笑

山城京(yamasiro kei)

氷のような微笑

「自分が存在するには、他者の中に自分が存在しなければならない」どこで見聞きしたのか思い出せない。しかし、今の今まで強烈に記憶に残っている。


 深夜二時、誰もいない。ただ街灯が頼りなく道を照らすのみで、コンビニからも明かりが消えている。人の匂いがしなかった。先の言葉が本当ならば、俺は今、この世界に存在していないのかもしれない。


 歩く。しかしなぜ歩いているのか、そもそもどうして自分はこんなところにいるのか、何もかもがわからなかった。人の匂いの消えた世界を歩くのは、なかなかどうして難しいらしく、何もなさすぎて何か哲学的な事でも考えてしまいそうだった。

これはマズイと大声を上げてみたり、がむしゃらに走って思考を停止させてもみたが、やはり体力が尽き始めると言い知れぬ焦燥感に駆られる。


 目的地を持たずに歩いているのが悪いのかもしれない。そう思い、俺はいつも行く昼は喫茶店、夜はバーという一風変わったお店「リン」に行く事にした。調度良く、ここから歩いて五分もかからない場所にある。


 この時点で俺は、なんとなくだがリンに行けば全て元に戻るような気がしていた。それはきっと、過去色々と思い悩む事があった際に、マスターに話せばなにがしかの答えを得る事が出来たからだと思う。


 思った通り、リンの明かりだけは点いていた。街灯以外に道を照らすものがなかったこれまでの道程と違い、リンの前の道だけはいつも通りの道だった。


 扉を開けると、マスターはいつも通り「おういらっしゃい」と迎えてくれた。オールバックの髪に整えられた白髭、年季の入ったエプロンをつけたマスターと、ズラリと並ぶキープのボトル、店内に流れるジャズに煙草の匂いが焦燥感を打ち消した。

変わらない。このいつも通りに今は何よりも安心感を覚えた。


 渡された熱々のおしぼりで顔を拭き、お冷で喉を潤す。人心地つき、コーヒーを注文した。コーヒーが出来上がるまでの時間、先程の体験をどうマスターに話そうか悩んだ。しかし、結局上手くまとめる事が出来ず、出来上がったコーヒーを運んできたマスターになんともまとまりのないまま先程の体験を伝えた。


 俺が話し終えるまでの間マスターはただ相槌を打ちながら煙草をふかしていたが、それがかえって話しやすかった。


「それはなんとも面白い体験をしたもんだね」口から煙草の煙を吐き出しながらマスターは言った。「夢でも見てたんでないのかい? そこのコンビニだってやってるよ」そう言ってマスターはガラス張りになっている店の扉の方を指差した。


 見ると、確かにコンビニには電気が点いていた。それどころか、先程は真っ暗だったはずのマンションにもチラホラと明かりが見えた。はっきりと人の匂いがする。


「いやでも本当に真っ暗で誰もいなかったんですよ」すっかりと落ち着きを取り戻した俺は煙草に火をつけてコーヒーをすすった。「大声出しても誰も反応しなかったし」


「それはお前優(ゆう)弥(や)、道の真ん中で大声出したって変な人がいるなとしか思わないべさ。優弥だって家にいて外から大声聞こえたからってわざわざ『うるさいですよ』とは言わないでしょう?」マスターは笑いながら言った。


 言われて確かになるほどなと思った。さっきまではマスターの言うように白昼夢のようなものでも見ていたのかもしれない。そうすると、俺は無意識の内にリンに来た事になるが、何か自分自身気付いていないだけでマスターに相談したい事でもあったのだろうか。


 少し考えてみたが何も出てこなかった。最近は、順調とは言わないまでも割りと物事壁にぶち当たる事も少ない。相談する事もないはずだ。


「少しゆっくりしてくといいよ。何か嫌な事でもあったのかもしれない。自分自身気付かないだけで、疲れてるって事はよくある事だからね」


 マスターの目には俺が疲れているように見えたのだろうか。疲れなどあるはずないのに。


 いや、しかしこの人の事だ、なんでもお見通しなのだから俺はきっと疲れているのだろう。そう自己肯定するとなかったはずの疲れという存在がどこかから湧き出てきた。


 存在を認めると、疲れが温かなコーヒーと煙草の煙に溶けて流れ出ていくのがわかった。


「そういえばこの間来てた純子(じゅんこ)ちゃん、覚えてるかい?」

「あのお子さん三人を一人で育てたって人ですよね?」

「そうそう。彼女が置いていったボトルがあるんだけど飲むかい?」

「え、いいんですか?」


「ああーいいのいいの。彼女いつも新しいボトル入れたら少し残ったのは僕にくれるんですよ」記憶が確かならばこの間カウンターでご一緒させてもらった時に純子さんが飲んでいたのは結構いいお酒だったはずだ。「皆優しいよねえ。マスターにってお酒置いてってくれるんだもん。僕は幸せ者だ」言いながら手にしたボトルはやはりそれなりに値の張る酒だった。「ロックにするかい? それとも水割りにする?」


「それじゃあ、ロックで」申し訳なさ半分嬉しさ半分そう答えた。

「はい、わかりました」


 氷の満ちたグラスに琥珀色の液体が注がれていく。パキッパキッと氷の割れる音がした。


 マスターも自分のコップに氷と水と酒を注いだ。乾杯をしてグラスを傾ける。

芳醇な香りに、普段よりも一口が多くなってしまった。熱い液体が喉を焼いたが、それすらも心地よかった。上質な酒というものはこうも違うものなのか。


「美味いですね」自然と感想が口を突いて出た。

「そうだねえ。今日はもう誰も来ないから店仕舞いしようかと思ってたんだよ」

「そうだったんですか? 藤井さんとかも来てなかったんですか?」

「来ない来ない。まあ、週の中日だし、皆忙しいんだろうね。来てくれて良かったよ。おかげで退屈しないで済んだ」

「お店閉じる前でラッキーだったなあ。タダで良い酒も飲ませてもらえたし」


 俺の言葉にマスターは楽しそうに笑った。その顔を見て、なんとなく俺も嬉しくなって思わず笑顔になった。やはりリンで過ごす時間は素晴らしい。

 それから数分煙草を吹かしながら酒を楽しんでいると、不意にマスターが口を開いた。


「そういえば僕にもあったなあ……」

「ん? 何があったんです?」

「さっき優弥が言った事さ。僕も今の今まで忘れてたんだけど、若い頃に同じような体験をしたのを思い出したんです。どうも年を取るといけないね。何事も忘れがちになる」

「どんな感じだったんですか?」


「んん……確か、僕はどこかの公園の丘にいてね。空を見上げると星が沢山輝いていたんだ。それはもう沢山数え切れない程だった。訳もわからなかったけど、感動してしまって寝そべって星を眺めてたんだ。そうすると」マスターは煙草を一口吸うと、煙を吐き出しながらこう続けた。「気が付くと、僕の隣に女の人が座っていたんだ。白のワンピースに大きな白い帽子を被っていたんですよ」


「なんかいいですね、そういうの。綺麗な人だったんですか?」

「それが思い出せない!」マスターは笑いながら言った。「どうも思い出そうとしても顔に黒いボヤがかかってて思い出せないんだわ」

「なんすかそれ」俺も笑いながら言う。「一番大事な所じゃないですか」


「いや本当だよなあ!」そこでマスターは更に破顔した。「なーんでか思い出せないんだ。年は取りたくないねえ」マスターは吸い口しかなくなった煙草を灰皿に押し付けて新しく火をつける。「でも、あの人の微笑みは綺麗だった気がするなあ。冷たいんだけど、なんか吸い込まれるような魅力があってねえ。後にも先にもあんな笑い方をする人は見た事ない」


「でもなんか、羨ましいです。美しい思い出じゃないですか」

「ああそうですねえ」

 そう言ってマスターは昔を懐かしむかのような顔をしながら煙草を吸った。


 それきり、その話題には触れる事無く、当たり障りのない会話をした後退店した。入った時間が遅かったとはいえ、閉店時間ぎりぎりまでいてしまった。今日はもう、ベッドに入って眠りに就こう。調度良い具合に酒も回っている。きっと安眠出来るはずだ。


   ○


 翌日、やはり、というか予想通りというか俺は人のいない世界に立っていた。車が通っていないとはいえ、気が付けば道路の真ん中に突っ立っているという状況はなかなかに恐ろしい。


 とりあえず、歩道に移動してみるついでに手近なところにあった電気の点いていないコンビニの中を覗いてみたが、結果は言わずもがな。他の店なども覗いてみたが、やはり人の匂いはしなかった。


 仕方がないと独りごちてリンに行く事にした。昨日よりも若干遠いが、それでも歩いて一〇分程度だ。苦ではない。


 ゆっくりと歩みを進める。すると、昨日は気付かなかったが、俺が創り出したであろう人のいないこの夢の世界には音があった。ベートーヴェンの「月光」がどこかから聞こえるのだ。本当に小さな、ともすれば気のせいかもしれないという程度に小さな音量。しかし、それでも確かにその音はここに存在した。


 人工的な明かりの消えた世界で、夜を照らす唯一の光は「月光」だった。幻想的なその色は、蒼であり、黄金であり、また透明でもある。月を彩る星々も美しかった。こんな陳腐な言葉でしかこの情景を表現出来ない自分の語彙の無さに失望を覚える。しかし、綺麗なのだ。どう言い繕っても例えようがない程に美しかった。冷たさすら覚えるこの情景は俺の心を激しく揺さぶった。その時だった! 空を見上げていた俺の視界の影に彼女の姿がふわりと映ったのは! 


 動きのないこの世界で明らかな人影が動いた。間違いない、彼女に違いない。俺は確信を持って彼女の影を追った。


 ふわりふわりと一定の距離を保って俺を導くかのように姿を現しては消える彼女。

 俺は走った。しかし決して追いつける気配がない。彼女はまるでスキップでもするかのように現れては消える。


 焦れったい気持ちを抑えつつも彼女を追いかけ続けていると、見知らぬ公園に辿り着いた。周囲を見渡すと、彼女は丘の上に座っていた。


 少し息を整えてからゆっくりと彼女の許へと歩みを進める。


「早いよ。もう少しゆっくり移動してくれたっていいじゃないか。そんなに急いでいたの?」


 膝を抱えて顔を伏せた状態で座っている彼女の前に立って俺は言った。しかし、彼女は俺の質問には答えず、ただ困ったような顔をして笑うだけだった。

 返事を待ったが、返ってくる気配がなかったので俺は彼女の隣に腰を降ろした。


「ここは俺が創り出した夢の世界なの?」

 彼女は答えず、ただ地面に置かれた俺の手をそっと握った。そして空を指差した。


 視線を上にずらすと、季節外れの天の川が綺麗に映っていた。何もかもがどうでもよくなるような、そんな美しさだった。

 暫く無言で輝く星々を眺めた後、俺は彼女にこう聞いた。

「マスターを知ってる?」

 彼女は微笑み、頷いた。


「そうか。やっぱり、君だったのか」この時俺は今自分の心が驚く程に穏やかである事に気付いた。「もう何年も前の事だろうに、マスターは君の事を覚えていたよ。でも、顔はどうしても思い出せないって言ってた」

 彼女はクスクスと笑った。


「そういえば、君を見つけた時、どうしてか君が君だってわかったんだ。なんでかな?」

「それはね……」


 月光に照らし出された二人の影が重なる。時の流れを濃厚に感じた。濃密な時間の中で凍りついたかのような速度でゆったりと流れる時間。


 しかしそんな時間にも終わりが来てしまった。名残惜しさを感じる速度で重なった影が離れると、彼女は俺に向かって「」のような微笑を向けた。


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