役者は揃った

 あっはっはっは、と少年のような明け透けな笑いが、鈴の音のような綺麗な少女の声で響く。

「……」

 仰け反りながら額を押さえる動作も、本当に少年のようだ。

 それを見て、聞いて、どうすれば良いか迷った。

 浮かぶのは戸惑いだ。

 なぜ、笑われているのかがわからない。

 この動作の全てが少年のような、見た目は極上の美少女は、少なくとも今まで自分をバカにしたりはしなかった。笑い声そのものにも、悪意は感じられない。どうせ人の心の機微など自分には読めないから、感じられなくてもないとは限らないのだけれども、少なくとも今まで、この少女から与えられたものは優しさだけだった。

 だから、怒りは湧いてこない。

 拗ねたままの子供の自分よりも精神年齢の高い少女が、見た目通り箸が転んでもおかしい年頃なはずもない。

 だから呆れてもいない。

 どうしてここまで笑われるのか、わからない自分が少し恥ずかしくなってきた。

 自分は色々欠けている。

 子供の頃に人を泣かせた。でも、何故泣くのかがわからなかった。泣かせようと思って何かをしたわけじゃなかった。場の空気を和らげようと、どちらかといえば、子供ながらに気を利かせたつもりだった。だけど、歪んだ大人に囲まれて育った自分は、その言葉が人を傷つけるものであると、気づけなかった。泣かれて驚いて、それから何年も経って、漸く、ああいった言葉は人を傷つけるものだとわかるようになった。

 ただ、わかるようになって、もっと怖くなった。普通の子供が当たり前のように家庭で学んでくることを、自分は学んでいない。単に知らないだけでなく、間違えて覚えていることまである。自分の価値観は歪んでいる。だから、正しいと言われることを必死で学び直した。学び直したけれど、本当にそれが正しいのかはわからない。物事にはいくつもの側面があって、一方では正義とされることも一方では悪となる。だから、あまり人と関わらなくなった。


 だから、自分はまた何か、壮大な勘違いをしているのではないだろうか。

 たくさん笑って、最後には「ああ腹が痛い」とまで宣った少女は、滲んだ涙を人差し指で拭いまでして、ようやっと笑いを納めてくれた。

「ノートって、……くく、」

 訂正。まだ笑いは収まっていなかったらしい。

「あっちなら交換日記かよって突っ込みたくなるところだけど、惜しむらくはこの世界に交換日記っていう概念がないことだな」

 交換日記。

 ……子供の頃、女の子同士でしたことあった気がする。本当にずっとずーっと昔だ。

「侯爵家はかなり裕福な貴族だ。何をねだられようが大喜びで手配しただろうが、流石に盲点だろうな」

「……あの、この世界って、紙って高くないですか? パピルスとか羊皮紙とか……」

「安心しろ。紙は普通に流通してる。……というか、それは一時的な記憶の混乱か?」

「え?」

「オマエ歴史は得意だったはずだろ? パピルスは紀元前……いや、まぁ良い。それで? ノートをねだって、何をしたかったんだ? 交換日記がしたかったわけじゃないんだろ?」

「しませんよ! ……ただ、頭が追いつかないので、日記をつけようと思ったんです」

「日記?」

「そうだ、あなたは? あなたが書いた日記はないんですか?」

「ない」

「……そうですか。人の名前を覚えるのが苦手なので、書いて覚えようと思ったんです」

「なるほど。記憶力は良い方だと思ったけど、顔と同じで名前もダメなのか」

 頷くと、少し考えるような顔をした。

「そうだ。紋章は覚えられるか? 地理は壊滅的だった気がするけど、国旗は?」

「……デザインが複雑なのは無理です。それに、簡単な模様でも、上下左右がひっくり返ったようなのは逆に覚えたりしてしまいますし、パッと見で判別がつかなくて」

「——ちょっと待て。オマエは記憶力が良かったはずだぞ。弟と違って、文字の認識に問題はなかった」

 ……弟はLDだ。learning disability、学習障害。dyslexia、失読症。

 自分はそうではなかった。むしろ言語理解が人より早かった。

「……2回、事故に遭って頭を打ったんです。問題ないって言われたんですけど、そこから記憶力と……想像力も落ちました」

「あ?」

 随分と、低く聞こえた一音が、初めは少女のものだとは思えなかった。だから空耳だろうと思った。

「本が好きだったはずなのに、なかなか読めなくて。のめり込んで時間なんてあっという間に過ぎていったのに、30分も読み続けられなくなりました。あんなに好きだった物語の細部が、どんどん抜け落ちていって、仕事に必要なことも、昔はメモなんて取らなくても覚えられたのに書かないとどんどん忘れてしまう。本から新しい知識を得ようとしても、昔は1分くらい眺めてたらページごと覚えられたのに、必要な部分を書き写して、しかもそのノートを見ながら再現しないとならない」

 それまで、ノートを取ることはあっても見直すことはほとんどなかった。ノートに書けば頭に入る。それなのに、ノートに書いても覚えられない。覚えていられない。まるで人の顔のように、忘れてしまう。

 ノートを持参して見ながら打ち込む自分が、恥ずかしくて落ち込んだ。

「もう良い」

 また空耳だ。空耳じゃないなら、もう一人誰かいるのだろうか。

 訝って顔を上げると、少女の手がこちらに向かって伸びてきた。

 両手。

 驚いて、反射で一歩後ずさった。

 けれど少女はそれ以上に近づいてきた。

「——え」

 初日、鼻についた香気。

 今になって思えばそれは、好ましい香りだ。自分が纏うのではなく、この少女が纏うのならふさわしい香気。

「……あの?」

 温かい。柔らかい。

 自分は人にハグされることはほぼなかった。すごく小さい頃に、祖父や祖母にされたことはあったような気もするが、昔すぎて覚えていない。

 ああでも、恋人や、海外では親しい友人が、ハグをするのもわかる気がする。

 人に抱き締められるのは、下心なんかなくても。

 ないからこそだろうか。

 安心する。

 随分と、安心するものだと知った。

「頑張らなくていい。覚えられないなら覚えられなくてもいい。前にも言ったけど、オマエには今度は幸せになって欲しいんだ」

 一番最初に夢の中で会った時も、確かに少女はそういっていた。そうして、同じように抱きしめてくれた。あの時はまだ、驚きすぎていて、抱きしめてくれたことの実感がなかったけれど。

「……よく頑張ったな」

「——っ」

 ……ああ、ダメだ。

 自分は、その言葉に一番弱い。

「よくやったよ」

 あやすように言われた言葉に、情けなくも次から次へと涙が出てくる。

 ……母じゃなくても、良かったのかもしれない。

 こんな小さな見た目の少女に縋るのは流石にダメかもしれない。

 だけど、少女がそんな迷いを見透かすようなタイミングで、抱く腕にぎゅっと力を込める。

 それに許されたような気がして、両脇に垂らしたままだった手を持ち上げた。

 逡巡しながら、それでも少女の体に触れようと伸ばす。

 触れたら消えてしまうか、もしかしたら夢から覚めるんじゃないかと思っていた。

 けれど、恐る恐る伸ばした指先が触れても、少女の体は消えなかった。

 少女が着ている服の布地のシャリっとした肌触り。

 相変わらず、自分の見る夢はどこまでもリアルだ。時に痛覚まで再現される夢に、実は昔から手を焼いていた。

 だけど、今この瞬間は、それをありがたいと思った。

 消えないことに安心して腕を回した。

 自分は子供を産まなかった。養子も取らなかった。もしも自分が虐待する側に回ったらと思うと怖くて。

 体験学習で幼稚園か保育園を訪問した時以来だ。小さい女の子に触れるのも。

 あの時は抱き上げたけれど、今は縋るように抱きついている。

「オマエはオマエの精一杯をやった。ほんとうに、よく頑張ったな」

 ……本当は、結果が悪かったときに、そう言ってもらいたかったのかもしれない。

 今まで一度も、そんな風に言われたことがなかったから、涙は後から後から湧いてくる。

 頭の片隅で、ああこれが夢でよかったと思った。

 こんなに泣いたら、きっと頭痛もするし、あしたは目が赤いままだろう。

「……良かった」

 小さく溢れた声に、何を思っての言葉かわかりようもないだろうに少女は、まるで「そうだな」とでも言うように、二回、ゆっくりと、こちらに回している手で軽く、優しく背中に触れる。

 幼子を寝かしつけるような動作に笑った。



「メアリー。頼みがあるんだ」

「はい、お嬢様。何なりと。この命にかえても」

「命は大事にしろ。それは良いから。でもできたら叶えてほしい」

「もちろん叶えますとも!」

「言ったな?」

「ええ」

「オレの性格が多少……いやかなり……うーん……めちゃくちゃ変わったとしても、今と変わらず仕えてくれるか?」

「それは……どう言った意味でしょう?」

「そのまま。例えば急に、本を読むのが好きになったり、運動が下手になったり、かわいい服が好きになったり、おしとやかになったとしても」

「まぁ! お嬢様、恋をされたのですか!? お相手はどなたです? 殿下ですか? 男爵ですか? エリザベス様のお兄様ですか? それとも!?」

「……なんでそうなるんだ……いやまぁ、好都合か……じゃあそれで良い。とにかく、そうなっても、メアリーはオレを好きでいてくれるか?」

「もちろんです! お嬢様の恋を全力で応援いたしますわ!」

「……ああ、頼むよ。多分、恋には弱気だろうから」

「まぁまぁ、そんなお嬢様らしくありませんわ! お任せください! 腕によりをかけて、おしとやかなお嬢様にして差し上げます!」

「メアリーは頼り甲斐があるな。だけどメアリー」

「はい?」

「らしくない、はこれから禁句だ」

 我が意を得たりとばかりに、メアリーは大きく頷いた。

「どんなお嬢様でも、私の忠義と愛は変わりませんわ。お嬢様がお嬢様であるなら、誠心誠意お仕えいたします」

「ありがとう。頼みついでにもう一つ。他の使用人にも、それとなく伝えといてくれないか。直接言うのはちょっと……」

「かしこまりました」

「あとは父様と母様だな。……こっちはちょっと難しいが」

「いいえ。お嬢様。簡単ですわ。恋のために変わる決意をした、とお伝えください。奥様に」

「母様に? だけに、か?」

「はい。旦那様には、奥様からそれとなく伝えていただく方がよろしいかと」

「……まぁそうか。父様は母様に逆らえないしな」

「それもそうですが、旦那様には刺激が強すぎますわ」

「なんて?」

「いえ、旦那様をあまり刺激するのはよろしくないかと」

「……まぁ親バカだからな。母様は女だから、恋のために変わろうとしてる、で納得してくれる、か? それとも、女だからこそ、気づくかもしれないな……母様だけは敵に回したくないんだが……父様はどっちだ? 女の心の変化はわからないと、納得するか? それとも、受け入れられずに拒絶するか? それだけは……できればどちらも避けたいが……どちらにせよ……もう、これ以上は耐えられないだろうな……」

「お嬢様? あの……また独り言ですわね? やはり私みたいに頭の回転の鈍い人間はお嬢様には」

「ん? ああ、いや、……なぁメアリー。例えば、生死を彷徨うような大病を患った人間は、性格がガラッと変わったりしても、変じゃないよな?」

「と、思います」

「例えば、頭を思いっきりぶつけて、そこから性格が変わるとかは?」

「ありうる話だと思います。打ち所が悪かった、ということですわね?」

「だな。どっちが父様と母様に受け入れられやすいかな?」

「……あの、お話がよく理解できないのですが……」

「とりあえずそういうことにしとけば、そっちの方がいいかな。いや、この際、両方やっちまおう。頭を打って、恋をして、性格が変わる。よし、これで行こう。ってわけで、メアリー」

「はい!?」

「次にオレが無口になったら、オレは頭を打って性格が変わって、恋をして性格を変えようと決意した、ってことで、よろしく!」

「……お嬢様が次に無口になられたら、頭を打った、ということにすればよろしいのですね? 旦那様と奥様に、そう報告いたします」

「そういうことだ。頼んだぞ」

「はい。……ですが、そこまでしなくとも」

「いや。ここはやっといた方がいいんだ。……万一でもどんな小さな芽でも摘んで置いてやりたいんだ。多分もう……次は耐えられない。何が次になる? 何がきっかけになるかわからない。可能性はなるべく潰しておかないと。あれじゃまるで細い糸一本で繋がってるみたいだ。いつその糸が切れるかわからない。糸の強度が問題だけど……普通だったらなんともないことでも、摩耗した糸は容易く切れる……」

「お嬢様? あの、今度は何を……?」

「ん? ああ、……そうだな。夢の話だ」

「……はい?」

「人と少し違うちからを、ギフトとして受け止められるほど自信がなくて、カースと思い込んだ優しい悲しい女の子の話」

 ……他者との違いを肯定的に認めるには、ある種の優越感が必要になるけれど、それをズルだと卑怯だと思い込むくらいに、潔癖で正義感の強い、優しい女の子の話。

 努力だけが正義だと思い込んでいる、自分が大嫌いな女の子。そうならざるを得なかった価値観に、風穴を開けてやる。

「今度こそ」

 悲しいくらいに優しい女の子に、幸せだと言わせてやる。

 絶対に、生きることにしがみつかせてやる。


 苦しい、辛い、痛い、寂しい、もう嫌だ、気持ち悪い、汚い、嫌い、怖い、逃げたい、疲れた、消えたい、もう、死にたい……


 混ざり合った記憶の中、女の子はいつも叫んでいる。心の中で。頭の中で。決して口には出さず、たった一人で、暗闇の中、寒い夜に外で、団欒の声を耳にしながら、一人で泣いている。声を殺して、身動きもしないで、どんどん溢れてくる涙を蹲って足を抱える痛む腕に押し付けて。


 もう悲劇は終わった。滑稽なほどにあの子を苦しめ続けた悲劇は終わった。

 もう嫌だ、と思ったのなら、だから死にたいんじゃなく。

 もう嫌だから、ここから抜け出して幸せになってやると、今度は。

 あの悲劇の中であの子は、気持ちを奮い立たせることもできずに、ただ絶望して行った。気持ちを奮い立たせるには、抜け出すには、エネルギーがいる。だけどあの環境では、生きるだけで精一杯で、その日を乗り越えるのに精一杯で、死なないでいることに精一杯で、日々、繰り返される悪意に耐えるので精一杯で、何もできなかった。

 だけど。

 たくさん愛されて自分を嫌いじゃなくなったら、自分を汚いと思い込む呪いが解けたら。

「ヒロインは最後には幸せになるもんだろう?」

 もっと生きたい。

 今度こそ、そう、言わせてやる。

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嫌われ者が人気者に転生したけれど、根が嫌われ者なので不安しかない。 安曇唯 @YuuiA

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