窃盗の左右対称性

河童

事象A

 グメテル地区は気持ち悪い人間の吹き溜まりだ。辺りが暗くなる八時過ぎになると、街灯の下に数人のホームレスどもが集まり、不味い酒を片手に賭博に興じる。今日も遅い仕事終わり、俺のボロアパートまで300ヤードのところで背後に人の気配を感じた。


「すまない」

 低い男の声がした。


 気付くのが遅かった。すでに俺の新品のバッグは背後から近づいた男の腕の中にある。俺が咄嗟に振り返ると、ヤツはそれを腕に抱いたまま、俺のアパートとは反対方向に向かって走っていった。暗くて顔すら見えなかった。

 何が「すまない」だ。本当にそう思っているのなら、盗もうなんて気にはならないだろう。どれだけ言葉を並べても、そんなものは免罪符にはならない。


 しかし、非常に困ったことになった。今日の俺のバッグには預かっている事務所の金が入っていたのだ。あの上司にいくら頭を下げようとも、許されるわけがない。それどころか、俺が事務所の金を着服したと騒がれるかもしれない。あいにく今はそれを満たすような手持ちもなければ、貯金もない。


 いっそのこと事務所から逃げてやろうかとも思った。しかし、逃げた先でまた職にありつける保証はない。どれだけアイツが傲慢でも、今の給料が俺の生命線だという現実は変わらない。


 そんなことを考えていると、20ヤード先に男が歩いているのが見えた。暗くてよく見えないが、恐らく道の左側で酒を飲んでいるホームレスを見ている。そのせいか歩幅は狭く、注意が散漫になっていた。


 男は右手でバッグを持っている。それは明らかに上等なもので、この男の生活がいかに楽なものかを想像させた。あの男はそのバッグがなくなっても、俺みたいに生活に困るわけではないらしい。


 俺の判断は早かった。俺はすぐに男との距離を詰めると、そのピカピカのバッグを両手でつかんで引き抜いた。

 その時になって初めて気付いた。そのバッグはさっきまで俺の持っていたものと全く同じ種類のものだった。街灯に照らされ、新品のバッグがピカピカ光っていただけだったのだ。それを見て、咄嗟に俺は一言つぶやいた。


「すまない」


 俺はそれを抱えたまま素早く後ろに走り出した。男の顔は見えなかった。


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