第54話 二つの影は一つになる

 週末の土日を利用して、ぼくとハンナは郊外の廃墟を訪れた。ぼくとハンナが初めて出会ったあの場所だ。

 ハンナの母親が埋葬されている公園跡までたどり着くと、幹の太い樹の根元で、何食わぬ顔で焚き火をしている先客がいた。「間借り男」だった。


 ぼくは三人分のトマト・リゾットを器に盛りながら、彼にこう訊ねた。

「いつ頃、『影の世界』からこちらに来られたんですか?」

 器を慇懃いんぎんに受け取る「間借り男」。いや、もう間借りをしていないのだから、こう呼ぶのは不適当なのだろうか。では何と呼べばいいのだろう。

「つい先日でござる。いろいろ所用がござったゆえ、なかなかに手間取り申した。何はともあれ、ハンナ嬢には感謝しておるであらん」

 ぼくの隣で美味しそうにトマト・リゾットをパクつくハンナが、恥ずかしそうに微笑む。

「(はぐはぐ)……、私は特に何もしていない。私はただ、『あなたの好きなように生きて』と命令しただけ」

「これまでの幾星霜いくせいそう、そのような命令を下して下さった王は存在しなかったでござる。おかげでそれがしは、それがしの望んだ通りに『この世界』に参ることが可能になり申した。かしこみかしこみ」

 相変わらず変わった言葉遣いだと思った。ぼくは本題について触れる。

「狐少年……ぼくたちは『翔太くん』と名付けていましたが、彼はどうなったのですか?」

 いつの間にかトマト・リゾットを平らげた「間借り男」は、どこからか取り出した食後のコーヒーに口をつける。

「貴殿らが名を思い出したということは、かの狐少年がこちらに帰還するのも、そう遠いことではなかろうと察する。けれども、それがいつになるかはわからぬ。それがどこであるかも」

「ハンナの能力で、彼をこちらに呼び戻すことは出来ないんですか?」

 彼は首を振った。

「ハンナ嬢が『命令』出来るのは、あくまでそれがしだけであらん。そもそも、狐少年殿が何ゆえに『この世界』に戻り得るのか、全く相分からぬ」

 ハンナにも何が起こっているのか、よく分かっていないようだった。


 食後、ぼくは家から持参した耐火バッグの中身を、公園の樹の下に埋めた。狐少年の影を燃やした、あの真っ白な灰だ。いろいろ考えた末に、やはりここが一番適当だと思ったのだ。隣には、あの梢さんも眠っている。春の若草も、辺りに芽吹いている。

 


   〇



 その夜、ぼくはテントの中で目を覚ました。何となく眠りが浅く、途切れ途切れの夢ばかりが脈絡みゃくらくもなく浮かんでは消えていた。

 ぼくは傍らで寝袋にくるまっているハンナを起こさないように、そっとテントのジッパーを開ける。夜空はよく澄みわたっていて、どことなく神秘的なものを感じた。月の明かりが意外に明るく、足元にくっきりとした影さえ映っている。

 何をするでもなくそうして佇んでいると、唐突にポケットのスマホが振動を起こした。懐から取り出して、その振動の理由をあらためる。ぼくは驚かなかった。あるいは何かの予感があったのかも知れない。それともこれはまだ浅い眠りの中の、夢の続きなのだろうか。今のぼくはそれを確かめるすべをもたない。

 けれどもぼくはその予感に応答する。たとえ夢であったとしても、ぼくはその続きを確かめようと試みる。

「もしもし」

「こんばんは、お兄さん」

 そう翔太くんは言った。「やっと帰って来れたんだ。どういう風に帰って来たのかと説明しようとしても困るぐらいには、それなりに大変だったよ」

「そうか」

 ぼくは心が震えるような気持ちを抑えながら、やっとの思いでそれだけの言葉を発した。

「……え、それだけ? もうちょっと感動の再会的な、ベタなセリフがあっても良さそうなものだけど、もしかしてそんなに嬉しくない? やっぱり娘といちゃいちゃしたいから、父親は出る幕がないのかな? もしもーし、聞いてる?」

「聞いてるよ」

「まあいいや。積もる話は帰ってからじっくりさせてもらうよ。それと言うのもスマホの残量があまりないんだ。適当な所で充電させてもらいたいと思ってるんだけど、ちょっと土地勘のない場所でね、人家もあまり見当たらないんだ。月が綺麗だから歩くのに支障はないけど、まったくどうしてこんなところに来ちゃったんだろう」

「そのスマホ、ハンナが忘れていったものだよね」

 位置追跡アプリを入れていたはずだから、迎えに行けるかも知れない。

「そうそう、勝手に使わせてもらってたけど、使っているうちによくわからないアプリをいくつかアンインストールしてしまったんだ。これってあまり褒められたことではないよね、自分で言うのも何だけど」

 なかなか逼迫ひっぱくした状況だというのに、ぼくは思わず苦笑してしまう。

「笑ってる場合じゃないよお兄さん。まあ、多分大丈夫だと思う。勘だけど、そんなに遠いところじゃない。具体的な場所を調べたらまた連絡するよ」

「わかった。待ってるよ」

「月が明るいから夜でも分かるんだけど、どうやら私には新しい影が出来たみたいなんだ。いびつでもなく、大きくも小さくもない、ごく当たり前の、等身大の影。どうしてこんなことが起こり得たのか、それは帰ってからゆっくりと考えてみようと思ってる。久しぶりにさゆりさんにも会ってみたいな。もちろん、ハンナやお兄さんにも」

「ぼくも君に会いたかった」

 さゆり姉も、君に会いたがっているよ。もちろん、ハンナも。

「そう言ってもらえるとありがたいよ。そういえばお兄さんに初めて会った日も、こんな明るい月夜だったね。あの時、私が言ったことを覚えてる? 私はずっと影を盗まれたんだと思ってた。けれど、私はずっとこの影を置き忘れていたのかも知れない。木陰こかげにいると自分の影には気付かないように、真っ暗な闇に影の輪郭りんかくけ込んでしまうように」

「うん」

「待っててね、お兄さん」

 そうして通話は切れた。


 しばらくの間、ぼくは手元のスマホを見つめ続ける。月光に照らされた長方形のその機械は、なかなか新しい通知を受け取らない。夜の静寂しじまの中で、ぼくは皮膚の全てが耳であるかのように集中する。どこからともなくやって来ようとする何かの合図を見定めようとする。けれども時間はあくまでゆっくりとしか流れない。ぼくはゆっくりと待つ必要がある。焦る必要はない。こんなに明るい月の下に、ぼくたちはいる。ぼくたちは同じ空の下にいるのだ。その気になれば、いくらでも方法はあるはずだ。


 大丈夫。

 全てはこれから始まる。


 ぼくはなおも佇んでいる。目を覚ましたハンナが、いつの間にかぼくの傍らに寄り添っている。ぼくはこの時間が夢でないことを確かめるように、彼女の温もりを愛おしく抱き寄せる。二つの影は一つになる。獣耳と上着が、寝汗でかすかに湿っていた。

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