第53話 年上のお姉さんの体が触り放題

 その日、「影はがし」の研究所から家に帰る途中、ぼくはあずささんという女性について考えを巡らせながら歩いていた。桔梗さんの伴侶はんりょであり、十数年前に影だけを残して消えた人物でもある。

 影の世界に彼女はいない、と(あくまで間接的にだが)狐少年は言っていた。これは一体どういうことだろう。ぼくはそのことを桔梗さんにも伝えたが、彼は何も言わなかった。何と言えばいいのかわからなかったのかも知れない。

 ぼくは空を見上げる。一塊ひとくれの雲が青空に浮かんでいた。上空は風が強いらしく、少しずつ形を変えながら茫洋ぼうようと運ばれて行く。

 あの雲はどこにたどり着くのだろう。そんなことを考えた。あるいは原形をとどめずに散り散りになってしまうのかも知れない。そんなことも考えた。

 桔梗さんは彼女を待ち続けるのだろうか。道すがら、そのことがいつまでも気に掛かった。



   〇



 自宅のインターホンを鳴らすとパタパタという足音がして、がちゃりと鍵が外れる。

「あ、おかえりー」

「何ださゆり姉か」

 また勝手に作った合鍵で勝手に入ったらしい。いい加減に返してもらおうかと本気で考えている。

「別に変なことするわけじゃないからいいじゃない。ハンナちゃんなら買い物に出掛けてるわよ」

 この頃のハンナは何かにつけてアクティブだ。「ここに来たばかりの頃は家から出ることも滅多になかったのに、本当に成長したわね」

 ぼくはしみじみとうなずく。そういえば今年でハンナも十五歳になるのだ。


 近場のスーパーへ買い物に行ったハンナを待つ間に、ぼくはさゆり姉から携帯電話会社のロゴの入った紙袋を受け取った。

「じゃあ例によって、初期設定はあんたに任せるわ」

 ぼくは例によって、少しは自分でもやったらどうかと心の中で呟いた。

「りょー」

 ぼくは紙袋の中を検分しながら、この世界に戻って来たばかりの頃のことを思い出していた。あれこれの対応に忙しかったので、ハンナのスマホがいつの間にか失くなっていることに気付いたのは、もう少し後のことだった。

 さゆり姉はぼくの淹れた紅茶をすすりながら、自分で買ってきた洋菓子をつまんでいる。

「おかしな話なんだけど、失くなったスマホの解約をしようとしたら何て言われたと思う? そもそもそんな契約はしてないの一点張りよ。何度確認させても同じ回答だったわ。もうあそこの会社使うのやめようかしら」

 愚痴ぐちるさゆり姉を尻目に、ぼくは黙って洋菓子を口に運ぶ。ハンナがどこでスマホを紛失したのかが、何となくぼくにはわかった。

「それは災難だったね」

とだけ、ぼくは言う。そうとしか言えない。

 それと同時に、ぼくはこの世にいなかったことになっている狐少年のことに思いを馳せてしまう。比較的親しくしていたさゆり姉ですら、あれ以来、狐少年のことをほとんど思い出せなくなっている様子だった。

 そのことを思うと、やはり気持ちが落ち込んでくる。ぼくは狐少年のことをこれからも忘れないでいられるだろうか。それとも自分では気付いていないだけで、もう彼のことはほとんど忘れてしまってるのではないだろうか。

 そういうぼくの心中を知ってか知らずか、さゆり姉はいつになく世間話を饒舌じょうぜつに続ける。

「そういえば最近仕事が忙しいせいか、肩が凝るのよね」

「ふうん」

 ぼくにマッサージでもしろという暗黙の要請だろうか。というか何の仕事をしてるんだろう。

「別に普通の仕事よ。それよりたまにはマッサージでもしてくれない? よく考えたら翔太くんにもしばらくしてもらってないし、この際あんたでもいいわ。年上のお姉さんの体が触り放題よ」

「遠慮しとく」

 さゆり姉は不服そうに口を尖らせる。ぼくは二個目の洋菓子をつまもうと手を伸ばすが、その手は宙で止まる。

「……今、何て言った?」

 ぼくはそうさゆり姉に訊いた。さゆり姉はいくつ目かよくわからない洋菓子を口に含みながら、

「ん? さふぁりほふだいのはなひ?」

「違うそこじゃない」


 しばらくして買い物袋をげたハンナが、息を切らして慌てて帰ってきた。ぼくも彼女も、何かの事態が動き始めていることを敏感に感じ取っているようだった。

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