エピローグ
第52話 物語の一部がくり抜かれてしまったように
後日、ぼくは「影はがし」の研究施設で、桔梗さんとゆっくり話し合う機会をもった。
「そうですか。そんなことがあったのですね……」
いつもの白衣姿で、桔梗さんはぼくの長い話に耳を傾けていた。「あの廃墟であなたが姿を消した時は本当に驚きましたが、何はともあれ、こうして無事に会えて嬉しい限りです」
ぼくは出されたコーヒーに口をつける。
「こんなに
彼はよく整った口元を
「さすがに上の方に報告書として出すわけには行きませんがね。私が信じる分には構わないんじゃないですか」
窓外には桜の
あれから――、ぼくとハンナが「この世界」に戻ってきてから数ヶ月が過ぎた。
その数ヶ月はおおむね平穏と呼べるものだったが、はじめの方が大変だった。さゆり姉はぼくがいなくなっていることで大騒ぎをし、警察に捜索願いまで出していたのだ。まずその対応で
つづいてハンナが無事に戻ったことで、彼女はハンナが引くほど大泣きした。
まぁ、さゆり姉のことはおいとくとしても、他にもそれなりに大変なことが目白押しだった。順を追って挙げてみよう。
まず軍用拳銃。
幸い、発砲したのが早朝ということもあり、こちらは全くと言っても良いほど騒ぎにはならなかった。しかしフローリングの
当の拳銃に関しても、扱いに困っている。どうしよう。
「はがさず教」。
この教団がぼくや狐少年、桔梗さんを拉致した件については、ひとまず穏便に済ませることで両者の利害が一致した。
事を荒立てたくないというぼくの意向もあったが、何より大きかったのは、彼らが拉致の件をほとんど覚えていないということだった。なぜあの廃墟にいたのかを、彼らの中の誰一人としてまともな説明が出来なかったのだ。
その上、彼らの証言からは等しく「狐少年」という中心がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。これには彼ら自身も当惑していたようだ。まるで物語の一部がスプーンか何かでくり抜かれてれてしまったようだと、彼らの一人が洩らしていた。
教祖の老人は、あの廃墟のなかで絶命していた。百歳を超えていたらしく、寿命だったらしい。側近に言い遺した最期の言葉は、「天が許そうとも、この私が許さない」というものだったらしい。この期に及んで、彼は何を許したくなかったのだろう。
「はがさず教」は、今も細々と活動を続けている。彼らは今でも「もどき」の影をはがそうとしない。
隔離病棟の老人。
戦時中の人体実験の貴重な証言者であったが、ぼくが「この世界」に戻った時にはもう臨終を迎えていた。
ただし、こちらは事件性が疑われているらしい。延命装置が引き抜かれていた。自発的なものとは考えにくいというが、目撃者はない。真実は、藪の中。
そして、これは初耳だったのだが、かなりの資産家でもあった彼は「影はがし」の研究所設立に多大な尽力をした功労者でもあった。主任研究員の桔梗さんとは、その縁で交流があったという。
葬儀は身内だけの密葬だった。故人の生前の意向で、火葬の前に「もどき」の影を桔梗さんがはがした。そのまま一緒に燃やすつもりだったらしいが、親族に反対されたらしい。そのため、他の多くの「もどき」と同じく、その影は研究所の一角に保管されている。
奇病。
今もなお継続しているが、少しずつ減少の傾向にある。重症化率はほぼゼロに近い。
〇
別れ際に桔梗さんがこんなことを言った。
「戦時中の化学実験については、私が頃合いを見て、何かの形で公表するつもりです。それが故人の望みでもありましたからね」
「狐少年のことも、ですか?」
桔梗さんは首を振る。
「安心して下さい。その少年のことには触れません。触れないほうがいいのだと思います。私自身、その狐少年がいたことをよく思い出せないのです。あの廃墟で会ったことは確かなんですが……」
「彼は確かにいました。ぼくはそれを覚えています」
そう、狐少年は確かにいたのだ。ぼくはそれを覚えている。
桔梗さんは無言で頷いた。少しの沈黙の後で雰囲気を変えるように、
「そうそう、娘のすみれなんですが、またハンナちゃんに会いたいと言ってました。何度もお邪魔するのは迷惑じゃないかと思ったんですが……」
ぼくは構わないと言った。ハンナに同世代の友達が出来たのはいいことだ。
「すみれも一時はショックだったようですが、まあ丸く収まって親としてもホッとしています」
すみれちゃんがショックだったとは、どういう事情だろう。
そう口にすると、桔梗さんはなぜか複雑そうな表情で苦笑いした。
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